居間に戻ってきたティーは、ぱんぱんに膨らんだ夜色のビロードの袋を抱えていた。本来アクセサリーを入れるのだろうそれは、キャパシティをとうに越えてしまっているのか、今にも中身がこぼれそうだ。
 そう思った矢先に、ソファのそばにあったテーブルに中身がぶちまけられる。音を立てて落ちていく中身をひとつひとつ拾い上げると、それはペットボトルの蓋だったり、接続部分が壊れた携帯ストラップだったり、そういった取るに足りないものばかりだった。その中には兄さんが話していたジャケットのストラップもあったので、これらの持ち主もおそらく同じだろう。
 その中に、見覚えのある煙草の箱や片方だけのピアス、それからなくしたことにすら気づいてなかった勤め先のロゴの入った付箋まで出てきた。大きめの袋に一緒くたに詰めているわりには、一つ一つが透明なパックに細かく包装されており、それほど傷んでいる様子は見えない。よく見ると細かく『ロックオン・ジャケットのキーホルダー』『ライル・右耳ピアス』と細かく中身が記されている。タイピングばかりで肉筆に慣れていない彼の悪筆を少し微笑ましいと思い、その笑顔のまますっかりしおれているティーに笑いかける。
「すげえため込んでんな。いつから?」
「ロックオンと、この家に越してきた頃…だと、思う。よく覚えていない。気がついたら、こうして、」
 感情が高ぶっているのか、声のうわずっているティーの頭を撫でてやると、じわりと瞳に涙が浮かぶ。泣くなんて反則だ、と思いながらもつい甘やかしてしまう辺り、オレも色ボケ兄さんの弟なのだろう。
 不器用にしゃべる彼のことばがこぼれ落ちていくのを、ゆっくりと待つ。真夜中の静寂の隙間に、彼はぽつぽつとためらいがちに口を開いた。
「僕のお守りなんだ」
「…お守り?」
「十年も、離れていたきみは笑うかもしれないが……ロックオンが、三週間ほど家をあけたことがあった。そのときは不安で仕方なくて…こころがじわじわと空っぽになっていって、どう埋めればいいのか分からなかった。彼がいなければ生きて、いけないと思った。そういう自分を受け入れることもできず…唯安心が、欲しかった。ロックオンがいなくても、彼はいたのだと確認したかった。それで、だんだん彼のかけらが欲しくて、それで止まらなくなってしまって…」
 彼が毎日兄さんの写真をため込んでいることを思い出した。あれはオレがうっかり見てしまったのだが。愛情という言葉では片づけられない、ある種の異常さすら感じたものだが、今はそれも含めてティーだと思っている。
 生きていく上で正しさばかりではやっていけないということをオレはもう、知ってしまっている。時にはそれを許すことも必要だと思うから。
「笑わねえよ」
 いつか言ったような言葉を繰り返すと、ごめんなさい、と小さく呟いてぽろぽろと瞳から涙がこぼれ落ちた。最近まで、こんな風にオレは素直に泣くこともできなくて、だから十年も離れていたのだと思う。
 この子が羨ましいと不意に思った。できるだけ安心させるように笑っていたいのに、うまくできなかった。大切な相手を純粋に求めることができる相手に、オレはたぶん、嫉妬している。
 だから少し爪を立ててやりたかったのだ。
「オレのがあるのは?」
「それは…」
 少しの間口ごもり、迷いを見せてから、彼は首もとにかけられたオレのアクセサリーを指先でいじりながら言葉を吐き出した。伏せ気味の長いまつげは涙に濡れていて、それを唯きれいだと思った。
「やっぱり、きみがいたのだと確かめたかったのだと、思う」
「…いるじゃねえか、ここに」
「きみはいつかアイルランドに帰るだろう? きちんとした仕事もあり、そこで必要とされている。きみをあまり長い間縛り付けてはいけないと、ロックオンも、言っていて…」
 後半になって消え入りそうな声になったティーの頭を乱暴に撫でた。同時に、寝室で寝入っているだろう兄さんをベッドから引きずり出してはっ倒してやりたい衝動にかられる。勝手なことを吹き込みやがって。オレがどうするかはオレが決めるのだから、妙な気遣いなど要らないのに。どうしてそんな簡単なことが分からないのだろうか、あのバカ兄貴は。あまつさえそれをあっさり信じるような相手に吹き込むだなんて。
「初めて会ったときはあんなに淋しいと、思っていたのに。今はきみといるのが当たり前なんだ。おかしいな」
「当たり前でいいんだよ。家族なんだから」
「…そう、だろうか」
 はじめにひどく避けられていた相手から、こんな言葉をもらってしまって、戸惑うやら感動するやらでもうわけがわからなかった。きょとんと見開いた紅茶色の目を睨みつけて、白々しく諭すしかできない。
 本当は嬉しかった。思わずティーを抱きしめたいくらい嬉しかった。もう二人とひとりではなく、三人で家族なのだと言えるだろうか。ゴッコやフリとしてごまかさなくても。
「オレは、お前らがオレを要らねえって叩き出さない限りいてやるよ。少なくとも、ティーがもっとまともな飯を作れるまでは。だからこんなのも要らねえ。分かるだろ?」
 ティーの首に下がったアクセサリーを指先で弄びながら言い含めると、ようやくティーはこくりと頷いた。それに満足して、テーブルに広げられたオレのものを回収してみせると、慌ててティーが首もとからアクセサリーを外そうとする。
 とっさに指先でそれを制止すると、ティーがまた目を見開いた。オレは笑いながら続ける。
「それはやる」
「しかし…」
「オレはそばにいるし、お前はそれを信じる。約束、しようぜ。ティー」
 そう言うと、ティーは目を見開いたまま、まじまじと自分の薬指にはめてある指輪を見つめだした。その行動を怪訝に思い、眉を寄せると、やがて形のいい口元がほころぶ。泣いて少し腫れた目だったが、何のてらいのない笑い方は素直にきれいだと思った。
「ロックオンも、同じようなことを言っていた。きみ達はやはり家族なんだな」
「お前もだろ?」
「…そうだった」
 そう言って彼は笑みを深める。その白々しいとすら思える物言いがおかしくて、こちらも笑った。





「…なに、その似合わないペンダント」
 起きてくるなり容赦ない言葉を浴びせかけたロックオンを殴りつけてやろうかと思った。もちろん、指輪をしている方の手で。
 似合うか似合わないかはそもそもの問題ではないのだ。それを言うなら、僕の手に指輪なんてものは似合わない。キイを叩くときも料理をするときも正直言って邪魔だ。けれどこれも、約束だから。
「欲しいんなら買ってやるぜ? そんな安っぽいんじゃなくて、もっとかわい…」
「安物で悪かったな色ボケ兄貴」
 ペンダントトップを指で弄んでいたロックオンを、きつく睨みながらライルが言葉を遮る。思わず振り向いたロックオンと同時にこちらもライルを見やると、拗ねたように唇をとがらせる。それがなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。
「オレ、ずっと昔それとそっくりな安っぽいアクセサリーを誰かさんから誕生日プレゼント、とかゆって貰ったんだけど。十年以上大事に保管してここまで持ってきてほんと損したわー。あー忘れたい」
「え…そうだった!?」
「どうだっけなぁ、たった今忘れたー」
 ふにゃんと顔をゆがませて困惑するロックオンも、拗ねているライルもまるで少年のようで、いつも懸命に僕を庇護しようとする彼らとは、また違う一面を見た気がした。そういう様を見るとひどく淋しさを覚えるのが常なのだが、今は素直に笑うことができた。きっと、ふたりが約束してくれたからだ。二人とひとりではないのだと。だからもう、大丈夫だ。
 部屋を去ろうとするライルを追いかけるために、ロックオンが手放したペンダントトップを、そっと握りしめる。体温が残ってほのかに温かいそれに、密かにキスをした。

































 しかし、どこにもいかない、と約束した彼は、このペンダントだけを残してあっさり故郷へと戻ってしまった。
 そのせいでペンダントを見ると彼の言葉を思い出して少しだけ淋しくなる。彼がいて当たり前だった日々はもうなく、料理をひどく失敗してしまったとき、苦笑しながら手をさしのべてくれる相手もいない。



 その代わり、夜色のビロードの袋には何通もの手紙が増えていくようになった。生まれてしまった距離を埋めるように、ロックオンよりも少しばかり丁寧な字でいろいろなことを綴ってくれる。仕事のこと、おいしい店のこと、最近できたという恋人のことなど。読めば彼の声が蘇ってくる。振り返ってももう彼は頭を撫でてはくれないが、代わりにロックオンが手紙をのぞき込んで楽しそうに笑ってくれる。それだけで、今は充分だ。
 約束は守れなかった代わりに、彼は僕に新しいたからものをくれる。ずっしりと重くなっていく袋を枕元に置いて、僕は今日も眠りにつく。
 この袋に、安心よりももっと温かなものを詰めてくれる家族がいることを、僕は本当にしあわせだと、思うのだ。