赤いトマトの汁をたっぷりと吸いこんだパンはぺしゃりとつぶれていたが、それでもみずみずしいトマトの香りは損なわれておらず、水分を含んでいるせいで喉の通りも良い。確かに人を選ぶかもしれないが、少なくとも僕は嫌いじゃなかった。一度は床に落ちたとしても、味が損なわれるわけではない。衛生面でも問題はないのだと遙か昔に証明はされている。全く問題はない。
「そう思うなら、全部食べてかまわない……」
 しかし、いくらそう言って励ましても、ティエリアは項垂れたまま膝を抱え、床にうずくまっていた。暖房のよく効いたこの部屋でも、きっと彼の周りの気温だけ二度くらい低い。
 少し迷った後、お言葉に甘えてつぶれたハムサンドに手を伸ばそうとしたとき、横からさっと救急箱を奪われる。彼女は僕に一瞥もくれずに、うずくまるティエリアの背中をやさしく宥めていた。いつからこの二人はこんなに仲良くなったのだろう。多分、今日が初対面の筈なのだけれど。
「ヤケにならない! ほら、まだ食べられるってビリーが証明してるんだから」
「いいんだ…こんなもの唯のゴミだ……」
 食べていた人間の前でゴミ呼ばわりはひどいと思う。抗議の声を上げる前にレンズ越しの赤い瞳が揺らいだ。つぶれたトマトだ、と反射的に失礼なことを思った。
「ああもうほら! 泣かない!」
 そう言って涙を拭くのは彼女のカシミヤのマフラーだ。こういう大雑把なところは昔から変わっていないらしい。旧友の変わらぬ姿に安堵を覚え口の端をつり上げながらも、彼女がここにいる理由だけが思い出せない。脳が思い出すのを拒んでいる。救急箱の周りに散乱したサンドイッチと、この世の終わりのような顔をしたティエリアの顔しか記憶にない。
「ええと、僕が食べるんじゃないなら、ロックオンに渡せばいいのかい?」
「そ、れだけは…!」
「いいわよいいわよ渡しちゃえばいいわよ。はい決定! 食べ物を粗末にしないのもったいない!」
 バシーンと激しく音を立てて彼女がティエリアの背を叩く。それほど力は強くない筈だが、ティエリアは見事にバランスを崩して、僕の積んだ紙束に頭からつっこんだ。分厚い本を積んでいなくて良かった。代わりに、重要な書類があったかもしれないけれど気にしないことにする。
 紙の海に溺れながら、おれぼくわたしは…と一人の世界に入り込んだティエリアをよそに、ようやく彼女がこちらへと向き直った。再会を喜び合うタイミングを完全に逸して、とりあえずへらりと笑いかける。間が持たないときの僕の癖だった。
 彼女は一瞬思い出したようにぽん、と手を叩き、それから持っていた荷物の中からワインの箱を取り出した。それを僕の鼻先に突きつけ、満面の笑みを浮かべる。僕は彼女からそれを貰う理由が思いつかなかった―――否、思い出そうとしなかった。
「結婚おめでとう、ビリー」
「……ヒィッ!!」
 リアルにそんな声を出して仰け反る僕は、端から見ても異常だったに違いない。実際、ティエリアすら紙の山から顔を上げてこちらの様子を伺っていた。差し出されたワインは行き所がなく二人の間でさまよい、彼女のまるい瞳は怪訝そうに見開かれる。
 無意識に逃げ続けていた話題を唐突に突きつけられ、心の準備ができていなかったのだ。しかし僕は思い出してしまった。それこそが彼女をここに呼んだ目的であり、これから数日という限られた時間の中で、とんでもないことを企んでいたという事実を。
 ―――絶対に負けてはならず、退いてはならず、諦めてはならないのだ。僕自身の尊厳と自由のために。
 決意を胸に、仰け反った姿勢からようやく立ち直ってワインを受け取る。彼女の褐色の瞳をまっすぐに見据え、言い聞かせるように肩に手をやった。大学にいた頃は彼女に触れるのも恐れ多いと思っていたけれど、今はもう躊躇いもない。それだけ僕の意志は固かった。無謀な計画だなんて分かり切っていた。けれど。
「そのことで、お願いがあるんだ…九条君」
「ああっ、そのことなんだけど。私も結婚したの。今はスメラギって言うのよ」
 ぴしりと、僕の強固な意志に亀裂の入る音がした。それは淡い初恋の打ち砕ける音だったかもしれない。僕は真顔のまま固まり、それに気づかない彼女は照れくさそうに笑って、さりげなくシルバーの指輪を見せる。白く長い彼女の指先に、それはとてもよく似合っていた。
「夫―――エミリオがね、最近あなたの叔父さんと仕事しているんですって。すごい偶然じゃない? 私がビリーの同級生だって話をしたらとても驚いてたって」
終わっ、た。
 玉砕の二文字が頭を駆けめぐる。クリスマスパーティで彼女に婚約者の振りをして貰うという作戦は、口に出す前に見事に潰えてしまった。パートナーが既婚者だと知られてしまってはどうしようもない。かといって悲しいことに彼女以外に適任もいなかった。
 同じく大学の同期のカティ・マネキンは、その戦術予報士としての業績からいまや国を超えての有名人であるせいで、こういう嘘には向いていない。第一彼女には、AEUのパイロットの婚約者がいるのも有名な話だ。こういうゴシップにはあまり明るくないが、そのお相手が派手なせいで遠いユニオンにもその噂は流れている。僕が知っているくらいだから、叔父の耳にも届いているに違いない。
 異性の友人どころか知り合いだって、悲しいことにこの二人以外には思いつかない。こんなときばかりは、パートナーを取っ替え引っ替えしている知人が羨ましいと思った。奴にそれを打ち明ければおこぼれの一人や二人宛ってくれるのかもしれないが、生憎初対面の女性と親戚に対して嘘を吐けるほど、綿密な打ち合わせをする時間もない。
 全てはもう、遅すぎた。
「それで、お願いって何……ビリー?」
「…ふふ、もういいんだ」
 弱々しい笑みを貼り付けて彼女の脇をすり抜ける。そのまま一ヶ月締め切っていた窓を開けた。とたん、凍るような外気が吹き込み、ティエリアが顔を預けていた紙束が宙に舞う。そんなことも、もうどうでもよく。
 黒いカビのこびりついた窓枠に手と足をかける。灰色の空に吸い寄せられるようだった。たぶんこの高さでは死ねないだろう。だが、骨の一本や二本でも折って入院沙汰にでもなれば、パーティどころではなくなってちょうどいい。破れかぶれになりながらも、被害状況を高度と落下速度から無意識に計算し始める自分がばかみたいだ。
 メリー・オア・ダイ。その言葉が洒落にならないほど、僕は今の生活に固執していた。そのことに自分で驚いた。





「飛び降り未遂!?」
 ティエリアの口から出た穏やかでない単語に、ブランデー入りの紅茶を吹き出しそうになった。ティエリアは冷えた身体に温かいココアが心地よいのか、ちびちびとマグを舐めてはこくこくと何度も頷いている。
「私と、彼の友人の二人がかりで止めた。あんなに錯乱したビリーは初めてだ」
「俺にも想像つかねえよ…」
 ついに隊長の飼育が嫌になったのだろうか。確かにここ数日の隊長は、やれフラッグをクリスマスカラーに塗装しろだのクリスマスのオーナメントをつけたら素晴らしいだの、呆れるような言動ばかりだが、それだって今に始まったことではない筈―――いや、積もり積もったものがあるのだろう。何せ付き合って数年という俺でさえ、三日に一度は本気で殴りたいと思っている相手と七年も付き合い続けているのだから。それにしたって、誰もが浮き足立つこんな時期に爆発しなくてもいいと思うのだが。
「ビリーが心配なんだ…」
「ああ、俺もだ」
 ふう、とため息を吐く同居人を前に、こちらも神妙に頷く。彼は彼の友人に対してひどく心を傾けている。憂いを帯びてなお崩れない顔立ちに見とれながら、ほんの少しだけ技術顧問を羨ましいと思った。こんな顔、俺でさえ相当弱らなければ見せてくれないのに。
 そうやって見とれていたところで、不意にティエリアが真剣な顔を見せる。残り少ないココアを飲み干し、マグを乱暴にダン、と音を立てて置いた。ロックオン、と名前を呼ばれ、思わず姿勢を正す。
「私は、彼が心配なんだ。わかるか」
「ああ、わかるよ」
 少しだけ妬けるが、友人思いのそんなところも含めてティエリアが好きだ。同意をすると、うむ、と大仰な仕草で一度頷いてから彼が続けた。
「同意を得られて安心した。……24日の予定はキャンセルだ。いいな」
「おう! って、え、ちょっと待てお前」
 勢いよく頷いてから、彼の言葉の後半部分―――主に口の中でごにょごにょやっていた部分を問い返すと、彼は端正な顔を思い切り歪めて舌打ちをした。そんな品のない仕草、どこで覚えてきたのだろう。保護者として非常に嘆かわしい―――じゃ、なくて。
「24日に予定入れるなって前々から言ってあっただろ?」
「だから、それが不可能になったと言っただろう。私は彼が心配なんだ」
 彼のあまりにも一方的な言いぐさを、はいそうですかと受け取れるほど、さすがに俺も甘くはない。明後日に休暇を取るためにどれだけの苦労をしたと思っているのか。そういう自分の苦労を、相手に押しつけるのは良くないと思いながらも、苛立ちを隠せないでいる。
「…カタギリさんが心配なら、ここに呼んでもいいよ。何も、キャンセルすることないだろ」
「そういう問題じゃない」
 妥協案を示しても、とりつく島もなく突っぱねられる。その頑なさに苛立ちが更に煽られた。怒鳴りつけてやりたくなる衝動を奥歯を噛みしめてこらえ、冷静になるよう努めて問いを投げかける。深呼吸すらままならない。
「…随分急な用事だな。何?」
「それは、言えない約束になっている」
「ドタキャンした相手に説明の一切もなしか」
 言いよどむティエリアの顔がみるみる曇っていくのが分かるが、口調がきつくなっていくのを止められない。何のために、今まで、と責めたくなる衝動をこらえるので精一杯だ。明日も仕事があることをこんなに嫌だと思ったことはない。24日に休暇を取るために、日付が変わる頃までカンヅメだ。それでも、休暇のために頑張れたのだ。それも昨日までのことになってしまったけれど。
 追い打ちをかけたのは、彼の蚊の鳴くようなボリュームのいらえだった。
「…言ったらあなたが、反対するから」
「俺のせいにすンな!」
 反射的に立ち上がると、びくりとティエリアが身をすくませる。それを見てようやく我に返った。冷えた頭で、休暇を入れたのもその日に二人で過ごそうというのも、俺が勝手に決めたことだと思い出す。こうして言えないのはよっぽどの事情があるのかもしれないと考え直す。けれど、それらの正論は理屈としては分かっても、感情として落ちてこない。浮かれきってたぬるい頭のまま突き落とされた気分だった。
「…怒鳴ってごめん」
 低い声で謝罪をするのが精一杯だった。相手は縋りもせずに黙って俯いているだけだ。何かに耐えているようにも見えるその様を軽く撫でてから、部屋を後にする。こういうときに荒々しい感情をぶつけてこなくなったのは、成長したといえるのだろうが、今は唯さみしいと思った。


 翌日の朝、いつの間にかベッドに潜り込んでいたティエリアのまぶたは痛々しく腫れていて。その様を見ると、俺は悪くないのだと主張することすらばかばかしくなる。目尻の涙の痕にそっとくちづけると、長いまつげが揺れた。雪のような肌はわずかに塩辛く、涙の味がした。



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