洗面台の前に椅子を置き、ケープ代わりの古いクロスをかけてから座らせる。所々色落ちして伸びてしまったそれは、ティエリアの『学習』の副産物だという。己のミスで洗濯機からこれが出てきたときの、彼の狂乱の有様を想像して、内心で兄さんに同情した。
 クロスの隙間にあった髪を引き出してから、それをコームでなでつける。驚くほど指通りのいい感触は、ハサミを入れるのが勿体ないとすら思えた。しかし、相手はオレのそんな躊躇いなどまるで介さない風に、赤い目を鏡越しにこちらへ向ける。視線が一瞬だけ絡み、それからついと逸らされた。
 落ち着かない視線に、強ばった肩。緊張が伝わる。歩み寄ろうとしているのは、オレだけではないのだ。
「兄さんに似てるだろ?」
「…わからない」
 首を振ろうとしたティエリアを慌てて押さえつけた後、横髪の先端を僅かに切り落とす。花弁のようにゆっくりと落ちていく色の濃い髪に見とれた。しかしそれも一瞬だけだ。ハサミを入れる位置を少し考えたら、斜めに少しずつ切っていく。その手つきに躊躇いがあってはいけない。慎重さと思い切りの良さという、矛盾した二つを同時に必要とする作業だった。
「基本構造は似ているが、やはり違う」
「違う? オレと兄さん」
 やはり頷こうとする相手を、下から顎をつかんで押しとどめた。家族以外にはほとんど見分けられたことなどなく、小さい頃はそれをネタにして遊ぶこともよくあった。見分けるコツを聞かれたこともあったが、雰囲気としか言いようがないのだ。当人同士だってよく分かっていないのだから。
 そうして、オレたち家族が、長年の経験を元になんとなく掴んだ感覚を、知り合って一年にも満たないという彼が共有していることに軽く驚かされた。実際に、彼がオレと兄さんを間違えることは殆どないのだ。彼の場合、経験と言うより頭が良いのだろう。互いの行動の細かい差異を見逃さず、きっちり捉えるのだ。その赤い切れ長の瞳に見つめられると、時折観察されているような気分になる。
「表情の作り方や、言葉の調子…そういう、些細なことばかりだが」
「へぇ。すごいんだな、ティエリアちゃん」
 ハサミを持っていない方の手で、頭をわしわしとかき回すと、ティエリアがぎゅっと身をすくませて目を閉じた。触れてから自分で、まるで子どもに対する接し方だと思う。不快に思われたかと慌てて手を外すが、意外にも彼は上機嫌に笑っていた。首を傾け、肩越しに直接こちらを見やり、誇らしげに言い放つ。
「当然だ。僕は、ロックオンのことなら何だって知っている」
「…なんだって、ねぇ」
 何だって。彼は躊躇いもなく乱暴に括ってみせる。ひどく無邪気な笑い方にはまた引っかかる感触がある。痛みに近い違和感。しかしその正体ははっきりと掴めない。きっと掴んではいけない。
 違和感と共に長い横髪を指でつまんで切り落とす。ぱさりと音を立ててクロスに落ちていく髪の毛を、ティエリアが物珍しそうに追いかける。そのたびに動く頭に狂いそうになる手元を慌てて捻り、なんとかむき身の卵のような白い頬に傷を残さずに済んだ。
 先ほどからの落ち着かない有様はオレが相手だというのもあるだろうが、そもそも他人に髪を切って貰うということに不慣れなように思える。先ほどからことあるごとに頭を動かすものだから、切りづらくて仕方がない。思わずため息を吐くが、そんなオレを見てティエリアは笑みを深めた。からかわれているのか、と思うが与えられたのは意外な言葉で。
「器用なものだな」
「…そうか? ちょちょっとハサミ入れるだけなんだけどな」
 かちかちとハサミを鳴らしながら、もう少し横髪を切っていく。正面の鏡を見ながら左右のバランスを確かめて、今度は反対側を切る。数ミリの長さやハサミを入れる角度でも印象が異なるのだ。悩みすぎるといつまでも髪型が決まらないので、結局大切なのは思い切りなのだが。
「ずっと自分で切ってたから慣れちまったんだよ。美容院行く金も勿体なかったし」
「自分で…」
 ティエリアが怪訝そうな顔をし、思わず手を止める。しまった、と思った。貯金を押しつけておいて金銭面の苦労話をするなんて、恩着せがましいと受け取られやしないだろうか。
「あのな、これは、」
「きみは、すごい。料理の他にこんなことまで…」
 慌てて不器用な言い訳を紡ごうとする前に、感嘆のため息に遮られた。しかし鏡に映った笑顔はどこか陰があり、褒められて素直に喜ぶこともできなかった。大分軽くなった顔周りをコームで撫でつけながら、頭を振る。
「別に、たいしたことしてねえよ」
「そんなことはない。僕には出来ない」
 あのレトルトのピラフを思い出し、反射的に頷きそうになって焦った。俯いた彼の表情を伺うことは出来ないが、薄い背中は僅かに震えていた。彼は多分、不器用なことにすごく、ものすごく、コンプレックスを持っているのだ。それの原因とも言える相手は、不器用なところも可愛いくらいは言いそうだから、それほど落ち込む必要もないと思うのだが、そういう問題でもないのだろう。涙がにじんだ赤い目を思い出して、胸がちくりと痛んだ。その痛みのまま、言葉がごく自然にこぼれ落ちる。
「…ごめんな」
「え?」
「オレ、無神経なこと言った。レトルト嫌いったって、今はそうじゃないかもしんねえのに」
 色の濃い髪を手櫛で梳くと、指の間からさらさらとこぼれ落ちていく。鏡の中のティエリアが困ったように笑った。ゆっくりと頭を振ったのは今度は彼の方だった。僅かに人差し指と中指の間に絡んでいた髪が、ぱらりと落ちていく。やわらかい感触が指に残る。
「きみが謝ることなんて、何もない。謝るのは僕の方だ」
 目を見開くと、ティエリアがゆっくりと振り向いてこちらへ直接笑いかけた。ピラフを捨てながら涙目になっていた相手と同一人物だとはとても思えない、大人びた笑い方に胸が跳ねる。こんな表情もするのかと驚かされた。
「僕は、きみからずっと逃げていた。彼の家族から、相応しくないと思われるのが……怖くて」
 一瞬、返す言葉に詰まった。全く予想外の反応だった。ティエリアがオレを避け続けていたのは、オレの軽率な言動に敵意を抱かれたのだと思っていたから。どうやら嫌われてはいなかったらしい。それだけで、安堵で膝から落ちそうになる。意外に根に持っていた自分に驚いた。
 そもそも家族なのは兄さんとティエリアであり、それが相応しいかそうでないかなんてオレが判断すべきことではないのに。オレを気にしたって仕方ないのに。これも兄さんが必要以上に彼にオレを意識させるからだ。オレはいつかここを離れなければならないのだから、そう長いこと三人でいるわけでもない。
 それなのに、兄さんは望むから。こんな歪な関係を。大切な人に我慢を強いて、苦しめてまで作り上げるべきものなのか、オレにはよくわからない。
「…心配しなさんな」
 不意にわき上がってきた様々な感情を飲み込んで、笑いかけた。こちらを見ているティエリアの頭を軽く撫でてやる。できるだけ相手が安心できるように。もっと笑った顔が見たいと思った。オレが来てから、彼はあまり笑っていないようだったから。少なくとも、オレの前では。
「オレはむしろ感謝してる。たぶん、こっちに来てから兄さんはずっと、苦しんでたろうから」
「…苦しんでいた?」
 こちらを見つめる赤い目が透き通って見開かれる。オレは言葉を続ける。
「知らない土地で、独りで、偽の名前で生きなきゃいけなくて……たぶん、ずっと苦しかったと思う。だから、」
 驚いたように固まっている相手の正面に周り、鏡越しではなく視線を合わせた。これはきちんと言わねばならないことだと思ったから。軽く息を吸ってから、口にする。きっと、もっと早くに言わねばならなかったことだった。そうすればこんなにこじれることもなかった。
「あんたは、ニール・ディランディっつー一人の男を救ったんだよ。家族として礼を言う」
 誰も知っている人間のいない場所で、生きるために人殺しを強いられて、嘘の人生を生きてきた男にとって、この美しいこどもはどれだけ救いになったことだろう。好きなんだ、というオレの問いかけに頷いたときの、やさしい笑い方を思い出した。それがあんまりにもやさしすぎて、あんな風に笑う彼は知らなくて、オレは少しだけ淋しくなった。変わらないものも確かにあるが、変わっているものも多い。それをオレは知らなくて、ティエリアだけが知っている。そういうものを積み重ねて、今の兄さんがある。多分、そういうことなのだ。
 だから、同じ顔をしたオレと兄さんが家族であるのと同じように、同じ指輪をしたティエリアと兄さんも、確かに家族なのだ。オレが相応しいと判断するまでもなく、どれも本当のことだ。
「ニール・ディランディ…」
 ティエリアは、口の中だけで兄さんの名前を繰り返した。笑ってくれると思っていたのに、ティエリアは唯視線をさまよわせていた。レトルトを捨てたときの幼い動揺とも違って、もっと根っこの部分を抉られたような、迷子のような表情をしていた。かすかにふるえた唇から、低い声が漏れる。
「違うんだ、」
 ティエリアが頭を振って、オレが切りそろえた髪がふわふわと揺れる。
「ロックオンが、苦しんでいたことなんて知らない。ただ私には、ロックオンだけしかいなくて、わたしは、」
「…ティエリアちゃん?」
 名を呼ぶと、はっと我に返って唇が止まった。一瞬表情を消した後に、すまない、と謝って弱々しい笑みが漏れる。こういう笑い方をする相手とは思わず、少しだけ驚いた。オレが見たかったのは、こういう笑顔ではなかったのだけれど。
「礼を言われるには値しない。本当は、彼のことも何も知らないんだ」
「えー……さっき何だって知ってるって言ったのに?」
 茶化してみせても、ティエリアは黙って微笑むだけだった。こちらも応えるように、とりあえず笑うことしか出来ない。お互い歩み寄ってみせて、途中までは上手くいったと思っていたのに、どこで間違ってしまったのだろう。相性が悪い、と片づけてしまえばそれまでだが、嫌いでもない相手を傷つけるような言動しかできないのは流石に辛い。適当なことを言って傷つけたのなら反省のしようもあるが、本当に、相手が喜ぶと思って言っても傷になってしまうなんて救えない。
「……まぁ、今日はここまでってことで。いかがですかお客さん?」
 内心でため息を吐き、重くなりかけた空気を振り払うようにクロスを取り払った。毛先を梳いて軽くなった髪は自己流にしては悪くないと思う。似合っている。
 色の濃い髪がクロスを滑り落ちるのと同時に、細かい毛がその下の部屋着に散らばっていた。やはり専用のケープではないため上手くいかないようだ。本当は上半身くらい脱がせてから切れば一番楽なのだが、無許可でそれをするのは少し躊躇われたので。
「あーあ、部屋着汚れちまったな。悪い」
「いや。髪が軽くなってよかった。感謝している」
 二人で部屋着についた細かい毛を払っていると、ふと、胸ポケットに髪の毛がたまっていたのが目についた。髪に近い位置だとどうしてもたまりやすいのだ。洗濯機でも落ちるかどうか怪しい位置である。
「悪ィ、こんなとこも毛だらけにしちまって…」
 そう言いながら胸ポケットの中に手を伸ばした。本当に、他意はなかったのだ。だから、相手が目を見開いたことに気づかなかった。頬が紙のように白くなり、青ざめたことにも気づかなかった。オレが本当に無造作に手を伸ばしたので、制止をする隙もされる隙もなかった。
「あ…、」
 どちらのものとも言えない、弱々しい声が漏れて。
 ケースに入った、兄さんのものであるはずのカードが、ティエリアの胸ポケットから引き出されて、しまった。




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