私が選んでいたドレスにも、胸の特殊メイクにも抵抗を示さなかった彼が、左手薬指の指輪にだけは首を振った。他をどんなに作り込んでも、これがあっては台無しなのだと言い含めても、指輪だけは嫌だ、と主張するばかりで平行線だ。
 仕方なくこちらが折れ、チェーンで首から提げる形にする。アクセサリーはもっと別のものを考えていたのだが仕方がない。ここまで協力してくれるだけでも信じられないのだ。いくらずば抜けた美貌の持ち主とはいえ、男性に女装をして、友人の婚約者の振りをしろだなんて、頭がおかしいと一笑に付されても仕方がない。今更指輪のひとつやふたつ、何だと言うのだろう。
 ドレスを半分脱いだまま、特殊メイクの乳房の上に乗った指輪をじっと眺めている姿は、『彼』と呼ぶのが失礼と思えるほど、女性としか思えない。豊満な乳房のせい。濃いめの化粧のせい。元の顔が性別をあまり感じさせないというのもあるが、表情につきまとう憂いがいっそう女性的な印象を与えるからだ。目を腫らせて現れたときは焦ったものだが、怪我の功名―――と言ったら失礼かもしれないが、結果的にはそうだった。
「彼女とお揃い?」
 脱ぎかけのドレスを下ろしてやりながら声をかけると、彼はすこしだけ顔をほころばせた。指先で指輪を弄りながら、少しの沈黙の後に口を開く。
「家族に貰った。とても、大切なものだ」
「…家の人は、このこと知ってるの?」
「言ったら、反対されるのは目に見えている」
 そう言いながら指輪を握りしめる。その力の強さに罪悪感が瞬いた。楽しんでいた自分を少しだけ恥じる。ビリーと彼の関係を良くは知らないが、もっときちんと考えさせるべきだったかもしれない。
「無理に来なくてもいいのよ?」
 私の言えたことではないが、つい口をついて出てしまった。あのときは飛び降りようとするビリーに、彼とひたすら動転していたためにこんな流れになってしまったが、だからと言って彼の拒否権が奪われたわけではない。ましてや、彼には心に決めた相手がいるようだから。腫れた目も恐らく、そういうことだろう。
 しかし彼はゆっくりと頭を振って、服を脱がせていた私の左手をとった。薬指にはまっている指輪をやさしく撫でながら、口を開く。
「結婚とは、家族になる、ということだろう」
「…ええ」
「私は、家族といられて幸せなんだ。だからビリーにも、望まない相手と家族になって欲しくはない。幸せに、なって欲しいから」
 そう言って笑う彼はとても綺麗で、思わず見とれてしまった。造形の美しさではない。きっとその言葉に、何一つ嘘がないからだ。唯、相手のことだけを思って口にする言葉がこれほどまでに美しいのだと思い知らされた。
 改めて、興味本位で手を貸していた自分を恥じる。この歳になってまで見合いの一つも断れない友人は情けないと思うが、それでもやはり、彼は自由な方が似合っていると思うのだ。幸せになって欲しい。それはきっと同じ願いだ。そのために、出来ることをしようと誓った。
「よし、ビリーの幸せのために二人で頑張りましょう! チン●ついてるとは思えないくらい可愛くしたげる!」
「……ッ!!!」
 そう言ってスカートの奥のものを軽く握ると、息を詰める音と共に白い肌に紅が散った。よく見ると、切れ長の瞳にうっすらと涙すらにじんでいた。人形のような精緻な面持ちが、とたんにかわいらしく見える。ああ、本当に男にしておくのがもったいない。
「あ、貴女という人は…!」
「これくらいのセクハラ、会場にいったらじゃんじゃんされるわよー。今のうちに耐性つけておかないと、ね!」
 上流階級のパーティにそんなことをする人間はそれほど多くない。しかしゼロではない。私の微妙な嘘を信じて、彼は膝をぴっちりと締めたまま涙目で訴える。
「…少し後悔した」
 きゅっと首に提げた指輪を握りしめ、深くため息を吐く。その様を見て、更に嗜虐心が煽られる自分を抑えるのが大変だった。





 透き通るような白い肌に、淡いピンクのチークを乗せて。漆黒のマスカラで深みが増した赤い瞳は、思わずのぞき込みたくなる誘うような色香を感じさせる。普段から整った顔立ちだとは思っていたが、こうして見ると女性にしか見えない。しかも、とびきりの美女だ。
 特殊メイクで女性らしくなった身体のラインを赤いドレスで強調し、ぴったりと寄り添ってくる仕草に、知っている相手だと分かっていても緊張してしまう。高いヒールの靴を履いて歩く足取りにも危なげがなく、僕は内心で教師と生徒の優秀さに舌を巻いた。
 僕と『彼女』が通り過ぎるたびに会場の人間が振り向き、密やかなざわめきが起こる。ギャラリーはまず見目麗しい『彼女』の姿に見とれ、それから、エスコートしている情けない男とのアンバランスさに首をかしげる。あからさまに見せる人間はいないものの、それが感じ取れないほど自惚れてはいなかった。
「ビリー……私は、おかしいだろうか」
 あくまで親しげにみせる演技は忘れず、小声で囁いてくる。細かい仕草まで女性そのもので、いっそ怖いくらいだ。
「いいや? 完璧だよ。安心してくれていい」
「ならいいのだが…浮いているような気がするのは、気のせいなのか」
 君が完璧すぎるせいだよ、とは返せずに苦笑するしかない。そのせいで僕とのバランスが悪くなるという予想外の弊害はあったが、それは『彼女』たちのせいなのではなく、ひとえに僕が悪いので仕方がない。もしここにいるのがグラハムだったらため息は吐かれても、もう少し浮かずに済むだろうかと、詮無いことを考えた。
 事前の打ち合わせ通りに、小型の高性能変声機を襟元につけてから、叔父の元へと向かう。叔父のそばには案の定、メールに添付されていたのと同じ顔の女性が立っていた。華やかな化粧が施され、写真で見るよりも数段美しく女性らしくなってはいるが、如何せん比較対象が悪かった。『彼女』の存在に気づき、一瞬だけ身を引いたのに気づいてしまった。
 彼女は何一つ悪くないのだ。唯、これは僕のエゴでしかない。欠片の罪悪感を覚えながらも、笑みと共に用意してきた台詞を口にする。
「お招きありがとう、叔父さん」
「おお、遅かったなビリー。……そちらの、お嬢さんは?」
 僕を見つけ、笑顔を浮かべようとした叔父の顔が途中で固まる。あの強引な叔父を驚かせることが出来たのは、少しだけ気分が良かった。しかし、勝利の美酒に酔いしれるには早すぎる。戦いはまだ始まってすらいないので、あり。
「紹介するよ。僕の婚約者の、ティア・リーサ」
「ティアと申します」
 花のように美しい笑顔を浮かべながら、『彼女』が会釈する。叔父は目を見開き、彼女は表情から色を消し去った。場の空気が凍り付くのが分かり、その中でも僕と『彼女』は笑顔を貼り付け続ける。隙を見せたら終わりだと思った。ティエリアにもそれを伝える必要がなく伝わっている。いつもの不器用な笑い方とは違う、完璧に美しくも隙のないそれは九条君を思い出させた。笑い方まで仕込むなんて、本当に優秀な教師だ。
 しかしそんなもので気圧されるような叔父ではない。相手もまた、鉄壁の笑顔を貼り付けてこれはこれは、と頭を下げる。こういうとき、自分の連れてきた女と言えどさらりと無視してみせるのはある種の才能だ。彼女がどこまで聞かされていたのかは分からないが、完全に居場所をなくして立ちすくむ様を見て、少し気の毒になる。
「あちらで詳しい話を聞きたいんだが、いいか? ビリーに…ティアさん」
 奥の部屋を指さす叔父には、もう、自分の連れてきた女性は目に入っていないらしい。今まで無表情だった彼女が、明らかな苛立ちを以て叔父を睨みつけても全く反応を示さない。こんなことで彼女の父親だという友人とやっていけるのかと、他人事ながら叔父の人間関係が心配になった。
「ええ。勿論ですわ」
 余所事を気にしてばかりの僕の代わりにティエリアが笑顔のまま応じた。
 そのときだった。

「待ちたまえ!!!!」

 やけに通りのいい声が、会場中に響いた。
 ギャラリーも、叔父も、ティエリアさえも目を見開く中、僕は密かに口の端をつり上げた。笑い出したくなる気分をこらえながら、声がした方を振り向く。そして、演技過剰なほどに力を込めて名前を呼んだ。
「グ…グラハム!?」
 僕の呼び声に応え、グラハムがこちらを見やる。その些細な仕草すらまるで俳優のように決まっていて、悔しいがこういうときの彼は期待を裏切らないのだと実感する。あとは僕の演技力次第なのだが、ここを乗り切らなくては僕はサンタクロースになれない。自由にもならない。もう後がないのだ。
「ど、どうしてここに…」
「すまないビリー。私は、どうしてもきみを諦められない!」
 台詞と共にものすごい速度で僕に近づいたかと思うと、むしり取るように乱暴に抱きしめられる。流石軍人と言うべきか、容赦というものを感じさせない。首のあたりがぐきりと鳴った。
 しかし、その痛みも、あっけにとられた叔父やティエリアの視線を感じて吹っ飛んだ。痛かろうが、苦しかろうが、恥ずかしかろうが続けなければならない。絶対に負けてはならず、退いてはならず、諦めてはならないのだ。僕自身の尊厳と自由のために。そして、友人とその恋人の幸福のために。何を失おうとも。
「無理なんだよ僕たちは! 君にはもっといい女性がいるだろう! 男の僕なんかより…」
「男同士が何だ! 私は、きみを愛している! 分かったんだ、きみを手放すことなど考えられない!」
「グラハム…」
 昨日、徹夜で作った台本はそこまでだった、筈だ。
 僕は内心で安堵した。噛まずに、飛ばさずに、感情を込めて台詞を言えた。学生の頃の発表会で木の役しか宛われなかった僕にしては、上出来ではないだろうか。これで、呆然とした叔父に、僕は実はゲイなんですと適当に言って追い打ちをかければとりあえずは解放されるだろう。
 何か、とても大切なものを失ってしまった気はするが、きっと仕方のないことなのだ。自分のエゴを押し通すためには、それなりの対価を必要とする。それくらい、子どもでないのだから分かっている。
 けれど。
 まさか、台本にないキスをした挙げ句、舌まで入れてくるのはあんまりではないだろうか。
「んっ、……」
 唾液の絡む生々しい音と、きついミントの香りがなんだかすごく腹立たしい。生ぬるい舌が歯列をなぞり、口腔をなで上げ、粘膜を陵辱する。その奇妙な感触に鳥肌が立った。出来ることなら知りたくなかった。叔父を睨んでいた彼女が真っ赤になって目をそらし、ティエリアの赤い双眸がじっとそれを観察し、叔父は―――光のない目で、虚空を眺めていた。
 やがて唇が離れ、グラハムが男らしく唾液を指で拭う。そしてその指先を、そのまま出口へと向けた。空色の双眸をティエリアに向け、ほとんど聞き取れるか聞き取れないかの音量で口にした。僕が言うはずだった言葉を。
「行きたまえ、彼のもとへ。私たちからのクリスマスプレゼントだ」
 丁寧にウインクまでセットだった。ファーストキスの衝撃で動けない僕とはまるでかけ離れている。まるで本物のサンタクロースのように堂々としていて、与えることを厭わない。なんてずるい奴だと思う。人選を間違えなかったことが、何より悔しい。
 唾液もそのままにふらふらと膝から落ちていく僕を、ティエリアが心配そうに見ていたので、せめてとやわな笑顔を作ってみせる。力の入らない指で、グラハムと同じ方向を指さすと、ティエリアはようやく頷いてきびすを返した。騙してごめん。黙っていてごめん。利用してごめん。色々言いたいことはあるが、今は彼に行って欲しい。
 ―――だって、今日はクリスマスなんだから。




>>