目が覚めると、オレ達は予定通り寝室にいた。オレはセミダブルのベッドを独り占めしており、ティエリアはベッドに腰掛けてそんなオレを覗き込んでいる。兄さんが見たら発狂しそうなシチュエーションだ。
 ―――ただし、両手足の拘束を除けば、の話だが。
 オレの手首をがっちりと固定している布地は、相変わらずところどころが色落ちしていて、皺だらけで、今日散髪に使ったクロスのお仲間であることが良く分かる。こんなところでエコを発揮するなんて、ティエリアは案外家庭に向いているのかもしれないと、どうでもいいことを思った。
「…やられた」
 喉から出た声音は、我ながら間が抜けていた。予想外の展開が続きすぎて、処理が追いつかないのだ。先ほどまで眼前を支配していた苛立ちがいつの間にかなりを潜めているのを感じる。不器用に結ばれた拘束具は、もしかしたら強引に暴れれば解けるような気もするが、もう抵抗する気すら薄れていた。
 おっかなびっくり、オレが梳いた髪を垂らしながらこちらを伺うティエリアに笑いかける。ティエリアは表情一つ変えずに、オレの腹の上に乗り上げた。薄っぺらい外見に似合わず、意外に重たく内臓を圧迫する。そのままキスのひとつでもしてくれるのかと思いきや、彼は胸ポケットから何かを取り出し、オレのシャツの胸ポケットにそれを押し込んだ。
 その拍子に色の濃い髪がオレの胸元に落ちる。焦点を合わせることは難しかったが、きっちりと目視しなくともそれが何であるかは容易に想像がついた。オレが眠っている間にゴミ箱から回収してきたらしい。いつの間に。
「これは、きみのものだ」
 腹に乗ったまましばらく言葉を探すように沈黙して、それから遠慮がちに続ける。拘束している張本人だとはとても思えない殊勝な態度がおかしい。
「きみの想いなのだから、簡単に捨てるのは…良くない」
「……受け取って貰えないのに?」
 茶化すような声音で反論すると、ティエリアは意志の強い瞳でこちらを睨みつけ、大きくひとつ頷いた。
「それでもだ」
「や、無理」
 間隙無く頭を振り、へらっと薄っぺらい笑いを浮かべてみせる。なるべく重たく聞こえないようにと思ったが、それは適うことだろうか。どんなに茶化してみせても、オレの気持ちは重荷でしかないのだ。その理由もちゃんと分かっていて。
「報われてえよ、オレは。兄さんみたいに与えたがりの病気でもない、ティエリアちゃんみたいに純粋でもない、から」
 何をしているのか分からない家族に、送金をし続けるような真似はオレには出来ない。だからこうして会いに来たのだ。それはたぶん、間違っていたのだろうけれど。
 赤い目が一瞬だけ見開かれ、それから観察するように眇められる。オレの顔と、胸ポケットの辺りをしばらく見比べた後、ぽつり、と雨だれのように言葉が落ちてきた。
「誤解だ」
 ふるふると頭を振って、彼が俯いた。意外と重みのあった身体の、それでも薄く尖って見える肩がちいさく震えているのが分かった。押し殺した静かな声がにぶい痛みを伝える。オレはまた、傷つけてしまったのだと思った。
「純粋、というのは違う。僕は彼を、諦められないだけなんだ」
「…バカな奴」
「そうかもしれない」
 顔を上げて、力なく笑う彼の頭を撫でてやりたいと思った。しかし両腕の拘束のためにそれは適わない。たくさんの一方的な感情と、手探りの結果のすれ違いで傷ついた相手に、何を言ってやれば良いのか、オレにはよくわからなかった。今は唯、黙って重みに耐えることくらいしか出来ない。
「ロックオンもきっと、同じなんだ。どうしてもきみを諦められなくて、ばかげたことばかりしている。ばかげてはいるが、分かるんだ。だから僕は、」
「…そうやって、我慢するんだ」
  先を続けてやると、こくりと頷く。取り繕わない態度にこっそりと安堵した。オレと兄さんが話しているとき、曖昧に笑いながら黙ってその場を去ろうとする様を何度も見てきた。そうされるよりは、辛いのだと声を上げた方がまだましな気がする。たとえそれを掬い取ってやれるのが、オレではないのだとしても。
「あんなに我が侭で、諦めの悪いロックオンは知らない。だからきみは、彼の大切な家族なんだ」
 静かな言葉とは裏腹に、赤い目が揺らいだのが分かった。すぐにそれは滴となって頬を滑り落ち、不意打ちにオレは息をのむ。しかしオレにはその涙を拭うことも出来ず、きつい拘束に耐える。もどかしさに歯噛みせずにはいられない。
「きみは報われている」
「ああ」
 出来ることは唯、相手の言葉を受け止めてやるくらいだ。頬を滑り、ぽとぽとと胸に落ちる滴がなまぬるい。
「きみが、羨ましい…」
「…ああ」
 ずっと、二人と一人だと思っていた。来るべきではなかったと後悔していた。けれどそれは相手にしても同じことなのだ。そんな簡単なことに、何故今まで気づかなかったのだろう。一方通行のエゴイストだと責めるばかりでもいられない。
 結局、オレもそうなのだ。自分のことしか考えられず、自分が報われることに必死で、三人目が部屋を去るのを知りながらも黙っていた。全て兄さんのせいにして。力ない笑みを哀れんで済ましていた。それでは、何も変えることなんて出来ないのに。このいびつな関係は。
 オレの上で泣いているティエリアは、あの日、自分の無力さに泣いたオレそのものだった。届かない相手が淋しくて、埋める術を持たず、しかし諦めることも出来ないでいる。ぽたぽたと落ちていく涙が胸ポケットを濡らし、薄いカード一枚がどんどん重くなっていく気がした。もうそれを、捨てようとは思わなかった。涙が拭えない代わりに。
「分かった」
 正直なところ、どうすればこれ以上間違えずに済むのかオレにはさっぱり分からない。唯、諦められない奴らが集まっていることだけは分かる。どんなに苦しんでも泣いても手放せなかったのに、今になって投げ出せるわけもないのだ。
 それが分かったのだから、認めるしかない。だからこれは、覚悟の証明だった。
「家族になろう、ティエリア」
 二人と一人ではなく、三人で。誰も我慢する必要が無く、誰も傷つかないように。羨むこともなく、誰も対等であればいい。それは図らずも兄さんが望み、オレが内心で嗤っていたものだった。しかし、諦め方も分からないのなら、それを求めるしかないだろう。分かったフリをして投げ出したところで、何も変えられない。ならば腹をくくるしかない。最初はいびつでも、少しでもマシになるように。これ以上、あんな風に泣く相手が増えないように。
 小さな指輪も、良く似た外見もなんの証明にはならない。唯のおろかな願いだけが、オレ達を繋いでいた。   







 せっかく一人分の空きががあるのだから、と彼は言った。淋しいのか、と問えば、意趣返しだ、と噛み合わない答えが与えられる。躊躇や居心地の悪さが無いわけではなかったし、ソファで寝るとも主張した。しかし、半ば放り込まれるようにセミダブルのベッドに追いやられては、逃げ道も存在しない。華奢な少年の体躯をしているくせに、存外に力のあることに驚かされた。
「やだ、ティエリアちゃんったら強引」
「気持ちの悪い声を出すな。…消灯するぞ」
 ピ、という電子音の後、部屋が闇に包まれる。輪郭も曖昧な中、相手がするりと毛布の中に潜り込んだのを感じ取った。頭を傾ければ、そこには丸まった背中がある。同衾を持ちかけた相手が背を向けてどうする、と思いながら、一方でその不器用さが彼らしいと思った。だから、赦されるまでは触れない。こちらも背を向けたまま、低い声で問いかける。
「いいのかよ、こんな」
「…何がだ」
「確かに仲良くしろとは言われたけどさ、これはちょっと…やりすぎじゃねえ?」
「セックスはしていない。問題ないだろう」
「せっ…、」
 歯に衣着せぬ物言いに不意を打たれ、こちらの頬が赤くなる。当然と言えば当然だが、ティエリアは何も知らないこどもではないのだ。そのくせ、いい大人がこんなことで照れるなんて笑えない。消灯していて、しかも背を向け合っていて良かった。思わず安堵の息を吐くと、くすりと笑まれて身がすくむ。見透かされたのかと思った。
「言っただろう。意趣返しなんだ。きみは、彼だけが淋しくないのは不公平だと思わないか」
「……それもそうだな」
「気が合う家族で嬉しい」
 笑みと共にはき出された、ひとつの単語に胸が跳ねる。賢明な相手はなるべくさりげなく聞こえるように努めただろうが、さらりと聞き流すにはその言葉はまだ重すぎる。その証拠に、ティエリアは柔らかな枕に頭を埋めて俯せになっていた。完璧に近い演技力を以て口にしたにも関わらず、こういうところで台無しになってしまうのが惜しい。肝心なところで詰めが甘いのは、兄さんに良く似ている。
「…少し前に、どこで寝るか、話したことがあっただろう」
「ん、」
 彼らしからぬゆったりとした物言いのせいで、応えるこちらもどこか舌っ足らずになる。ともすれば穏やかさに負けて、聞き流してしまいそうで。闇の中で神経を耳に集中させた。
「あのときは、きみと寝ることなど死んでも御免だと思っていた」
「…今は?」
 問いかけると、しばらく沈黙が場を支配した。こういうときの間は嫌いではなかった。兄さんが初めて好きな人をオレに打ち明けたのも、エイミーが本当は兵隊のおもちゃを壊したのは自分だと白状したのも、ちょうどこんな沈黙の後だ。だから、待つことが出来た。大切な言葉はここにあるのだと、オレはちゃんと、知っていたから。
「悪くはない」
「そりゃ、嬉しいね」
 闇の中で、背を向けたままなので、相手の表情は分からない。しかしだからこそ、言えることもあるのだと思った。
 家族になる、と言ったところで方法も分からないし、お互いに知らないことの方が多い。 ニール・ディランディという存在を通して、僅かに繋がっているだけだ。今のところは。それでも、彼のいない夜をこうして二人で過ごすことができる。こんな夜を繰り返して、少しずつ距離を縮めていく。同じような淋しさを抱えながら、埋め合うように。

 そうして、何度目かの朝を迎えたとき、家族と呼び合えるようになればいい。そう、思うのだ。