暇だ。
 どうしようもなく暇だった。
 外に出かけようにも気温は38度と体温を凌駕し、庭の雑草が水不足のせいでからっからに干からびているのが見える。時間が過ぎるごとに短く濃くなる影が日差しの強さを間接的に伝えるようで、外にでる気をなくさせた。
 こんな日に半日終わりとはいえ、出勤している我が兄を本当に尊敬する。まさに「働いたら負け」といえる気候にティーと二人でうんざりしていた。
 仕方なくエアコンの一番利く居間にティーとなんとなくいるのだが、端末で拾えるニュースも一通り閲覧し終えてしまったし、昼前なんて番組が一番おもしろくない時間帯だ。食事も洗濯も済ませてしまい、これといってやることもない。
 こんな退屈を、ひとりでどうやり過ごしてきたのだろうと、端末とにらめっこしているティーの横顔をちらりと見ると、オレの視線に気がついたのか、ぱっと顔を上げた。邪魔をするつもりはなかったので、少し罪悪感を覚えながらもとりあえず声をかける。
「…ナニやってんの?」
「動画の編集だ」
 無愛想に答えた彼の端末の、ホロモニターをのぞきこんだ瞬間、思わず言葉を失った。彼にはまるで似つかわしくない、ほとんど裸のような水着を着た少女が、お世辞にもあまり上手くない調子っ外れの歌を歌い、豊満な乳房を揺らして踊っている映像だ。それを0.1秒単位で完璧に切り張りしてみせるティーの表情は真剣そのもので、とてもこんな煩悩にあふれた映像には似つかわしくなかった。
「それって、兄さんのお気に入りの…」
「メルディ・アンダーソンだ。仕事で間に合わないからと録画を頼まれた。CMカットも完璧だ」
 得意げに言う彼を哀れに思ってしまうのは、こちらの勝手な思いこみだ。分かってはいても、黙って彼の頭を乱暴に撫でてしまった。理由も分からず、目を丸くする彼をみていると急に感情がこみあげてきて、ホロモニターに映る兄さんお気に入りのアイドルを睨みつける。
 舐めるようなカメラワークが下から上へ少女の曲線をレイプする。低俗で安っぽいエロさに思わずため息を吐き出して、それなのに濁らない紅茶色の瞳をまっすぐに見つめた。気がつけばオレは、これの編集に彼を一日付き合わせてはならないという、妙な使命感にかられてしまっていた。
「出かけようぜ、ティー」
「…どこへ」
 聞き返してくるティーの視線を、そっとホロモニターの方へ向けさせる。少女が跳ねるたびに揺れる乳房は、なんだか別の生き物のようだった。空と海の青さがやたらいちご柄の水着に場違いだ。
「海。たまにはナンパとかどうだ?」
「僕は船など持っていない」
「……お約束の切り返し、ありがとよ」
 期待を裏切らないボケっぷりに、またため息をついた。ナンパというものがどういう行為なのか、全く分かっていなさそうな相手だが、それでも家に引きこもってアイドルの動画を編集するよりは健全なはずだ。青い空、海、白い雲。開放的な気分になって、ビーチサイドで女の子とはしゃぐのも悪くない。
 海と聞いて、通販で買ったという鮮やかな色の浮き輪をおもむろに膨らまし始めた彼を見て、思わず口の端をつり上げた。ナンパというよりも休日のお父さん気分なのが、何か違うと思いはしたけれど。





 働いたら負けだ。全くもってそう実感している。
 何が悲しくて休日に出勤し、たまりにたまったデスクワークをこなさねばならないのか意味がわからない。そもそもこの白紙の書類の山は、隊長経由で回されるはずが、すっかり存在を忘れられていたものばかりだというのに。
 昨日の退社寸前に、すっかり存在を忘れていたのだよ!と言いながら、分厚い書類の束を渡されたときは、今度こそその白いこめかみを狙い撃ってやろうかと思った。
 当の隊長は、今日から女の子と南の島にバカンスへいっているらしい。噂によればその女の子が個人ではなく3人から5人であるとか、その誰もが実は隊長のパートナーではないとか、そういう彼らしい奔放にもほどのある噂をちらほら耳にしたような気もするが、技術顧問と一緒に耳を塞いで聞こえないふりをした。
 各隊員の予定を書いたホワイトボードに、「所望する土産を書くこと!」と、キャラに似合わぬかっちりとした、しかし大きすぎる字で綴られている。その下には、ココナッツミルク、星の砂、女、女、女―――と、好き勝手なことが嫉妬混じりに書き殴られていた。俺はその下に小さく、傾けると砂の下から裸が見えるボールペン、と書き添えたのだが、彼は出立前に見たのだろうか。どうでもいいことだけれど。
 そんなわけで、作業妨害をする隊長もおらず、というか、俺以外の隊員などひとりもおらず、仕事ははかどって仕方ない―――はずなのだが、書類の山は遅々として減らない。やる気が砂粒ほども出ないのだ。
 己を奮い立たせるために仕方なく、本来ならば業務時間中に携帯端末を眺めるなんて言語道断なのだが、俺の秘蔵待ち受けナンバー348番「通販番組に夢中になって口が半開きになって薄笑いを浮かべているティエリア」を眺めようとしたとき、メールの着信に気がつく。俺の休日出勤に淋しくなったティエリアが、メールでもしてくれたのだろうかと、一瞬だけ期待に胸が跳ねるが、そんなことがあるはずもなく、その送信者は我が弟だった。
 一流商社に勤めているらしい弟は、現在は休職中であり、客人の身だというのに俺の家で家事やなにやらをこなしてくれている。普段、あまり口に出して言うことはないが、不器用で世間知らずのきらいがあるティエリアに色々と教えてくれるのは本当に助かっている。最初はぎくしゃくしていた二人も、いつの間にか打ち解けていて、最近は俺の仕事中に、二人で仲良く出かけたりもしているらしい―――羨ましくなんてない、断じて。
『ライルとサッカーの試合を見に行ったんだ。ルールを教えて貰った。好きなチームを作るともっと楽しいらしい』
『買い物にいった。ライルに服を選んでもらった。ジーンズというものを初めて履いた。生地が堅いんだな』
 楽しそうなティエリアの言葉が不意に思い出されて、胸のあたりが鈍く痛む。疎外感なんて感じているわけがない。窓から差し込む明るすぎる日差しとは裏腹の、重たい気分を振り払いたくて、ライルからのメールを開いたとき。
「あの野郎……ッ!!!!」
 思わず、手にしていた端末を叩き割りそうになった。

『件名:海
 本文:青い空と白い雲サイコー!! ティーと可愛い女の子ナンパしてくる(^o^)/』

 ご丁寧に、いつ買ったのか全くわからない、白いトランクスに浮き輪まで持ったティエリアの写真までついている。ああ、俺のティエリアは今日も可愛い―――じゃ、なくて。
「海…海だろ? ほとんど裸みたいな姉ちゃんがおっぱいユサユサさせて誘惑してくるわけだよなぁ」
 万が一ティエリアが目をつけられて、しつこくされて断りきれず、上に乗っかられでもしたら! ビーチボールより大きな胸をした女がティエリアの胸に乳を押しつけ、乳首はピンクなのね、可愛い、とささやくところまで妄想した後、ランチアのキーを取り出した。
「…働いたら負けだよな。そうだよな。知ってたさ…」
 ぶつぶつと呟きながら、書類の束も目にくれず荷物をまとめる。仕事をしている猶予などない。ビーチボールおっぱいからティエリアの乳首を守れるのは俺しかいないのだから。
「おとーさんは許さねえからな!!」
 大声で叫びながら、基地内の廊下を全力疾走する。空調の利いた基地内だというのに、全身から汗が吹き出ている。全くもって、夏だった。





 海沿いのレストハウスは、ビーチと同じか、小さな店内面積のせいか、それ以上に混雑しているようにみえた。狭いテーブルにぴったりと密着して話しているライルと女性の向かいに座るのは、なぜだか照れくさい。
「キミ、まだ学生なの? 大人っぽいなぁ…見えない」
「そう? 初めて言われたんだけど」
 そう言いながら女性は少しずれた水着の肩紐を直す。やわらかい曲線を描く乳房が揺れたのを、ライルの双眸は見逃さない。
 いつもの僕たちを見る視線と少し異なる、少し興奮気味の有様にわずかばかりの違和感を覚えはしたが、本人がいつになく楽しそうなのでまあいいかと思い直す。白い砂のついた女性の肩が、ライルの腕に触れる触れるか触れないかでいるのをぼんやり眺めながら、熱でぬるくなった水をちびちびと舐めていた。
「ティーちゃん、注文したっけ?」
「あ、ああ。焼きそばを、」
 不意に女性に声をかけられ、思わず目を見開いた。慌てて事前に教わった通りに口角をつり上げ、曖昧に相づちを打ってみせる。特に焼きそばが食べたかったわけではないのだが、ライルが海と言えば焼きそばだろうと言い出したので、なんとなく便乗したのだった。
「ライルと同じなのに、ティーちゃんだけこないなんて変ね。材料でも切らしたのかしら」
「日頃の行いの差かな」
「少なくとも、ライルよりはティーちゃんの方がいい子に見えるけど?」
「ひっでえの」
それで納得してくれたのか、ついと視線をライルに戻し、また仲良く会話を再開し始めたのをみて、内心で安心した。
 だいたいのことはライルがフォローしてくれるので困ることはないが、やはり慣れない場は苦手だ。聞くと、ライルと彼女は今日までそれまで全く面識もなかったらしい。出会って数時間しか経っていないのに、あれほど親しく会話できるようになるというのも驚かされた。ライルのいうナンパ、というのは今も正直よくわからないが、社交性を養う訓練のようなものだろうか。僕には向いていなさそうだが、苦手だからと引きこもってばかりではよくないということなのだろう。
 ライルはロックオンと二人で行動するときとも違う、知らない世界をみせてくれる。一つひとつ覚えたものは興味深く、それをロックオンに報告するたびに、彼も僕を誉めてくれたり、拗ねてみせたり、たまに僕を飛び越えてライルを怒鳴りつけたり―――やはり、見たことのない顔をみせるのだ。そういったとき、世界が広がるというのがどういうことなのかを実感する。それは多分、いいことだと思うのだ。
「ティーちゃんのご飯、やっぱりこないね…」
 ライルと同じ顔の男のことを思い出していたとき。彼女の指摘で、はたと我に返る。どうやらまだ気にかけてくれていたらしい。確かにライルと女性の前には食事が運ばれているが、僕の前には何も届いていなかった。それほど空腹でもなかったためにさして気にしていなかったのだが、気を遣った女性が店員を呼ぼうとあたりを見回している。しかし、それらしき人員は見あたらなかった。客数は多いのに、従業員の数が明らかに足りていない。テーブルのざわめきとは異なり、隅の調理場は怖いくらいに動きが無く、思わず目を細めた。何かが、おかしい。
「おい、ティー?」
「水をくんでくるだけだ」
 声をかけてくるライルに短く答えた。空になった水のコップを抱え、席を立つ。調理場の近くに備え付けてある給水機に近づく振りをして、その奥にある調理場へと視線を放った。人の気配がない。
「…誰か、いませんか」
 周囲のざわめきにかき消されぬよう、思い切って大きめの声で呼びかける。すると、きれいに磨き抜かれた調理場のステンレスの台の上から、にょっきりとしわの刻まれた手のひらが生えてきた。
 それが控えめに手招きしているのに気がつき、慌てて駆け寄る。調理場の陰をのぞき込むと、そこには年輩の女性がうずくまっていた。とっさに屈み、視線を合わせる。心臓が早鐘を打っているのを自覚せざるを得なかった。
「大丈夫、ですか」
「…情けないね、仕事中に腰やっちまうなんて。ほかも出払ってるから今まで気づかれない始末だ……助かったよ」
 背を支え、呼吸を合わせて慎重に身を起こす。これでは調理もおろか、配膳などとても無理だろう。様子を見に行ってよかった。動揺で強ばる身体をなんとか奮い立たせて、女性を隅にあったイスに座らせる。パーカーのポケットに入れてきた携帯端末で、近くの病院を調べようとしたとき、すかさずフードを捕まれて思わず振り向いた。
「な、何か」
「…こういうときに頼むことじゃないと、わかってンだけどね」
 深くため息を吐き出してから、視線を調理場の隅にやる。誘導されるようにそこに目を向けると、そこにはまだ湯気が立っている、温かいフライドポテトとマスタードたっぷりのフランクフルト、そして焼きそばがあった。
「入り口から数えて三番目のところがフライドポテト、その斜め向かいがフランクフルト。入り口から近い窓際の席が…」
「焼きそばですね。わかりました」
 言葉を続けると、悪いね、と女性が弱々しく口の端をつり上げる。女性が心配ではあったが、こうなれば乗りかかった船だ。僕にできることならやってみせようと思った。
「みんながお腹すかせて待ってるんだ」
「そうですね。…僕も」
「…そいつは済まなかったね。バイト代に色、つけておくよ」
 笑って冗談を言う女性に笑いかけた後、先ほどの指示を口の中で復唱する。ほかの従業員が出払っているだけなのか、それとも休みなのかはわからないが、少なくともこの場にいるのは僕だけだ。ミスは許されない。
 なけなしの社交性を精一杯振り絞って、笑顔をつくりだした。




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