走る。走る。とにかく走る。一刻も早く彼のもとへ行くために。
 私が婚約者の役割をするのではなかったのか、とか、ビリーはゲイだったのか、とか、釈然としない点がないことはないが、今はそれよりも走らなければならないと思った。私は彼を傷つけた。分かってもらうことを放棄し、あまつさえそれを彼のせいにした。彼は私のために努力をしてくれていたのに、それを無碍にした。ここにいる選択を間違いだとは思っていないが、だからといって彼を傷つけていいわけではない。
 彼に謝りたかった。そして、きちんと分かって貰いたかった。あなたに幸せにして貰ったように、自分も誰かを幸せにしたかったのだと。そう思えるようになったのも、あなたがいたからなのだと。
 柔らかい赤絨毯の廊下を駆け抜け、階段を一つ飛ばしで降りる。普段ほとんど出歩かないせいで、走るという行為自体が久しぶりな上に、何よりこの格好がまずい。
 ミズ・スメラギに習った歩き方でも、この靴では限界があった。油断すれば踵からバランスを崩して転びそうになる。身体にまといつくドレスも邪魔で仕方がない。ついでに大きな胸のせいで重心も定まらない。
「……あっ、」
 声を上げたのと、身体が思い切り傾いだのは同時だった。気持ちばかりが焦り、階段の最後の一段を踏み外したのだ。
 正面から地面に口づけ、柔らかい絨毯の毛が鼻先に触れる。柔らかい床が衝撃を吸収したおかげでほとんど痛みはなかったが、高いヒールの靴が片方、遠くへ吹っ飛んだ。さらされた素足がひりひりと痛い。靴擦れで皮がむけていた。靴擦れなんて久しぶりだった。彼はいつだって自分の足にぴったりの靴を用意してくれていたから。私はそれに甘んじていた。与えられてばかりだった。いつだって。
 ―――悔しい。
 唇を噛みしめ、もう一方の靴を脱ぎ捨てる。勢いよく立ち上がり、裸足のまま絨毯の上を走った。ふわふわとした柔らかさが靴擦れとこすり合うと、痛いような痒いような奇妙な感触がしたが、走っていくうちに意識から外れた。ミズ・スメラギには申し訳ないが、靴を脱ぐだけで大分ましになった。エントランスの長い階段を駆け下りて、そのまま大理石の出入り口にまでたどり着く。
 ドアの外に、見慣れた車が見えた。そこから何も考えられなくなった。





 ティエリアにクリスマスを教えてやろうと思ったのだ。
 いつもより豪勢な食事をして、ケーキを食べて、プレゼントをする。サンタクロースの話をしてもいい。そうやって24日を思い切り楽しく過ごしたかった。今度は彼がクリスマスを楽しみにするくらいに。
 ティエリアの喜ぶ顔が見たい。それだけであれば良かったのに。俺はそれを理由にして、自己満足をしようとしていただけだ。ティエリアを使って、取り戻せない過去を取り戻そうとしていた。
 だから彼自身の選択を許せなかった。彼の希望を聞かず、自分の希望を押しつけていた。彼が俺の望みを拒まないのをいいことに。結局、俺は彼のためだとうそぶいて自分のことばかりなのだ。そんな人間に、サンタクロースも来ちゃくれないだろう。
「サンタ、って歳でもねえけどな…」
 自嘲気味に笑って、白い息を吐き出す。夜、というアバウトな時間指定に途方にくれながら、外気に身をすくませた。寒さに限界が来たら帰ろうと思いつつ、もう車内と外を往復して二時間は経つ。
 何度目か分からず、時計を一瞥した。上司二人の言う『プレゼント』の中身は予想がつくのだが、問題は時間だ。午後九時を回り、もうすでにタイムアウトの足音が聞こえ始めている。諦めて帰れないでいる理由のひとつだったが、そろそろもう限界かもしれない。寒いし。風邪引きそうなほど寒いし。
 ―――コーヒー買って。もう10分だけ。
 身震いをひとつした後、リミットを設定する。さっきも同じようなリミットを作った気がするが、今度こそ最後だ。近くのスタンドはまだ開いているだろうか。一番小さいサイズのコーヒーをテイクアウトして、それから―――、
 スタンドを探すために車に目を向けた、そのときだった。
 ドアが開き、そこから、目を見張るほどの美人が出てきたのは。
「ロックオン!!!!!」
 俺の名を叫んだ美人は、あろう事か入り口の階段で、ドレスの裾を踏んづけて転んだ。
「ティエリア!?」
 宙に浮いた身体を慌てて腕を伸ばして、身体を寄せて受け止める。冷え切った身体にじんわりと、馴染んだ体温が染みた。
「っ……ごめん、なさい、」
 どうにか倒れずに絶世の美女にしか見えない同居人を抱き留めると、剥き出しの肩が震えた。耳元で飲み込みきれない嗚咽が揺れる。見慣れない長い髪の隙間から見える肌の白さが寒々しい。
「ごめ、っん、ごめんなさいっ、あ、りがとう、ごめんなさっ」
 発声の仕方を忘れた、子供のように拙い泣き方だった。その幼さに、腕の中の美女が紛れもなくティエリアなのだと妙な得心がある。
「ティエリア、どうした?」
「約束やぶって、ごめんなさい、ありがとう、来て、くれて、っ…」
 十二月の外気に冷え切った身体に、ティエリアの声と涙と体温が沁みていく。それはこの状況の奇妙も矛盾も理不尽も、全て綺麗に拭っていった。背中に回した腕に力を込め、ひたすらに謝罪を繰り返す唇を塞ぐ。
「んん……」
 鼻にかかった甘い声とフローラル系の香水に頭がくらくらした。ルージュに彩られた唇は美女のそれだったが、重ねてみれば覚えのある薄い感触が柔らかく吸いつく。思わずちらりと舌先を差しだすと、躊躇なく応えるティエリアのそれを何とか理性で押し返し、唇を離した。
「もう怒ってねえよ。俺こそごめんな、大人げなくて、自分勝手で」
「そんなこと、ない。あなたが、悪いことなんて何も、」
 また泣かせてしまった、細い肩を抱きしめる。体温が浸透していく俺と裏腹に、ティエリアの身体はみるみるうちに冷えていった。まだ謝り足りずにしゃくりあげるティエリアを一度引き剥がし、車へ促す。そこで、ティエリアの足が薄いストッキング一枚しかつけていないことに気づいて、俺は何の躊躇もなくその肢体を抱き上げた。
「わっ、」
「じっとしてな。お前裸足じゃねえか」
 驚いたティエリアが反射的に首にしがみつくのがたまらない。イヴの夜の高級ホテルの前だ。人目もそれなりにあったが気にならないし気にしない。クリスマスなのだ、いつもより情熱を燃やす二人がいても、何ら不思議ではない。
「一応聞いておくけど」
 助手席に放り込んだティエリアの身体に覆い被さるようにしてシートベルトを締めてやる。胸に擦れる弾力は本物と比べて何ら遜色なく、妙に興奮した。
「無理矢理着せられたんじゃないよな?」
「違う。ビリーのためにビリーの友人が提案し、僕がそれに同意した結果だ」
「そっか、ならいいんだ。何かお前、カタギリさんといるといっつも女装してる気がしてさ」
 身体は柔らかな弾力から離れたがらなかったが、唇を掠めるように重ねて自身を宥めて引き離す。ティエリアは俺の興奮など預かり知らぬようで、アイラインに縁取られた大きな瞳をきょとんとしていた。
 さて車を出そうとギヤに手をかけたとき、窓をコンコンと叩かれる。こちらに手を振る見覚えのない東洋系の美女に応えたのはティエリアだった。
「ミズ・スメラギ?」
「ハイ、こちらがあなたの彼氏? どう、ティエリア、素敵でしょ?」
 窓を開けると屈託のない笑顔とウィンクを投げかけられ、ティエリアが警戒を示さないので俺も愛想で返す。恐らくこちらのエキゾチックな美女が、今回の首謀者らしい。
「なぜここに? ビリーならまだ中に」
「ああ、違うの。旧友の幸せをお邪魔する気はないわ。あなたにこれだけ渡しに来たのよ」
 窓から差し出された紙袋には、見覚えのある服が入っていた。恐らくティエリアが着てきたものだろう。それに小さな化粧品と思しきボトル。
「早速崩れちゃって。これで洗顔してから、普通に洗ってね。せっかくのお肌が傷んじゃうから」
「わざわざありがとう、感謝する」
「どういたしまして、こちらこそ楽しかったわ。じゃ、私もダーリンのところに帰るわね。何だかみんな幸せそうで、一人でいるのが癪になっちゃった」
 かつん、とヒールの小気味の良い音と共に美女が身を翻す。階段で盛大にずっこけたティエリアとは違い、颯爽としていて優雅な動作だった。
「メリークリスマス」
 少し低くかすれた音楽的な響きが、靴音と共に遠ざかる。彼女の姿が車道の向こうに消えるまで見送ってから、俺はエンジンをかけた。
「さ、行くか」
「…帰るんじゃないのか?」
 目尻にマスカラを滲ませたティエリアが、紙袋を抱えて首を傾げる。
「予約はキャンセルしてないんだ。未練たらしかったけど、結果オーライだな。ってことで、俺に付き合っていただけますか、お嬢さん?」
 ティエリアはクリスマスがどういうものか、きっとわかっていない。わざと具体的に言わない俺の言葉も理解できていないだろう。だが、俺が笑いながら頬についた睫毛を取ってやるとティエリアも笑ったので、それでいい。
 なにしろ今夜はクリスマスイヴなのだから、それくらいは許される。




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