僕と九条君―――今はミズ・スメラギだった―――の前に現れたティエリアの目を見て、僕はひどく後悔をし、彼女は頭を抱えた。恋人もしくは新婚家庭における24日の意味ということを僕はすっかり失念していた。彼の家族がここのところ忙しく働いていた理由も。僕が、僕のエゴのためにぶちこわしにしてしまったのだ。
 まだ幼い友人には、うまく相手が傷つかないように言い訳をすることなど出来ないだろう。その目を見るだけで、こじれにこじれたことはありありと想像がつく。
 目が腫れてちゃ化粧が映えないじゃない、と言おうとする九条君の口を慌ててふさぎ、お願いだから言及しないでくれ、と耳元でささやく。罪悪感で一杯になりながらも、もういいから帰ってはやく謝っておくようにとは言えなかった。今更帰したところで、真面目な友人は引き下がらないだろうという現実問題は置いておいても、やはり僕はどうしようもなくエゴイストだった。
「まず、目を冷やしましょう。話はそれからね」
 ひとつため息を吐いて、彼女が弱々しい微笑みを浮かべた。ティエリアを託す前に、君はクリスマスにこんなことをしていていいのかい、と今更ながら問いかける。抜け殻のようなティエリアを丁寧にアイシングしてやりながら、無粋なことを言われたという風に唇をとがらせた。彼女はゆっくりと頭を振る。
「そんな記念日に拘るほどお互い、子どもじゃないもの。心配しなくてもうちは円満家庭だから。それに…」
「それに?」
「こんな美貌を自由にカスタマイズできる機会なんて、もう二度とないと思うし。男の子だって信じられないわ、今でも」
 いたずらっぽく笑った彼女の目は獣の目をしていた。その楽しそうな様に少し罪悪感が薄まる僕はずるい人間だった。





 ティエリアは彼女に任せれば安心と言えたが、問題はもう一人の方だった。記念日に拘るほどには青臭さの残る不機嫌な横顔は、今日も上官と一緒にマッシュポテトをつついている。しかし、あれほどの刺々しい空気を出す相手の横でよくもまああんなに脳天気な面が出来るものだ。よほどの図太い神経がないと無理だと思うが、それを持つ相手であることも僕は痛いくらいに知っている。
 手みやげを持参していたとしても、テーブルの空いた席に座るのには勇気が要った。明るい声が、カタギリ、久しぶりだな!と素通りしていく。深緑の双眸がちらりと一瞥して、それから離れる。黙ってマッシュポテトを口に運ぶ。完璧に、ないものとして扱われた。心が折れそうだ。
「や、やあロックオン」
「……………どうも」
「どうしたカタギリ? マッシュポテトならやらんぞ。これは彼と私のものだからな。さしずめ愛の結晶と言える!」
 放置していると、とうとうと芋への愛を語り出しそうな空気の読めなさに、うっかり安堵してしまった自分が悲しい。ロックオンが場を離れないのもそのせいだろう。二人きりだったら黙って逃げられて終わりだ。こんなときに、グラハムに縋るしかない自分が情けないが、利用できるものは利用するのだと割り切るしかない。
「24日は、悪かったよ」
 回りくどく責めるほど間が持たないので、仕方なく結論だけを先に口にする。ロックオンはあからさまに苛立たしげに眉を寄せながら、口にいっぱい詰めたマッシュポテトを嚥下した。
「もういいです。カタギリさんが心配なんでしょ、うちのは」
「なんだ、喧嘩か? そういうときはベッドの上で、」
「…もういから黙ってて君は。うるさい」
 訂正。やはり空気が読めない男は困る。切り捨てて黙らせると、むう、と唸ったあとにロックオンが手をつけなくなったマッシュポテトをほおばり始めた。場を去るという選択肢はないらしい。
「ティエリア、すっごーく心配してましたよ。愛されてますねカタギリさん。俺、妬けちゃう」
「あ、あはははは…そうかな」
 口調は冗談のようだし、口も確かにつり上がっているのだが、目だけがちっとも笑っていない。それ故に怖くて仕方がない。端々からにじみ出ている怨嗟で身が凍りそうだ。逃げたくなる衝動をぐっとこらえ、手みやげである救急箱をぎゅっと握りしめる。友人が、僕のために尽力してくれるのだ。僕にはそれに応える義務がある。
「本当に。俺なんかよりずっと大事にされてますよね」
 笑っていなかった目を強引に細めて、笑顔らしきものを作る。その不自然さが怖くて仕方がない。常々、彼は恋人のことになると人が変わると思っていたが、マイナスの方向でもそれは正しいようだ。助けて。助けてティエリア。ここにいない友人の名を呼んだ。
「そういうことを言うものではない」
 しかし、そんな僕を助けたのはここにいる友人の方だった。いつの間にかマッシュポテトをほおばる手を止めて、真剣な顔でこちらを見ている。空色の透き通った目は、不思議な力を秘めていた。
「他でもないきみ自身が、きみへの愛を疑うとは何事だ。万死に値する、と言わせて貰おう」
 深緑の目が見開かれた。彼がまとっていた刺々しさが薄れ無防備になる。その隙をつくような形で、僕はテーブルの上に救急箱を置いた。援護射撃がなければ言い訳のひとつも出来ないなんて、本当は僕こそが万死に値するといえる。けれど今は、なりふり構ってなどいられないのだ。ティエリアのために、なんとしても失った信頼を回復してみせる。約束などはない。唯、感謝はしているから。あの不器用な友人に。
「…そうだよ」
 救急箱を開け、その底に残っていたものをいくつか取り出す。かろうじて床に撒かれずに箱の中に残った分だった。日持ちがしそうな具材を選んで保存したので、食べられなくはないはずだ。多分。
「今回のことは、僕が悪いから。どうか、彼を怒らないで欲しいんだ。これに免じて」
 サンドイッチ。軽くトーストしたパンにチーズやトマトを挟むだけのごくごく簡単な料理だ。それを五時間かけてつくったのだとティエリアは言った。もう食べられないと言ってみっともなく泣きながら。難解な論文を理解した上で、高度な議論を交わすこともできる少年が、ことロックオンが絡むと子どものようになる。ひどく不器用に、無力に、情緒不安定になる。楽しそうになる。かわいらしくなる。そういうもののすべてを、大事にして欲しいと思う。僕が言えたことではないのかもしれないけれど。
「ティエリアからの差し入れだよ。お仕事、お疲れ様ってさ」
 底にあったひとつを彼の鼻先に突き出し、驚いて力の無い手のひらに握らせる。彼はもう怒気を取り戻すことなく、まるで世にも珍しいものを見るかのように、唯ただそのサンドイッチを眺めていた。無許可で他人のランチに手を伸ばす、人の家の冷蔵庫を開けるのに躊躇いもないグラハム・エーカーも今は黙ってマッシュポテトを咀嚼しているだけだった。
「…なんだ」
 やがて、困ったような、嬉しいような、哀しげなような複雑な表情を取り戻し、彼がサンドイッチから視線を離す。こちらを見据えた彼は、迷子の子どものような目をしていた。グラハムは視線だけをそこに遣った。
「日にちに拘るなんて、馬鹿みたいですよね。いい大人が」
 彼が絞り出すように笑うものだから、容易く否定の言葉を投げかけることも出来ない。僕の安い同意など届かないところにあるような、暗い淵の存在を感じた。それは、ティエリアが現れる前に、時折彼につきまとっていたものだ。
「……俺、クリスマスが好きだったんですよ。街中が明るくて、料理も旨くて、周りも笑ってて。サンタが来るなんて本気で信じちゃいませんでしたけど、それでも、プレゼントとか楽しみで」
 過去形で語られたことに僅かな痛みを覚える。彼の隣にいたグラハムも、いつの間にか食べることをやめていた。けれど、語る彼自身はきっと、僕らのことなんて見えてはいないのだ。家族を喪った深い孤独は彼だけのもので、誰にも触れることは出来ない。
「ここに来てからも相変わらずにクリスマスは綺麗で、幸せそうで。でも、もう俺はそこに混じれないんだって思ってて……ああ、何言ってんだろ、俺」
 自嘲気味に笑う彼は、それでも言葉を紡ごうと探している。何度か動きそうになった唇は、ぐっと飲み込まれて、その代わりにワントーン高い声が上塗りされた。
「そんなわけで! クリスマスは俺、ずっと仕事してたんで。誰かと過ごそうと思えたの、久しぶりで、ちょっと浮かれすぎてたんです。それだけです」
 完璧につくられた笑顔が唯、哀しいと思った。
 彼は僕たちに暗い淵の底にあるものを、決して見せようとはしないのだ。その片鱗を見せながらも、ある一定の距離で踏みとどまり、器用に笑って押し隠そうとする。すぐそばにいる人間が深い孤独に苛まれていても、どうしようもなく無力だった。彼は僕らに助けを求めない。それだけを、痛いほどに突きつけられる。
「きっと、ティエリアだってクリスマスなんてくだらないって言います。サンタクロースだって知らなそうだし。だからいいんです。カタギリさんが気に病む必要なんて―――」
「…よく、分かったよ」
 低くつぶやき、救急箱の底にあるサンドイッチをひとつ、取り出す。ロックオンには申し訳ないが、こちらも腹ごしらえが必要なのだ。多分、これから明日までは食事などをしている暇はないだろうから。
 勢いで一口かじると、舌がぴりりと痛み出す。慌ててサンドイッチを見ると、笑ってしまうほどタバスコにまみれたハムがサンドされていた。自覚したらなおのこと痛みが増した気がするが、ちょうどいい。カンフル剤にしてしまえ。そう思い直し、まるごと口の中にタバスコハムサンドを放り込む。火事のように熱くなった口のまま、乱暴に言葉を吐きだした。
「君に最高のクリスマスをあげるよ、ロックオン」
 血走った目で、腫れ上がった唇で、そんなことを突然言い出す上司にロックオンはあっけにとられていた。
 しかしプレゼントというものは、サプライズであればあるほど嬉しいものなのだ、多分。罪悪感で動けなくなるくらいなら、こちらから行動してしまえばいい。どうしてそんなことに今まで気づかなかったのか。
「僕と一緒に、サンタクロースになる気はない?」
「望むところだ、と言わせて貰おう」
 とびきりの行動力を持つ上級大尉殿が、応えるようにいたずらっぽい笑みを浮かべる。絶望にまみれた頭で考え出した苦し紛れの作戦が、とびきりのサプライズなプレゼントに変わるかもしれない。それは少なからず僕を高揚させた。捨て鉢だったとも言えるが、今はもうどうでもよかった。
 端末に住所を入力し、ロックオンに送信する。
「明日の夜にそこに来て。君、絶対喜ぶから」
 呆然としているロックオンに、サンドイッチは忘れずに食べて、と言い残し、グラハムと共に食堂を後にする。親友のごつい腕を引きながら、不思議といい気分だった。笑い出してしまいたいくらいだ。
 明日は楽しい夜にする自信があった。あれほど嫌で嫌で仕方なかったクリスマス・イヴが、今は待ち遠しくて仕方がなかった。
 たとえ、大切なものを失ったとしても構わないと思えるほどに。




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