錆びつき始めたロッカーは閉めると少し大きな音を立てた。逸る気持ちが我知らず手に力を込めたのかも知れない。十年ぶりに同居人と暮らし始めて以来、一秒でも早く帰ろうと努めてきて、それは義務的な気持ちなど少しもなく、我が家のドアを開ける瞬間を思うと今も変わらず心踊るが、最近のそれは格別だった。絆創膏を付けまくったティエリアの手を見る度に冗談じゃなく胸が張り裂けそうになるが、ライル曰わくその数は減ってきているらしい。
 二人が作った夕食が湯気を立てて、その向こうに家族が笑顔で待っている。ずっと、ずっと、自分はそれを望んでいたのだと、少し焦げて苦いシチューを啜りながら気がついた。
「中尉、たまには飲みに行きませんか?」
 背後からかけられた声は、最近の増員に伴って異動してきた部下のものだ。以前はまるでハイスクールのクラブのような気楽さがあったこの部隊も、見慣れぬ顔が増えた。階級を越えてファーストネームで呼び合うことはもうないかもしれない。
「いや、悪いな」
「家族が待っているのは知っているけれど、たまにはいいんじゃないかな?」
 俺の愛想笑いに応えたのは、それ以上の笑顔だった。すでに私服に着替えた技術顧問が、わざわざパイロット用のロッカールームに来ることもそうだが、こうして誘いに来ることも珍しい。俺の疑問を察したのか、カタギリさんは笑って言った。
「新顔も増えたしね。僕も今日は逃げられなかった。道連れが多いと心強いんだけれど」
 そうだ、来いよと周囲にいた同僚も口々に言い出す。その一つであるドレッドヘアにカタギリさんの長身越しに応えた。
「ダリル、ハニーを放っておいていいのかよ」
「うちのは信頼してくれてるんで。中尉のお宅は違うんですか?」
「愛の形はMSの数だけあるものだ」
 軽口の応酬を断ち切る大仰な口上はいつものことだが、何だか懐かしい気がする。そういえば、隊のメンバーとこうして何でもない言葉を交わすのは久しぶりではないだろうか。
「間男の存在も危険だな。あるいはティエリア・ストラトスは早すぎる君の帰宅を望まないかもしれないが、君が望むなら私は君が帰るのを止めはすまい」
「はは、ティエリアに限ってそんなまさか」
 物騒な発言に該当するのはむしろ発言者当人だと思うのだが、話が長引きそうなので笑い飛ばすに留めて上着を肩に引っ掛ける。それで俺に参加の意思がないことは伝わった。人数は増えても、トップ以外は引き際を心得られる人間が集まっているので助かる。あるいは、引き止められるほど親しくない人間もいる。
「ま、いつもの店で飲んでいるから気が向いたらおいでよ。たまには良いもんだよ」
 そう肩を叩いて見送ってくれるカタギリさんの手を、実際以上に重く感じながら俺は同僚たちに別れを告げた。IDをセキュリティーに通しながら、叩かれた肩を軽く揺する。同僚で飲むことは少なくないが、隊員のほぼ全員が参加というのはさすがにそうはない。どちらかというと欠席率―――欠席希望率が高いカタギリさんが俺を誘うのも珍しい。古くからの同僚の気さくな態度すら訝しく思える。
 原因はわかっていた。規模は不明だが派兵が近いという噂があり、それが聞こえる度に俺がわかりやすすぎるほど沈んでいるからだ。入れ替わりの激しくなった顔ぶれの中に、任務中に眠れずにいた奴のそれが浮かんで消える。
 成り行きや自棄がなかったと言えば嘘になるが、それでも軍人になったのは自分の意志だ。殺すのも仲間を殺されるのも慣れたつもりでいた。だが、微妙に落ち始めた命中精度は腕で無理やり誤魔化しているが、きっと隊長やカタギリさんには気づかれているだろう。
 幾人かの同僚たちも察している。だからああも親しく、優しく声をかけてくれた。逃げるように来たこの国にも、気づけば俺は根を張っている。だが、今はそれが少しだけ重い。だから俺は今、愛車を駆って家路を急いでいるのだ。
「間男、ねえ」
 仕事から帰って食事が勝手に出てくるなんて、初めてと言ってもいい。今我が家に滞在している男は、間男どころか非常に優秀なハウスキーパー兼家庭教師のようなものだった。たまに俺を置いてきぼりにして二人仲良く料理に励んでいたりする。こちらに一瞥もくれないことに淋しさを覚えてはいるので、間男という表現もあながち間違いではないだろうが。あまつさえ、同衾した仲であれば。
 淋しくなればいい、とティエリアは言った。一方的に与えられるばかりの毎日は、ティエリアにとって淋しいものだったと、自分がそうなって初めて気づく。供給が少しでも途絶えると自分一人ではどうにもできなくなってしまう。俺はそれが嫌でティエリアに対して与えることだけを望んでいた。どれだけのものを与えられているか見ないようにしながら。
 身勝手だと思う。ときには傷つけてみたり傷ついてみたりして相手を縛りつける自分を殺したい。
 ライルはそんなティエリアの淋しさを埋めて、馬鹿な俺をほんの少しまともにしてくれた。三人で過ごす家の心地良さが俺に家路を急がせる。俺の身勝手を許し続けていてくれた二人が待つ家が、途方もなく愛しかった。




「ただいまー」
 出迎えなどを期待しても無駄なことはわかっていた。長期出張などで、それこそティエリアを淋しがらせないと最近は出迎えに来てくれない。まして、今は夕食の制作に忙しい頃だ。
「おとーさんは淋しいぞ、と」
 はっきり軍のものだとわかる手荷物はリビングに入る前に寝室に放り込む。すでに寝室には侵入されているし、掃除のために毎日入られているかもしれないから無駄である可能性が高いのだが、できるだけ軍関係のものをライルの目に触れさせたくなかった。
 両親や妹が生きていたら、今の俺の生活を、仕事を喜んでくれるだろうという自信がない。生きているライルに対してはそれ以上だった。俺が基地のブリーフィングルームで話していること、フラッグのコクピットでしていることは、家族の誇りになりえない。
「おかえりが聞こえねえぞー」
 リビングに向かって声を上げても返事はなかった。セキュリティーで在宅は確認しているので、よほど集中しているのだろうか。
 愛がねえなぁ。そう一人ごちてリビングに続く化粧ガラスのドアに手をかけたところで、俺はようやく家族の声を聞いた。
「……やはりだめだ、ライル、やめて、」
「今さら、だろ。ほら」
「あっ」
 俺はドアノブを1センチほど下ろしていた手を、いや、呼吸すら止めた。耳に馴染んだティエリアの声。初めて聞くライルの声。
「だめだ、もうすぐ彼が帰ってく、あ、ああ」
「…だったら、早くしないとな、なぁ?」
 ティエリアの息が詰まるのがドア越しにもはっきりわかる。このとき俺は酷く冷静だと自分では思っていた。先ほどベッドの上に放り出した荷物の中に、拳銃があることとその残弾数を正確に思い出していたから。
「ライル……」
「ティエリア……」
 だが当然冷静などではなかった。また、三人で興じようというぶっ飛んだ楽観的思考にも至らない。俺は家族を愛していた。
「うああああああっっ!! 狙い撃つぜぇぇぇっっ!!!」
 ドアガラスを砕く勢いで蹴り飛ばし、俺は見た。
「おう、おかえり、兄さん」
「おかえり、ロックオン」
 ドアの左右に座り込んで、俺を迎える二人の姿を。




「悪かったよ、兄さん。ちょっとジャブの聞いたジョークだろ」
 ほんの暇潰し、冗談のつもりだった。早めに夕食の支度が済んでしまって暇だったオレが持ちかけた。
 ―――兄さんを驚かせてやろうぜ。
 イタズラ心満載のオレの誘いに、ティーは子どもみたいにピュアな瞳で頷いた。新聞に挟まっていたチラシの裏に、ちょうど今日の昼に放送していたドラマと人妻好みの友人に見せられたAVの話を足して2で割ったようなシナリオを書き、ティーに渡す。ピュアな瞳に似合わない低俗で陳腐な文章を、ティーは一切の迷いのない棒読みで読み上げた。今日、音声読み上げソフトだってもう少し臨場感が出る。
「まさか本気にするなんて思わなかったんだよ。だからさ、兄さん」
 まさか本気にするなんて。その一言に尽きる。あの棒読みを真に受けるなんて、恋は盲目とは言うが、これはちょっと病気じゃないだろうか。あるいは夜に交わされる二人の会話も……考えるのは止めておこう。
「いい歳して泣くなよ。てか、ハグするのはティーだけでいいからこの場合」
 両腕にオレたち二人を抱えて、二人の肩の間に顔を埋めて震える兄さんの背中をぽんぽんと撫でてみる。
「良がっだ…ほんと、良がった…」
 兄さんとほとんど変わらない体格のオレと、細身ではあるがそれなりに長身のティー。正直兄さんの腕の中は窮屈なのだが、ティーは子どもみたいに泣きじゃくる兄さんをなだめるのに必死でそれどころじゃないらしい。
「ロックオン、ロックオン」
 おろおろしながらセーターの袖で一生懸命兄さんの涙と鼻水を拭う姿は可愛らしいが、カシミヤとはいえそれでは顔が痛いんじゃないかと思う。
「良かった、愛してる、二人とも」
「あーはいはい、オレもティーも兄さん大好きだよー」
 ぎゅう、と抱きしめられていい加減に腹が苦しいし背中も痛い。フローリングの座り心地にもいささか飽きた。こういう抱かれ方に慣れているらしいティーはもぞもぞと動いて良い格好に落ち着いたらしいが、生憎オレはそうもいかない。
 ―――彼を、淋しくさせたいわけじゃないんだ。
 ことあるごとにすぐ拗ねて見せる兄さんについて、ティーはそう言った。彼だけが淋しくないのは不公平だ、といういつかの言葉とは大きな矛盾があって、その分だけの愛情が見える。そんなティーにとって、相手に大泣きされたことはさぞ堪えただろう。オレはといえば正直少し引き気味なので、この場合かねてからの計画を一つ、二人のために実行してみることにした。
「ティー、あと頼むな」
「ライル?」
 あどけない声と鼻水を啜る音が混じる。目を赤く腫らした兄さんと、もともと赤い目を幼く見開いている二人はまるで子どものようだが、二人がすることは子どものそれではない。
「外で飲んでくる。帰りは明日かな。二人で仲良く留守番しててくれ」
 ずっとしゃがみこんでいたので、立ち上がると足が引きつった。しかしうっかり引き留められでもしたら格好がつかないので、何とか歩いてジャケットをひっつかみ玄関に向かう。
「おい、ライル」
「ライル、」
 淋しくさせてしまった兄さんと、図らずも加害者にしてしまったティーに対する、ささやかなサービスだった。オレは車のキーを指先でくるりと回しながら手を振って二人に告げる。
「ちょっと天使様に会ってくるよ。二人はどうぞ、ごゆっくり」




>>