「結婚したい」

 状況だけを説明すると、パイ投げで始まり胴上げで終わる、グラハム企画立案の新人歓迎パーティ(白いパイにまみれながら放り投げられるロックオンはまるで何かの罰ゲームのようだった)よりも混沌としていた。正直、あれ以上の無茶苦茶な状況が地球上に存在するとは信じられなかった。
 日本のアキハバラにある、とあるカフェの店内の個室。僕の目の前に、類い希なる美貌の少年が、メイド服を着てちょこんと座っている。何のことはない、ここでは客もメイド服を着られるというのが売りだからだ。予約が殆ど埋まっていたというから、そこそこ人気なのだろう。
 それよりも、彼の形の良い唇から吐き出された結婚という単語に、僕は思わず『メイドさんの萌え萌えアメリカン』(800円)を吹き出してしまった。
予想外の僕の反応に対応しそこねたのか、テーブルの向こうのティエリアは素直に受け止めてしまった。眼鏡からコーヒーがしたたり落ち、純白のエプロンドレスに大きな染みが出来る。借り物の衣装なのに、と焦るよりも先に、不可抗力だとどこかで納得してしまっていた。
 濡れた感触が不快なのか、汚れたエプロンドレスを躊躇なくはだけて胸を晒す彼に、どことなく倒錯的な美を感じないでもないが、僕自身には決して少年愛好の趣味はない。彼とは恋人同士でもない。彼の望む結婚相手は、勿論僕ではなかった。
 なのに何故、異国の地でこんなことをしているのかというと、言葉のあやとしか言いようがなかった。これこそ不可抗力なのだ。にも関わらず、笑えもしないほど似合ってしまう目の前の彼は、僕の中の要らぬ罪悪感を刺激する。
 ティエリアは服を浮かせて肌と接しないように苦心している。はだけられたエプロンドレスの隙間から見える白い鎖骨を、思わず注視してしまった自分を殺したくなった。動揺を悟られないように、出来るだけ穏やかな声で言葉を吐き出す。こちらを覗き込む、紅茶色の瞳の純粋さが今は怖い。
「汚れてしまっただろう。もう脱いで構わないよ」
「店内ではこれを着ているのだろう。貴方との契約は全うする」
ふるふると頭を振って、濡れた服を正す彼を見て頭を抱えた。こんなところで生真面目さを発揮しなくてもいいだろう。せめて似合っていなければ笑い飛ばすことも出来たのに、不幸にも彼のこの姿は、僕たちを個室に連れてきた同じ衣装のウエイトレスを凌駕するほどだった。それだけにいたたまれない。無表情で、濡れた胸を気にして何度も俯く様を見ていると涙がこぼれた。


 僕は一生のお願いとか、なんでもするとかいう言葉が大嫌いだ。そういうことを口にする暇があったらとっとと報告書を書いてくれといつも思う。文字媒体で提出するなどアナログだといつもグラハムは文句を言うが、音声データが解読不能なので文字媒体での提出を余儀なくされているのだと少しも分かっていない。乙女座の私にはセンチメンタリズムな運命を感じられずにはいられないという言葉を二十語以内で説明せよ。まるで試験問題のようだ。
 そんな経験があったものだから、ティエリア・アーデから、『何でも言うことを聞くので協力して欲しい』という旨のメールが来たときはたいそう驚いた。
 強引にロックオンから聞き出したメールアドレスに、いくらメールを入れても一度も返信が返ってこなかったのだから。それなのに、突然これだ。彼は彼の飼い主――ではなく恋人以外には全く懐かないようだと諦めていたから、何を思って僕に連絡を取ったのか甚だ不思議だった。
 僕自身何通もメールを送っていたくらい、彼と話したいことが沢山あった。願ってもない呼びかけだったと言える。けれども一方で、何でも言うことを聞く、という言葉の無防備さが引っかかった。ロックオンからほぼ毎日聞かされている、嬉しくもない惚気から鑑みるに、彼はどうにも世間知らずのきらいがある。あの外見でそんなことを言っては、どんな目に遭うか分かったものではない。
『何でもするというのなら、日本のアキハバラという街で僕のためにメイド服を着て欲しい』
 僕としては、ちょっとした冗談のつもりだったのだ。極力嫌がりそうな条件を提示し、ティエリア・アーデが戸惑った反応を見せたら、笑って撤回しそんなことを言うものではないと返す。
 そんな風に想像していたから、間を空けず了承したというシンプルな返信が来たときには焦った。更に数日後、彼が身一つで、アキハバラに行こうと部屋にやってきたときは、心臓が止まるかと思った。
 一体どうやって用意したのか、パスポートもチケットも手配してあった。不幸なのか幸いなのか、僕にも消化し切れていない休暇が売るほどあった。準備は整っていた。引き返せない気配がした。





――そうして今、僕は、ロックオンが見たら怒り狂いそうな光景の中にいる。
 吹き出したコーヒーを皺になったハンカチで拭った後、呼吸を落ち着かせてティエリアへと向き直る。ティールームでこんなに緊張したくはないのだが、ティエリアが畏まっているのでつられて姿勢を正してしまった。仕事場でもこんなに行儀良くはならない。耐えきれず僕から口を開いた。
「…ええと、結婚って、」
「言葉の通りだ」
 結婚。男女が夫婦になること。一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生れた子供が嫡出子として認められる関係。思わず頭の中で辞書を引いてしまった。
 彼らの場合は性別でその定義に反するような気がしないでもないが、広い世の中だ。そんなものはさしたる障害にはなるまい。幸いと言っていいのか、ロックオンには同性婚を気にするような親戚もいない。
 敢えて問題を挙げるとしたら年齢だろうか。衣装が衣装であるせいか、16歳未満に見えなくもない。上背はあるが、全体的に華奢だ。女性用のラージサイズが問題なく入ってしまう辺り、男性としてはまだ身体が未発達なのだろう。
「結婚をしたい。だが、どうすればいいのか分からない。貴方は俺に手段を教えてくれさえすればいい。他には何も要求しない」
 有無を言わせない、相手の言葉で我に返る。話している相手を余所にやって思考に耽ってしまうのは、僕の悪い癖だった。全力で結婚関連の州法を検索していた頭を押しとどめ、現実的な問題に戻る。こうして手段にばかり目がいくのもある種の逃避だ。まずは事実を受け入れなければなるまい。
「一体、どうして」
 一番の基本的な問いかけだった。相手がそれを望んでいないのも知っていた。その証拠に、真っ直ぐな双眸が揺らいだのがわかった。それでも僕はごまかすことをしなかった。理由のない行動など何の価値もない。思考を停止させたまま行動するなど動物のやることだ。結論だけを与えられて満足できるならば、研究者などやってはいられない。
「…他に、方法が分からない」
 彼はひどく切実な声音で吐き出した。目を細めて、俯く。感情は伝わるものの、しかしながら、抽象的な返答はこちらにすんなりとは落ちてこない。矢継ぎ早に質問を浴びせたくなる気持ちを堪えて、息を吐いた。ひとつひとつ分解して、投げかける。好奇心と思いやりとのバランスに気を遣った。
「方法…?」
 彼は俯いたままだった。姿勢を正したままそうされると、まるでこちらが叱っているような気分になる。いたたまれなくなって顔を上げるよう促すと、ティエリアはひどく不安そうな顔をしていた。整った顔立ちのせいだろうか、過剰に情緒を刺激される。保護欲がかきたてられる気持ちを少し理解した。
「君は、どうしたいんだい」
 更に問いかけると、彼が今度こそ凍り付いた。情を持ちながらも、一方で問いつめて追いつめるのは矛盾していた。どちらかを切り捨てた方が楽なのだろうと思うが、機械にもなれなければ好奇心も捨てられない。そういう性分なのだろうと開き直るしかない。
 目をそらしたまま、薄い唇は何かを紡ごうと開いては閉じることを繰り返していた。それを強引に引き出したい気持ちを抑えて、相手の言葉を待つ。カウンセラーの気分だ。僕にはまるで向いていない。それでもなんとか待てたのは、唯相手を暴きたいだけではなかったからだ。
 彼は、自分を暴こうとする醜悪な好奇心には敏感なようだった。ロックオン以外の他者に興味がないというのもあるだろうが、僕に返信を寄越さなかったのは、恐らくそういうことなのだろう。
 だからこの沈黙は、彼と僕との戦いだった。もしも少しでも彼に醜悪さを感じられてしまったら、引き結んだ唇は動くことがないだろう。そんな気がしたのだ。信頼に足る相手だと、沈黙で伝えた。感情の無かった彼の目が、一瞬だけ揺れる。眼前の相手を持てあましているようだった。
「………俺は、ロックオン以外はいらない」
 ぽつりとため息のように落とした。オブラートにくるむということを知らない、シンプルすぎる言葉のせいだろうか。ひどく幼い印象を受けた。結婚という言葉に切実さは伴うものの、現実味がないのはこのためなのだと思った。
「なのに彼は違う。色々なものを欲しがる。平気で俺の前からいなくなる。軍も辞めない。いくらセキュリティを強化しても閉じこめられない」
 感情を抑えきれず早口になる。唯ひたすらに切迫していて、エゴにまみれた愛の言葉だった。まるで子どもの我が儘だ。あの過剰なほどのセキュリティは、家を外から守るためではなく、中の人間を閉じこめるためのものなのか。
 もうほどんどカップの底にしか残っていないコーヒーは、すっかり冷め切っていて少し苦い。それを舌の上で転がした後、ため息を吐いた。ため息までコーヒーの匂いがした。ともすればため息しか出て来ない中から、必死で言葉を探して、口を開いた。
「だから、結婚?」
「契約がしたい。所有の証明が欲しい。彼の帰宅という不確定要素に振り回されたくない」
 畳みかけるように吐き出した。契約だから、と言って頑なに衣装を脱ごうとしない。コーヒーで汚れたエプロンドレスという出で立ちの彼にとって、契約はそれなりの重みを持つもののようだった。
 僕もまた形になることで安心するタイプなので、気持ちは分からないでもない。しかしこうも純粋に信じることは出来なかった。ある程度の長さを生きていれば、契約などというものはいくらでも覆るのだと諦めがついてしまう。
 そもそも結婚とはそれこそ社会に恋愛というシステムを適用しただけのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。所有の証明になどなりはしないのだ。
 それを彼に告げてしまうのは憚られて、僕はしばらく押し黙った。彼はまた俯いて、身じろぎもせず唯ただ僕の言葉を待っていた。もしかしたら、彼はこうしてじっと恋人の帰りを待っているのかもしれない。相手の帰宅を不確定要素と言い切ってしまえる諦念が哀れだった。
 勤務中のロックオンの携帯端末の待ち受けに彼の写真が収まっていること。うんざりするほどに聞かされている私生活のこと。そのときの表情。そんなものを聞かせてやりたいと思ったが、その程度では満足できまい。
 彼はロックオンを閉じこめたいのだ。自分の他にロックオンに何かが『在る』ことが許容出来ない。あまりにも稚拙で純粋な愛情だった。純粋というのは過ぎると狂気にも似るのだと思った。
 ティエリア・アーデという存在に対する興味が、僅かの会話だけでこうも変質するとは思わなかった。メールのやりとりなどで片づけないで良かった。彼は情報と感情を切り分けて、文字媒体では本心を決して晒さないタイプだ。その点は僕とよく似ている。
 彼の純化した欲求と、その行く先を深く知りたいと思うのは醜悪だろうか。その辺りの線引きが僕にはたまに分からなくなる。友人とは違い、高潔でいることをとうに諦めてしまったから。
 知りたい、暴きたいという欲求に優しさなんてものはないが、知った上で言えることはあるはずだった。きっと黙って抱きしめて大丈夫だとでも言えれば良いのかもしれない。けれどそういう柄でもない。
 しばらく迷った末に、喉の奥で転がしていた言葉を口にすることにした。我ながら残酷な言葉だと思ったが、それ以外に思いつかなかった。けれど、曖昧にごまかすよりは真摯であった方がましだと思ったから。
「結婚をしたいだけなら僕はその手段を知っているし、協力は出来るよ。でも、それで君は満たされないと思う。残念ながら、ね」
 彼はまた目を逸らして、考えるそぶりを見せる。しばらくの沈黙の後、細い指先の爪を噛んだ。その幼い仕草は彼の癖のようで、指に寄せる唇でささくれだった感情を悟る。しかし、予想していたほどの落胆も失望も見せなかった。そこには静かな諦念だけがあった。
 彼自身も、薄々分かっていたのかもしれなかった。もとより、彼が本気でしたいと思うのなら、僕の力を借りなくとも結婚くらい出来るだろう。見ず知らずの僕を、強引に日本に連れてくるほどの行動力があるのだから。
「…だったら、どうすればいい」
 唇を離した後、途方に暮れたように問いかけられる。逸らされた視線は不安げに虚空をたどっていた。テーブルの上に置かれた親指はいびつになっていて、唾液が生々しく照明を反射する。
 正面にある彼の顔はとても整っていたけれど、形の悪い爪も胸にある染みも、シックなデザインのメイド服には不似合いだった。個室のカフェに沈殿する静寂も、見慣れない異国の言語も、どこまでも不自然で。そんな中での彼の言葉も冗談にしか聞こえない。
けれどそんな状況の中、彼だけはどこまでも真摯で。それ故に笑い飛ばすことだけはしたくなかった。だから僕は出来るだけ誠実に聞こえるように、言葉を口にした。
「まず、服を脱いでくれないか」
 途端、面食らったように目を見開いた彼を見て、自分の口にした言葉を反芻した。咀嚼し、再度嚥下する。そして頭を抱えた。何だかとてつもない誤解を生みかねない発言になってしまった。慌てて立ち上がり、違うんだよ、これは、と言い訳をしかける。そして、それを音にする前に止めた。代わりに、言葉をより伝わりやすい表現に変える。どうも婉曲な物言いが染みついてしまっていけない。

「契約解消だよ、ティエリア・アーデ。君は、僕の言うことを聞く必要なんてないんだ」





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