それが始まったのは、無理をしてカレッジに通い始めた頃だった。

 突然、食費を切りつめる必要も、睡眠時間を削ってアルバイトをする必要もなくなって途方に暮れた。犯人の心当たりなど一人しかいない。状況からすればまさに渡りに船。それが彼なりの思いやりなのだろう。
 それでも、それだけに、オレはずっと怖かった。ずっと対等だと思っていた相手に、お前は無力な存在なのだと突きつけられるようで。
 だから、最初の頃は相変わらず食費と睡眠時間を削って、なるべく手をつけないようにしていた。今思えば、ガキのくだらない意地だった。あいつにだけは頼るものかと、姿を見せず金だけを与え家族面をしている相手を恨む。そうすることで自分の恐怖や、その奥にある無力さを正当化しようとしていた。そうすることで自分はまだ対等なのだと、思いこもうと、していた。十年の月日はゼロにはできないのだと、どこかで分かっていたのに。
 しかし、そんなガキの意地が上手くいく筈もない。無理が祟って倒れるまでそう時間はかからなかった。一人暮らしの部屋で、染みだらけの天井を眺めながら、家族を喪ったとき以来、流していなかった涙を流した。増えていく預金の数字を眺めながら。
 ―――なにやってンだ、オレ。
 低く呟いて、濡れていく横髪と耳たぶが気持ち悪くて、兄さんに会いたいなぁ、と思った。与えてくれる相手がいなくとも、生き抜いてみせると粋がったところで、オレはどうしようもなく無力で、与えられることしか出来ないこどもだった。ひとりで生きていくというのは思った以上に困難で、それでいて人並みの人生を送るというのは更に難しい。それが悔しくて苦しくて怖くて、泣いた。
 結局、何かを諦めなければ前には進めないのだ。それを理解し、己の意地を押し通すか、望んでいた生き方に縋るかの二者択一を迫られたとき、オレは後者を選んだ。無力であることを認め、家族の不器用すぎる思いやりを受け取った。恐怖にも無力感にも慣れてしまえば鈍くなる。やがてそれに感謝できるほどの余裕が出来た頃、いつか、これを与えてくれた相手に会いに行こうと思った。与えてくれた分の金を持って。何年かかってもいい。必ず見つけ出して、突き返す。
 ひとりでは生き抜けられなくとも、対等には戻れるのだと信じたかったのだ。これもつまりは、ガキのくだらない意地だ。いろいろなものを諦めた後、最後に残った意地だから、押し通そうと思った。
 ―――なにやってンだ、オレ。
 けれど、それすらあいつは、あっさりと捨ててみせたのだ。あくまで与え続ける側でいようとする。それを受ける側がもう望んでいないのなら、唯のエゴでしかないのに。幸福の王子にでもなるつもりなのだろうか。その行為を尊いと認めてくれる神様など存在しない。十年前に知った筈だろう。
 カードの入ったプラスチックケースをしばらく見つめ、真っ青になって立ち尽くしているティエリアと見比べる。言うなれば彼も、兄さんのエゴの被害者なのだ。しばらく彼と見ていて分かったことは、まだ幼いのに然るべき教育機関にも行かず、日がな一日家で兄さんの帰りを待つだけの時間を過ごしているということ。それでティエリアが満たされているだけに、少し怖くなる。指輪を与えて、家を与えた家族ごっこ。その実やっていることは飼い殺しと何が変わらない?
 深くため息を吐くと、薄い身体がびくりと跳ねた。それを宥めたくて、こみあげる感情の一切を押し殺して、言葉を紡ぐ。できるだけやさしくなるよう努めたけれど、実際に音になったのは、なんとも平坦な無感情な声だった。
「…兄さんに持ってろ、って、言われたんだな」
「あ…、」
 何かを言いたげに不器用に唇が動こうとするが、今は誰の言葉も、言い訳も聞きたくなかった。音になる前に言葉を重ねて先回りする。
「ごめんな、オレたちのことに巻き込んで。もう分かったから」
 やわらかい言い方をしながら、婉曲にティエリアを排除した。怒りは感じないが、唯ただ静かな哀れみだけがわき起こる。オレという異物を明らかに持てあました風に見えていたのは、こういう意味だったのかと、理解した。それでいて家族ごっこを続行しようとしていた男の無神経さに呆れる。
「分かったって…」
「こういうこと」
 カードをゴミ箱に捨てて、きびすを返す。空っぽの底に当たって乾いた音を立てた。そこにティエリアの息をのむ音が重なる。聞こえないふりをして続ける。
「バカらしくなったから帰るわ。さよーなら、ティエリアちゃん」
 梳いてやったばかりの頭をひと撫でして、薄っぺらい笑みを浮かべたのが最後。荷物をまとめる時間さえ惜しく、財布や端末といった最低限のものだけを鞄に放り込んだ後、玄関へと足を向ける。 
 ―――なにやってンだ、オレ。
 背を向けて、笑みを消した。何もかもがばかばかしく、この場所に来たことを心底後悔した。たぶん、彼は変わってしまって。もう以前のように戻ることは出来ないのだ。過去を夢見ながら無理をして積み立てていた自分は愚かとしか言いようが無く、そのために費やした年月ごとゴミ箱に捨ててしまいたい。遠く離れた場所で、生きているのか分からない相手を思いながら、金を出してくれたことに素直に感謝だけをしていればよかった。家族として、元に戻りたいと望んでしまったこと自体が間違いだったのだ。
 彼は変わってしまって。そんな彼の傍にいるのはオレではなく。代わりにオレに与えられたのは、薄っぺらい家族ごっこだけだ。彼の大切な人はあまり笑わなくなってしまったし、少しでも返したいと思っていた彼には重荷でしかなかった。オレなんて来なければよかったのだ。結局、二人とひとりでしか、ないのだ。
「…行かせない」
 しかし、出口にロックがかけられたことに気づいたのは、間の抜けたことにドアノブに手をかけたところだった。何度かドアノブを動かそうとしても頑なに凍り付いていることを確かめ、ゆっくりと声がする方に振り向いた。今度はやわな笑顔で取り繕うことはやめた。きっとオレはすごい表情をしていたのだろう。背後に立っていたティエリアの、赤い瞳が見開かれた。
「何、やってンだ? お前」
 ゆっくりと、噛んで含めるように問いかける。声音が自分でも驚くほどに冷たくなってしまったが、今度はティエリアも動揺したそぶりを見せない。ロックをかけたのは、それ相応の覚悟があってしたことなのだろうと伝わってきた。それだけに、腹立たしい。
「開けろよ、これ」
「…いやだ」
 ドアを数度ノックしながら言うが、ティエリアはゆっくりと頭を振るだけだ。彼のすぐ傍には端末があり、大方あれで遠隔操作をしたのだろうと推測される。いつの間にか寝室にロックがついたことからも伺えるように、この家のロックはすべてティエリアが制御しているらしい。試しに、兄さんに渡されたキーを用いても無反応だった。諦めてドアから離れ、ティエリアの前へ立つ。軽く睨めつけると、負けじと赤い瞳もこちらに食らいついた。先ほどまでの不器用さは何も感じられない。
「きみが帰れば、ロックオンが哀しむ。せめて、彼が帰ってくるまで待つべきだ」
「…ふうん」
 『ロックオン』のためなら躊躇いもなくこういうことをしてみせる。その純粋さを唯おろかだと思った。ゆっくりと飼い殺され、壊されていくのも分からずに、真っ直ぐに相手を慕い続ける姿が哀れだった。大方相手の方も、ティエリアがそういう奴だから好きになったのだろう。それは愛情ではなく、唯の依存だ。相手がいいなら、と、自分の望みも口に出来ず押し黙るような関係は健全ではない。それを知りながら気づかぬフリをしているのも。そして、その原因を作ってしまったオレ自身も。
「とか言って、オレがいなくなればほっとするだろ? お前だっておかしいと思ってンだろ? こんな遊びみたいな関係」
 ティエリアの肩を掴み、酷薄な笑みで問いかけてやると、指先にある肩がびくりと震えた。それだけで伝わってしまうのがいっそおかしいくらいだ。それなのに気づかないフリをし続けられるからまったく、笑ってしまう。
「そうだ、あいつが哀しむっていうならさ、追い出されるような状況にしてやろうか。オレはあいつみたいな変態じゃねえけど、お前が相手なら大丈夫かも」
 やわらかいだけの、がらんどうの声を出した。言葉の意味を理解するよりも先に、声音と鋭い笑みとの乖離に何かを感じたのか、後ずさろうとしたティエリアの腰に腕を回して引き寄せる。両足の間に足を強引にねじ込み、そっと尻の曲線を撫でる。細い身体が強ばっていくのが面白いくらいに伝わった。胸がすくような気持ちになった。
「……わかった」
 ―――しかし、そこから先が全くの予想外だった。てっきり抵抗されるとばかり思っていた腕が背中に回り、強く引き寄せられたのだ。ひどく手慣れた手つきにこちらの心臓が跳ねる。肩にまるい頭が乗り、そっと耳元に吐息混じりの声が吹きかけられる。少年の低い声である筈なのに、その甘さに眩暈がした。
「床は嫌だ。寝室、なら」
 半ば自棄になっての誘いかけに、まさか乗られるとは思わず、今度はこちらが動揺する番だった。適当に抵抗されて完全に失望されれば良いというくらいの算段でいたのに。このこどもはそれほど『ロックオン』の望みを叶えたいというのだろうか。それはもう愛情ではなく、狂気の域だろう。こんなことは間違っている。それだけは分かる。
「…ちょ、落ち着こうぜ、ティエリアちゃ…」
 オレの制止の声は最後まで口にすることは出来なかった。甘い声を囁いたばかりの唇が、それを塞いだ―――というわけでは、なかった。決して。
 首のあたりに鈍い痛みが走り、意識が薄らいでいく。そこでようやく罠だったのかと気づいた。暗転していく視界の中で立っていられなくなり、薄い肩に鼻を埋める。部屋着からこぼれた匂いは、今朝触れた兄さんのものとまるきり一緒だった。これはきっと、家族のにおいだ。




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