ノート型の端末が点滅しているのに気づき、見事な大きさのテレビから視線を移した。案の定仕事先からの定期的な連絡で、近況といつになったら戻るのかということが並べ立ててあった。この不穏なご時世で、休職中の身で、未だに必要とされるのは幸福なことなのだろう。用済みだと捨てられないうち早いところ戻らねばとは思うのだが、帰ると言い出せずにずるずると居座っている。
 兄さんには会えて、金を渡すことも出来た。兄さんは新しい生活のなか幸せそうで、何一つの不自由はないように思われる。では何故オレは、ここにいるのだろう。これらが確かめられただけで充分ではないだろうか。
 ふと脳裏に、兄さんの恋人の不安げな顔が思い浮かんだ。オレと兄さんがいるときは滅多に笑うことがなく、出来るだけ気配を消してその場を離れようとする。人見知りなんだ、と兄さんは言うが、明らかに度を超しているように思う。それは彼が鈍くなったというより、願望が混じっているのだろう。うすうす本当のことに感づいていながらも、無理矢理に違う言葉を与えて自分や周りを納得させようとする。欲しいものが決して手に入ることのなかった人間の、悪い癖だ。
 そういうごまかしを責められないまま、強引にこんな状況に置かれてしまった。正直言って、困惑していた。自分のことを人当たりのいい方だと思っているが、あそこまで警戒されてはどうしようもない。

 兄さんが仕事に出かければ、二人きりになることも珍しくない。だから、最初は歩み寄ろうとしたのだ。お互いに、料理を作って一緒に食べてみたり。
 オレが作ったときはよかった。一人暮らしの長さから慣れているので、そこそこの味のものは振る舞うことが出来た。あまり口数の多くない相手でも、もそもそと食べながら味を褒めたり、作り方を聞かれたり、それなりのコミュニケーションをしてくれた。最初はそれなりでも、こうして続けることでやがて兄さんの望み通り、仲良くしていければと。そう思っていたのだ。
 しかし、妙に義理堅い相手の性格と、オレの配慮のなさがいけなかった。今度はこちらが振る舞う、とティエリアが言って、一生懸命、それはもう一生懸命作ってくれたのだ―――レンジでチンするだけの、レトルトのシーフードピラフを。
 何故レンジで加熱するだけのレトルトに二時間近くも費やす必要があるのかオレには分からない。しかしそれだけ、兄さんの苦労がうかがい知れた。ちらりと作っている風景をのぞいて見るに、ティエリアは本当に不器用なのだろう。製作時間の大半は電子レンジの取り扱い説明書と向き合っていた気がする。思わず本質はそこではないのだ、と言いたくなった。
 狙撃のときのような根気強さであの不器用さと向き合い、それでもティエリアの出来ることを見つけ、教え、見守ってやる。その愛情の深さに軽く感動すら覚えた。だからオレの一言に悪気は全くなかったのだ。唯、言葉の選び方がよくなかった。壊滅的に最低だった。

「レトルト毛嫌いしてた兄さんが…愛ってすげえな」

 ティエリアは、本当に知らなかったのだろう。スプーンを握ったまま顔を真っ青にして、それから低くすまない、と呟いた後に食べさしのレトルト食品をすべて廃棄した。止めても、謝っても無駄だった。その赤い目にはうっすら涙がにじんでいて―――ああ、それ以上思い出したくもない。
 とにかく、それからはもう、二度とティエリアが料理を振る舞うことはなかった。オレと食事を共にすることもなかった。完全に嫌われてしまったというわけだ。
 二人きりになっても彼は自分の端末に向き合うか、時折外出をするかどちらかで、オレがしつこく二人分作った食事を、家にいるときにもそもそと手をつけるだけだ。まるで引きこもりの息子を持つ母親の気分だった。口に出しても兄さんには理解されないだろうし、ティエリアを傷つけるだけだから黙っていたが。

 しかし、歩み寄りとは実に素晴らしいもので、思いの外順調に事が進んだ。オレの用意したデミソースのオムライスを口に運びながら、兄さんのものより美味しいと言われて反応し損ねた。ティエリアを見るに、兄さんを人生の最上位に置いているように思えたから、こんな些細なことでも兄さんに勝ったということが信じられず。そんなオレを見て、ティエリアはくすりと笑う。
「最近外を食べ歩くようになって、分かったんだ。ロックオンは、あまり料理上手ではない」
 その食べ歩きの原因は紛うことなく自分であるし、そもそもお前が言うなと言いたいが、あえて目をそらしておく。オレの料理を褒めてくれたのは事実なのだから。
「あいつは大分自炊サボってたらしいからな。ティエリアちゃんが来てからじゃねえ?」
 年季が違うぜ、と付け加えると、更に相手の笑みが深まる。貯金すると決めたときから、倹約のために自炊し続けてきたのだ。半年か一年そこらに再開したばかりの兄さんに負けては困る。実際、兄さんもオレの家事の手際の良さを見て一言、呟いたのだ。エリート商社マンとは到底思えない。気持ち悪い、と。 誰のせいでここまで進化したのかと返してやりたかった。あまりにも恩着せがましいので黙っていたが。
「私は、ロックオンの料理に育てられたというわけか」
「家庭の味ってやつだよ。名コックの料理は三日で飽きても、家庭料理は十年経っても飽きねえっつーし」
「成る程。味はともかくロックオンの料理が好きだと思うのには、そういう理由が……」
 オレの適当なフォローに真面目に反応され、更にあっさりと兄さんに負けてしまった。こんなオチだろうとは思っていたので、さして落胆はしなかった。彼らが重ねてきた時間に勝てるわけがない。
 ―――あれ?
 自分の出した結論に、痛みに近い違和感を覚える。しかし、その輪郭をはっきりとつかむよりも、反応をじっと待っているティエリアに笑みを向ける方が先だ。自分のこころよりも、今すべきは歩み寄りだろう。それが、望まれたことなら。
「そりゃ、愛だよ」
「アイ…」
 眉間に皺を寄せながら真剣にオレの冗談を考え始める。しばらく会わないうちに兄さんが冗談を受け流すのが下手になっていたのは、彼と暮らしてきたからだろうかと、なんとなく思った。
 考え込んだティエリアの長い毛先がスプーンの先に絡み、あ、とオレが声を出す前に、スプーンに乗っかったチキンライスと共にぱくりと毛先を食む。しかもそのまま咀嚼しようとするものだから、見ていられず立ち上がって口許から毛先を外してやった。
 なんというか、彼は見ていて危なっかしい。兄さんがあれこれ面倒を見たがる理由もだんだん分かってきてしまった。顔のつくりの丁寧さと、落ち着いた物腰と、非常識さのギャップがすさまじくて視線が外せないのだ。
 だからこれは、面倒見ついでの提案だった。
「髪、切ってやろうか。鬱陶しくねえ?」
「え…」
 唾液とチキンライスで濡れた毛先をつまんでいたティエリアが、視線をこちらに戻す。頭を動かすたびにさらりと鳴りそうな長い髪は、彼にとても良く似合っていたが、邪魔そうであることに変わりなかった。特に束ねるにしても中途半端な横髪は、よく食事で被害に遭っていた。そのために兄さんが、可愛らしいひよこがついたピンを購入したのも知っていたが、いくらなんでもそれはないだろうと、思うのだ。兄さんの彼に対する態度は、義理の息子というよりも、恋人というよりも、時折小さい娘に近いものがある。
 濡れた横髪をいじりながら少し考え込むようなそぶりを見せるティエリアへ、更に追い打ちをかける。仕事柄、こういう風に強引に事を進めるのは苦手ではなかった。こういうときに出すのは悪い癖であるとは思うけれど。
「別にばっさりやっちまうわけじゃねえよ。邪魔ンなんねえ程度。それに、帰ってきた兄さんを驚かせるのも悪くねえと思うだろ?」
 ばちりと大仰にウインクをしながらそう言うと、ティエリアはあっさり頷いてくれた。恐らく、最後の一言が効いたのだと思われる。やはり彼の人生の最上位に位置するのは兄さんなのだと、少ない時間接しただけでも充分に伝わってきた。外の食事を知っても、結局は兄さんの作ったものを好む。まるで刷り込まれた雛のように真っ直ぐで、それだけは揺るがない。
 羨ましいと、思ってしまった。血と金しか繋がりの無かったオレは、ここまで真っ直ぐに想うことは出来なかった。金だけ寄越して姿ひとつ見せやしない相手を、恨んだ時期だってあった。いつだって遠くて、届かないひとだった。オレの唯ひとりの家族だった筈なのに。半身のような存在だった筈なのに。
ティエリアの純粋さが羨ましかった。こんな風に信じることが出来ていたらと思う。血の繋がりは決して揺らがないものだというのに、一体どこで間違えたのだろう。
 幸せそうな兄さんの姿を確かめて、昔と同じようなやり取りを繰り返しても、結局のところオレは、まだすべてを信じることが出来ないのだ。ニール・ディランディという男を。





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