―――戦争が起こることを、切に願った。
 平和主義を信条とする僕でなくとも、穏やかではない願いだ。名誉のために付け加えておくが、戦争を生業とする集団に属しているものの、そう心から願ったことはこれまでに一度もない。僕は平和に、穏やかに、何事もなく日々を過ごせればそれで一番良いのだ。
 そう。平和に、穏やかに、何事もなく。七年前にトラブルメーカーの知人に出会ってから適わなくなってしまうこともあったが、概ね僕の願いは聞き届けられていた。多くを望んでなどいないのだから当然だ。そうあるべきなのだ。
 それなのに、休暇届を書かなくてはいけないこの状況は何なのだろう。
 演習後に働きすぎたせいで休暇は売るほど余っており、不幸なのか幸いなのか分からないが(恐らく幸福なのだろうが)世界情勢も危ういバランスで、小康状態を維持している。このままクリスマスまで僕らが活躍することは恐らくないだろう。つまりそれは、この届けが受理される確率は100%に近いということで、僕は12月24日に休暇を取れるということだ。
 届けにある空欄をのろのろと埋めながら、この不幸に至った状況を顧みた。今すぐこの画面がサーバーのトラブルで全部が消えてしまえばいいのにと、ありえない願いすら頭を過ぎる。人間、追いつめられるとここまでエゴイストになれるものらしい。
 不幸はいつも電話から始まるのだ。
 ちょうど十日前に叔父からきた電話からすべてが始まった。そろそろ身を固めろという聞き飽きた文句をいつものように流していたら、いつの間にか僕は叔父主催のクリスマスパーティに参加することになっていて、いつの間にかそこで叔父の友人の娘を紹介されることになっていた。
 だいたい、二十歳そこそこで名のある大学を首席で卒業したばかりの才女で、しかも良家の娘なんていう良物件が、三十過ぎのフラッグオタクのもとへ来る筈がない。だからその話は叔父の冗談か妄想だと信じていたし、メールで添付された異性に縁が薄そうな地味めの外見(僕も人のことは言えないのだが)も無駄にリアルなCGだとばかり思っていた。
 パーティ当日である24日にわざわざフラッグファイターへのカウンセリングを入れるという、ささやかな嫌がらせをしている場合ではなかった。叔父は本気だった。今日の今日までそのことにすら気づかなかった僕は途方もなく愚かだった。

「ビリー、あなた結婚するの?」

 二年ぶりに来た、数少ない異性の友人から来た電話の第一声がそれだった。心臓が止まるかと思った。酔った彼女との会話に脈絡が見えないのは珍しくなかったが、不幸にも彼女の声は平常時の知性を感じさせるそれで、意識が正常であると伺えた。しかしそれだけに僕の思考は追いつけないでいる。
 カラカラに乾いた喉で、ようやく、どこでそれを、と一言だけ絞り出すと、彼女は何を今更、と言った風情で後輩から聞いたのよ、と付け加えた。後輩が大親友に打ち明けられた悩みが、巡り巡ってここまで来たのだという。
 その後輩とやらの大親友の姓には覚えがあった。叔父が最も懇意にしている相手の姓だ。名前は彼女の口から聞いて初めて知った。叔父も何度か言っていたかもしれないが、何しろ僕はすべて聞き流していた。地味な外見とはかけ離れた華やかな名前だと、まるで他人事のように思った。
「結婚、するのかなぁ……僕」
 電話の向こうの彼女は僕の曖昧な返答を訝り、更に追及しようと問いかけてくる。しかしそれに反応する元気は欠片も存在しなかった。一時は憎からず思っていた相手からの電話も、予想以上に悪化していた現状を突きつけられて耳を通り抜けていく。結婚。自分に最も縁遠いと思っていた言葉が突然生臭みを伴って降りかかってきたのだ。ついていけない。受け入れられない。しかし時間だけは過ぎていく。
 ろくに動かない頭で、矢継ぎ早に降ってくる質問を無理矢理に切って、ついでに電話の電源も切った。そしてろくに動かない手のひらで不器用に休暇届を申請し、今に至る。端末の隅のカレンダーが、Xデーが明後日だと残酷にも示す。もはや出口などどこにもない。
 こういうときの叔父の強引さは筋金入りなのだ。悪い人間ではないのだが、気に入った人間をなんとしてでも自分の思い通りにしようとする。なんといっても、電話をくれた彼女と一緒に大学に残って細々と研究員をしていようと思っていた、若き日の僕のささやかな夢を、最新型のフラッグという餌で釣って叩きつぶした張本人なのだから。ついでに言えば、今の奥方もダブル不倫の末に略奪したという専らの噂だ。
 一度会ってしまえば、仲のいい友人としてのお付き合いではすまされない。顔を合わせたそのときに挙式の日程まで決められてしまうだろう。
 ほんの一瞬だけ、不眠を発症したときのために常備してある睡眠薬が頭を過ぎった。慌てて首を振り、その衝動を打ち消す。メリー・オア・ダイなんて洒落にもならない。純潔を守る乙女でもあるまいし。
 ははは、と笑ってから、自分だってもしや似たようなものなのではないかと思い、少し悲しくなった。せめて恋人でもいればそれを盾にごまかすことだってできるだろうに―――。
「……それだ」
 息をのみ、ひとつの結論に至る。それは相当に危険な賭でもあった。しかし、それ以外に方法が思いつかないのも事実だった。何せ悲しいことに、生まれてこのかた勉強と研究で頭が一杯で、男女の機敏などさっぱりわからない独身男なのだから。





 サンドイッチ。軽くトーストしたパンにチーズやトマトを挟むだけのごくごく簡単な料理だ。これならティエリアも失敗しないだろ、と言って私にこれを教えた男は、ここ数日家を空けている。
 別に喧嘩をしたわけではない。単に相手が基地に泊まり込んでいるだけだ。クリスマスに休暇を取るために躍起になって仕事をしているようだが、私にはなぜ彼が、クリスマスの休暇に拘るのかがよくわからない。
 基地にいる彼の目の下の隈は、疲労のせいで日増しに濃くなっていくばかりだった。友人が送ってくるフォトデータを眺めるのが日課になりつつあったが、今にも倒れそうな目でマッシュポテトを押し込んでいる彼を見ていると、正直言って食事がまずくなりそうだ。
 だからこれは気の毒な彼を案じて差し入れをしようという思いやりであって、決して、断じて、彼と彼の上官が食堂で楽しく談笑しているフォトデータが気になったからではない。二人で一つのマッシュポテトの山をつつくなんて羨ましくも何ともない。ビリーだって何も、彼の上官が彼の頬についたポテトを指で拭う瞬間という、絶妙なタイミングでカメラにおさめなくても良いだろう。
 大体彼も彼だ。普段は触ったら妊娠するなどと言って過保護に私から上官を守ろうとするくせに、自分に触れてくる指は拒まないなんて矛盾していると思わないのだろうか。それとも、私の目がないのならどうでもいいと思っているのだろうか。どちらにせよ無防備に触れられたという事実は万死に値する。罰としてサンドイッチの中に一つ、タバスコをたっぷり塗りたくった特製ハムサンドを織り交ぜておいた。
五時間ほどかけてサンドイッチを作ったはいいものの、ランチボックスが見あたらず、仕方ないので救急箱の中身を机に撒いて代わりに詰めた。思いの外ぴったりと収まって自然と笑みが漏れる。隅から隅まで洗った上に、オキシドールで拭いてからサンドイッチを入れたから、衛生面も問題はないだろう。
 きっと彼は仕事が忙しいだろうから、直接渡さず友人に託すことにする。その際友人には、決して自分からだとは言わないよう念を押しておく。こんなものを作ったと知られたら、彼はまたお返しといって何かを私に与えようとするから。もう与える必要はない。黙って受け取っておけばいいというのに、彼は一向に与えることをやめようとしない。


 軍基地までの道のりは、心配性の彼がもしものときのためにと置いていったメモがあった。送迎バスの窓から塀に囲まれた軍基地を確認したときには、我ながら非の打ち所のない作戦だと噛みしめずにはいられなかった。
 受付で面会手続きをした後、待合室のロビーで連絡を待つ。慣れない場所だが、不安や引け目はあまり感じなかった。友人―――ビリー・カタギリは最近仕事もそれほど忙しくないと言っていたし、いつもより多く送られてくる写真がそれを裏付けている。ランチを託すくらいは迷惑にならないだろう。
 外気に冷やされた救急箱はつやつやとライトを反射してその白さを際だてている。ロビーの硬い椅子に腰掛けながら、その表面を軽く撫でていると、不意に声をかけられた。
「それ、救急箱……よね?」
 目の前に、真っ白な双丘があった。
 更に顔を上げ、サングラスをかけた女性の顔があって初めて、それが女性の乳房だと気づく。大きく襟ぐりの開いたカットソーから覗くそれは異常なほどの存在感を示していて、不意を打たれたのもあって認識が追いつかなかった。ぼんやりとサングラスと胸とを見比べてから頷くと、女性がふっとリップを引いた唇をつり上げた。ゆるく弧を描く赤に見とれた。
「ごめんなさい。いきなり話しかけて、変な女みたいね」
「……いいえ」
 否定した自分の声は自覚できるほど緊張していて、説得力の欠片もない。見知らぬ人間に話しかけられるのは初めてではないが、いつまでたっても慣れない。今は気を遣って間に入ってくれる人間もおらず、逃げるわけにもいかない。ふわりとこぼれるトワレの甘い香りが少し居心地悪い。
「あなた、学生? 家族に会いに来たの?」
 謝罪をしながらも彼女は言葉を止めなかった。まともな言葉を紡ぐことを諦めて、頭を縦に振る。いつの間にか女性は隣の椅子に腰掛け、じっとこちらをのぞき込んでいる。
 あまり色の濃くないサングラスから覗く面立ちは甘く端正で、私の数少ない交友関係にはない目眩がしそうな印象を与えた。あの、アイリッシュバーにいる女性を思い出させるそれだ。救急箱を握りしめる手が無意識に強まった。
「バスにいたときから相当目立ってたわよ、あなた。唯でさえ可愛いのにピンクのカーディガン一枚で、しかも救急箱でしょ?」
「……そうですか」
 居心地の悪さに耐えかねて、目を逸らし突き放した。同じだけ、浮き足だった自分の不手際を恥じていた。確かに寒いような気もしたし、端末が最高気温一桁と表示していた気もしたが、作った達成感で何も考えずそのまま飛び出してしまったのだ。
 なるべく人目を引くのは避けたいと思っているのに、自分からこんなことをしていては意味がない。だからといって、こうして好奇の視線を向けられたところでまともにあしらえるわけでもない。サングラス越しのまっすぐな視線と、薄いカーディガンと、サンドイッチには不似合いの救急箱。どれもこれもが居心地の悪いものになった。
 俯いてため息をはき出した。髪の間から覗いた裸の首に、不意にやわらかいものが触れる。身じろぎをすると瞬く間に腕が絡みつき、甘いトワレが鼻を突く。ちょうど頭を抱きしめるような形になったかと思うと、今度は唇にやわらかいものが触れた。それがマフラーであったことに気づいたのは少し後だ。
「…気を悪くさせちゃったみたいだから、お詫びね」
 首から口元まですっぽりと包むマフラーは、暖房の効いた室内では少し暖かすぎる。肌になじむ感触が心地よく、かすかに甘い香りがした。
「それ、あげるわ。暖かいし顔も隠せるし一石二鳥」
「あなたは…」
「大丈夫よ、コートもあるし。それともコートが欲しかった?」
 いたずらっぽく笑いかける彼女の前で、慌てて首を振る。それどころかマフラー一本だって貰う謂われはない。好奇の視線を向けられるのは特別なことではないし、こんな風に謝られることなどなかった。慌てて解こうと首もとに手をやると、膝に置いていた救急箱がバランスを崩して床に転がっていく。
 それは不幸にも真正面から床に飛び込んでいき、留め金と隅々まで磨かれた床が熱い口づけを交わす―――なんて、思わず大嫌いな相手の表現を借りてしまいたくなるくらい、頭が混乱していた。
 衝撃を受け、蓋がはずれ、中身がぽろぽろと床に転がっていく。ワックスを塗られて光沢のある白い床を、赤いトマトが、黄色いチーズが、桃色のハムが汚していった。
 その惨状に、彼女は軽く目を見開いた。ランチボックスだったの、と小さくつぶやいたのを聞いた。私はちいさく叫び声を上げ、その叫びは上質のマフラーに音もなく吸い込まれた。


>>