兄さんの着ているコットンシャツの、第三ボタンがとれているのに気づいたのは今朝のこと。

 朝食が終わった後に密かに指摘してやると、気づいていなかったのか驚いたように胸元を見て目を見開いた。
 全く、この男は変に気が回るようでいて鈍い。出勤前にオレが気付いたからよかったものの、ボタンがとれたまま基地へ行くつもりだったのだろうか。そんなことをしたら天使様に指を突っ込まれるに決まっている。
「とりあえず服、脱げ」
「…ライルのえっち」
 ばっと胸元を隠して唇を突き出してみせる兄をひん剥いて蹴りだしてやろうかと思った。いい歳をした男の可愛らしい仕草なんて唯でさえ吐き気がするのに、まして自分と同じ顔でそれをやられれば苛立ちも二倍だ。大げさにため息をついてから、ソーイングセットの縫い針を無言でぷすりと胸元を隠す手の甲にさしてやると、ひぃっと息をのんで兄さんが後ずさった。
「おまっ…手は狙撃手の命なんだぞ!?」
「ふーん。で、脱ぐの脱がねえの」
 やる気のない声音で問いかけると、兄さんがしぶしぶコットンシャツのボタンを外し始める。家を出るまでに20分はあるから、繕うこと自体は可能だろう。生憎外れてしまったボタンには小さなラインストーンがついていて、それがシンプルなシャツのアクセントになっていたから、ソーイングセットに備え付けてあったぺらぺらのプラスチックボタンでは浮いてしまう。それでも、外れたまま出勤するよりはましだろう。
 縫い糸を引き出してボタンを繕い始めると、半裸の兄ではなく今度は、向かいのテーブルでサンドイッチをかじっていたティーが興味を示した。物珍しげに目を見開く彼を見て、予想はついていたが一応、問いかける。
「ボタンって、くっつけられるの知ってた?」
 黙ってふるふると頭を振る。おそらくボタンがとれていたらすぐに新しいものを用意していたのだろう。不器用なティーならそういう発想にいくのも仕方がない。
 しかし同時に、ボタンが外れれば繕い、靴下に穴が空けば繕っていた自分がなんとなくむなしく思えた。この、金銭感覚が崩壊しかけたこの家にいると、今までのオレがいかに慎ましく生きていたかを実感する。
「ボタンが違う」
 ティーがそういって一番痛いところをついてきたので、思わず返答に詰まった。やはりどう贔屓目に見ても、上等なコットンシャツに薄いプラスチックのボタンは不似合いだった。
 なくしたんだ、と言い訳をしようとした瞬間、ティーがぱたぱたと自室へと走り、そして、すぐに戻ってくる。手にはラインストーンのついた、見覚えのあるボタンが握られていた。
「これは…」
「それだよ! よく見つけたなティエリア!」
 何かを言おうとしたティーの頭を、背後から兄さんがわしゃわしゃと乱暴にかき回した。繕おうとしたオレには無反応だったくせに、と言いかけて別に誉められたいわけではないのだと思い直す。
 頭を撫でられて淡く頬を染めるティーを見ながら、黙ってきらきらと光るボタンを繕い始める。収まるところに収まっていると、薄いただの黒ボタンよりも何倍もよく見えた。今ばかりは、どこからか見つけてきたティーに感謝せねばなるまいと思った。





 そんな出来事があってから、オレの寝床のソファで奇妙なことが起こるようになった。
 二人掛けにしては少しばかり大きいソファで目覚めると、枕がわりのクッションの横に、なくしたと思っていたものが置かれるようになったのだ。とはいえ、それはなくしても一応諦めのつくものばかりなのでほとんど忘れかけていた。たとえば、ちょっと値の張るいい香りのする煙草があと2本ばかり残ったソフトケースだったり、露店で買った小さなピアスの片方だったり、顔を洗うときに髪を束ねるのに使うシュシュだったり。本当に、くだらないものばかりだった。
 一日二日は兄さんかティーがどこかから見つけて置いておいてくれたのだろうと思ったが、かれこれ一週間続けばさすがのオレでも不審に思う。幸い、容疑者は二人しかおらず特定も容易そうだった。別に突き止めてどうこうしようとは思わないが、このままではどうにも薄気味が悪いので。
「最近なんか、オレの周りのものがよく消えンだよな」
 試しに、帰宅したばかりの兄さんのジャケットをハンガーに戻しながら、さりげなくぼやいてみる。このジャケットは服のセンスが残念な兄の代わりにオレが買い与えたものなのだが、ティーによく似合うと誉められたのが相当嬉しかったのだろう。最近はこればかり着ていた。
 とはいっても、そのときのティーは録画していた通販番組に夢中で、ジャケットを新調したのに気づいているのかすら怪しいようだったが。本人が幸せそうなので黙っておく。
「…お前もか?」
 兄さんが深緑の瞳を見開いてそんなことを言うから驚いた。オレがクローゼットにしまおうとしていたジャケットを奪い、胸元を指さす。
「お前が買ってくれたこれさ、チャックのところにキーホルダーみたいなん、ついてたよな」
「ジッパーのところに、ストラップな。それがどうしたよ」
 無言で指さしたジッパーの持ち手には、ついているはずのストラップがなかった。小さくてあまり目立つものではないから、なくても困らない程度のものだが。オレも話題に出るまでついていることにすら気づかなかった。
「…大方、どっかでひっかけて落っことしたんだろ」
「やっぱそう思うか?」
 へら、と笑って兄さんはあっさり認めた。彼自身もそれほど気にしているわけでもないらしい。笑みを浮かべたまま、更に冗談めかして彼は続けた。
「なんかこの家に越してきた辺りから、やたらものをなくすんだよ。消しゴムとかボタンとか栞とか、くだらねえもんばっかだけど。…お前の言うとおり、浮かれて色ボケてンのかもな」
 笑いながら、だってティエリア可愛いし、とわけのわからないことをつぶやき始める兄を見て返す言葉を失った。もとより容疑者は二人しかおらず、この言動で真犯人も、もしかしたら動機も何となく推測がついてしまったのだが、それにしてもこの男の鈍さには呆れる。気づいてすらいなかったのか。ティーが絡むと、どこまでも幸せな思考回路になる。
 ある意味ベストカップルなのかもしれないが、その分だけ、オレの描いてきたニール・ディランディに対する夢や理想のようなものが壊されていくのが分かった。





 深夜三時を回り、いい加減眠気に耐えるのも限界だった。起きて何かをしてもいいならばたやすいが、横になって毛布をかぶって寝たフリをし続けるのはつらい。うっかり本当に寝入ってしまいそうになり、慌てて跳ね起きたことが数度あった。もっと昼寝でもしておくべきだったかもしれない。
 もうそろそろ諦めて今夜は寝るべきか、と迷ったのも今が初めてではない。ぼうっと頭が重くなり、全身がまどろみで重くなっていく。それでもこの時間まで起きていられたのはひとえに意志の力だった。オレがこの感覚に身をゆだねようと決めた瞬間、すぐにでも眠ることができるだろう。
 ―――しかし。
 オレが腹をくくってまどろみに飛び込もうとした瞬間、居間のドアが開く音がして思わず身を固くした。そろそろと静かに歩み寄る気配に、心臓が跳ねる。耳元でどくどく鳴るそれに、どうか起きていることを悟られませんようにと祈った。彼はあれでいて、妙に聡いところがあるから。
 気配がすぐそばまで来た瞬間、シャリ、と耳元で金属のこすれる音がする。「何か」が枕元に置かれたのだろう。それを確信して、毛布からすばやく腕を出し、手探りで伸ばされた腕ををつかんだ。
「ひっ」
 犯人がちいさく息をのむのがわかり、勢いをつけて彼を引き寄せる。身を起こしてソファに引きずり込み、位置を反転させた。そのとき音を立てて、置かれた「何か」が落下して床に転がる音がしたが、そんなことには構っていられない。ソファに押しつけられ、すとんと腰を落とした彼を見下ろす。何度か瞬きを繰り返して闇に目を慣らすと、紅茶色のひとみと視線が重なった。
「よぉ、ティー。こんな遅くに夜這いか?」
 ティーが気まずそうにふいと視線を逸らす。強情そうにきゅうと引き結ばれた唇を突き出して。オレはまどろっこしいことが嫌いなので、片手でティーを固定しながら空いた方の手で、季節を間違ったサンタクロースからのプレゼントを拾い上げた。しゃらりと音を立てて指に絡むそれは、昔アイルランドで貰ったシルバーアクセサリーだった。
「うっわ、なつかしー。お前こんなのどこで拾ったんだ?」
 鼻先に突き出してやると、ティーの眉間のしわが一本増える。観念した風にため息をつき、蚊のなくような声で言葉を口にした。
「…すまなかった。窃盗…になるのだろうか、これは」
「はァ!?」
 いきなり予想外の単語が出てきて面食らう。最近になって羽織り始めたピンクのカーディガンに包まれた肩が、すっかり小さくなっていた。とりあえず暗がりで話すのもためらわれたので、近くにあったスタンドの灯りをつけると、ティーが泣きそうな面持ちをしていてますますやりづらくなる。軽く息をついてから、ゆっくり頭を振った。
「家族間ならセーフなんじゃね? つか、欲しかったらやるから言ってくりゃよかったのに…似合う、か?」
 そう言ってとりあえず、アクセサリーの留め金を外してティーの首筋に手を回す。しかし、中性的な印象の彼にごついデザインのアクセサリーは、お世辞にも似合うとは言えなかった。大人しく回されながらも、アクセサリーそのものにはあまり興味を示さず、ティーはふるふると頭を振った。
「違うんだ、ライル」
「違うってなにが」
「子どもじみているというのは分かっている。だが、必要だった……というのは、言い訳だな。今更だ」
「どういうことだよ?」
「…説明する。分かってもらえなくても、構わない」
 ティーは一瞬だけ迷うそぶりを見せてから、本当にすまない、とだけ言い残して、ぱたぱたと彼の部屋に走っていった。彼も
 考えてみれば年頃なのだから、てっきり煙草やアクセサリーに興味を示しただけなのかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。予想外の展開に、オレは目を丸くして帰りを待つしかできなかった。



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