無駄にかさの張る箱だけを持って家に戻った途端、ロックオンに飛びつかれる。その勢いに圧されてバランスを崩し、床に倒れ込んだ。すんでのところで頭だけは庇われる。しかし一方で、持っていた箱が潰れる無惨な音がした。皮膚にぺったりと貼り付くような空気の重さと、押し付けられる慣れた匂い。肩越しに見える白い天井に、戻って来たのだと実感する。
「あー…、ティエリアだぁ」
 耳元に落とされたゆるく穏やかな声に、ふっと全身の力が抜けた。どうやら、自覚していた以上に緊張していたようだった。強く回される腕を甘受しながら、慣れないことはするものではないと思う。結局結婚どころの話ではなく、手元に残ったのはこの箱だけだった。
 やはりこの家の方が幾分かはマシだ。たった80時間弱離れていただけなのに、肌の匂いとローションの混ざったそれも、フローリングの冷たさも、背中を辿る指の感触も酷く久しいものである気がする。
 のし掛かる疲労と共に、空腹感が満たされるような心地よさに目を細める。ほう、と息を吐くと、吐き出した喉にキスをされた。そこから顎、頬、鼻、額と唇が辿っていく。最後に唇が一瞬だけ触れて、切れ長の緑の瞳に見下ろされる。眉尻の下がりきった情けない顔に思わず笑ってしまった。
「ったく、笑うなよ。滅茶苦茶心配したんだぜ」
 緩んだ頬をつままれる。肌を滑る固い感触を貪欲に拾い、安堵を覚えた。不慣れなものに強ばっていた身体がひとつひとつ解されていくのを感じる。背中に当たる床の固さの冷たさも全く気にならず、唯ただ触れてくる体温だけを貪っていた。
 本当は、無遠慮に蝕む甘い手も滲んでくるぬくもりも穏やかな声も大嫌いだった。与えるだけ与えて、僕を弱くする。そのくせ唐突に離れる。苦しいだけなのに欲してしまう。酸素を欲して水面で喘ぐ魚のように惨めで、そんな自分が何よりも嫌いだった。
 けれど彼は少しも分からずに触れてくるから、途方に暮れてしまう。触れられて嬉しい筈なのに、淋しさが募るばかりだ。感情の奔流を制御しきれず、突き放すことしか出来ない。もっと言うべきことは、沢山ある筈なのに。
「連絡は、した筈だが」
「カタギリさんと日本に行ってくる。二日後に戻る。…って、ヒキコモリのお前に突然言われてみろよ。びっくりして心臓止まるかと思った。あれから何度端末にかけても反応しねえし」
「それ以外の何があると?」
 ロックオンを連れず外に出るのは殆ど初めてで、何を書いていいのか分からなかったのだ。あれ以上のことを書く必要性を感じなかったので省いたのだが、彼にとっては不十分だったらしい。端末も私服のポケットに入れたままだったので、着替えてからは対応できずにいた。何より、連絡を入れて外出の理由を問われるのも煩わしかった。
 指から箱の入った袋を外され、代わりに指を絡められる。親指のいびつな部分を慈しむように辿りながら、ロックオンは更に言葉を重ねた。
「何でカタギリさんと、とか。何してきたんだ、とかさ」
 声のトーンに真剣さが含まれる。しかし言える筈もなかった。この触れてくる指や、耳に吹き込まれる声。のし掛かる体温と重み。全てを手元に縛り付けようとして、し損じていたなんて。
 それが不可能であることも薄々分かっていた。彼はあまりにも持っているものが多すぎた。彼しか持たない僕とは違う。書面で契約出来たとしても、四六時中家に閉じこめても、きっと彼は所有できない。彼はいつだって肩越しの、広い世界を見ているから。
 分かっているのだ。僕が間違っていることくらい。この望みは永遠に叶えられないということくらい。どうすれば諦められるのか、それだけを知りたかった。





 味がついていそうな濃密な空気。拾いきれない雑音。てんでばらばらに行き交う人間の群れ。その全て――外はひたすらに不愉快だった。契約だから。そういう理由があるから辛うじてそこにいられただけなのに。
 それなのに、彼に契約の解消を持ちかけられてしまった。正直、困惑した。理由が奪われてしまった今、居心地の悪さしか感じない。相手はといえば、こちらの問いにも答えず契約解消の理由も言わず、雑多な品物の並ぶ店内で華やかなラッピングに包まれた箱の山を物色していた。店内のやたら甘ったるい声のBGMと、まとまりのないざわめきが不快で仕方ない。
 苛立ちがピークに達し、あと三分経ったら帰国の準備をしようと決めた。ちょうどそのときだった。彼がラッピングから目を離し、突然こちらに視線を向ける。目が合ったのは契約解消を告げられて以来だった。不意を打たれて心臓が跳ねる。
「はい」
 しかし彼は、そんな俺に構わず、鼻先に持っていた茶色い箱を無遠慮に突きつけた。その箱には、先ほどまで着ていた衣装を身にまとった女のイラストが描かれている。不自然なほど大きな目がどことなく不気味だ。そこからそろそろと視線を外し、相手の反応を伺う。彼はゆるく笑って、口を開いた。
「アキハバラ発萌え系お菓子だって。おみやげにはぴったりなんじゃないかな」
「……?」
 全く、意図が読めない。予想だにしない事態を突きつけられると固まってしまうのだと知った。凍った指先がとりあえず箱を受け取ると、彼は満足そうに笑みを深める。そして懐から日本の小銭を取り出して、握らせた。その手はひやりと冷たかった。
「旅行をしたら家族にちょっとしたプレゼント買っていくんだ。それが、おみやげ。なるべく旅行先にしか売っていないものの方が喜ばれるよ」
「かぞく…?」
「そう、君の家族」
 自分にまつわる人間など一人しかいない。しかしその男を、彼が言うように形容することは躊躇われた。家族とは配偶関係や血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団であり、間違いなくロックオンはそれではない。血縁関係もなければ、配偶者でもないのだ。俺とロックオンの関係を形容できるものなど、何もない。何もないから、ここにきたのに。
 相手に突き返そうとすると、押しとどめられた。間違いを咎めるような苦笑をして、彼は続ける。自分の知っているロックオンの笑みとは違う、何処か少し遠いそれ。
「家族っていうのは契約を交わして、成立するようなものでもないと思うよ。最初は他人で、こういうつまらないことを繰り返して、フリをし続けて――いつか本当になるんだ」
 その言葉が、先ほどの問いの答えだと気づくのにしばらくかかった。気づくまでに彼はさっさと会計を済ませてしまって、先ほどの箱が袋に入って戻ってきた。カサカサとビニールの擦れる音がして、それを握らされる。
 これを、渡すのか。家族に。ロックオンに。
 そう思った途端、会いたいと思った。周囲が煩いとか、人混みが不快だとか、そういう理由ではなくて。唯、あの家に戻りたいと思った。あの男の顔を見たいと思った。声を聞きたいと思った。触れたいと思った。
「…帰る」
 ――気づいたら、そう口にしていた。
「ああ。帰ろうか」
 こちらの言葉にも驚かず、彼は静かに頷く。その反応が当たり前すぎて、気づかずにいた。彼はいつも僕の申し出をかわさなかった。何でも言う事を聞くと言ったのはこちらなのに、結果だけ見れば欲求をぶつけたのもこちらだ。彼は唐突な出立にも帰国にも黙って伴い、異常な願望に対しても真摯に耳を傾ける。感情と体温で包み込むような、ロックオンの触れ方とは少し違った。しかし何故か不快でもなかった。
 少し前を歩き始める背中を眺めていた。それから空いた方の手で、咄嗟に束ねられた長い髪を掴む。振り返って、驚いたようにこちらを見下ろす彼に、問いかけた。
「…どうしてだ」
 髪を握る手の力を強くする。握りしめてから気づいた。ロックオン以外の他者に僕から触れたのは初めてだった。
「契約は解消した、のに」
 吐き出した言葉はみっともなく上ずっていた。それが騒がしいBGMに紛れていく頃、見開いた双眸が笑みに細められる。こちらの手を髪から外し、向き直った。長い髪がさらりと指の間から落ちる。
「解消したから、だよ。契約でなく、僕の意思でここにいる。もとより、僕は初めからそのつもりでいたけれど」
「不可解だ。貴方もロックオンも、少しも分からない。人間は…ッ、」
 言いかけて、言葉を続けられずに俯く。そうして少しの間、沈黙が続いた。それを破ったのは彼の方だった。ひとつため息を吐いた後、おずおずと口を開く。
「言い方を変えるよ」
 そう言ってまた、言葉を選ぶようにして沈黙する。しかし、決して居心地の悪い沈黙ではなかった。俯きながら言葉を待った。そして、それが破られて。
「僕は、君と友人になりたかった。だからここにいる。そう言えば、分かるかな」





「カタ、」
 口に出しかけて、飲み込んだ。その名で呼ぶのは少しだけ勇気が要った。耳に残る言葉を思い出しながら、慎重に言い換える。訳もなく気恥ずかしい思いがした。しかし同時に、形容の出来る関係は安心できた。言葉にして、一番に彼に聞いて欲しかった。
「…ビリーは、友人だ。だからビリーと行った」
 身体の上でロックオンが、みるみる表情らしい表情を消し去ってゆく。人間もやはり予想だにしない事態を突きつけられると固まってしまうのだ。先ほどの困惑しきった顔もなかなかに愉快だったが、その有様は更にこちらの気分を良くさせた。
 とても信じることは出来ない、とでも言いたげな反応に追い打ちをかけるように、つぶれた箱を引き寄せる。殆ど隙間のない中でも、強引に箱の入った袋をねじ込むと、固まった身体が自動的に離れていった。お陰で、袋から箱を出す余裕くらいは出来ていた。袋の擦れる乾いた音がして、茶色い箱が覗く。
「ああ。何をしていたか、という質問もあったな」
 袋から箱を出し切り、抜け殻を放り投げる。そうしてあらわになったグロテスクなイラストの、首から下を指さして口の端をつり上げた。
「これを着た。ビリーの要望…、」
 言い終わらないうちに、ゴン、という鈍い音と共に突然身体に重みが落ちる。その音はロックオンが額をフローリングに叩きつけた音だった。彼が支えにしていた腕の力を抜いたせいで、軍人一人の体重を支えるはめになる。それどころか、間にあった箱がまたぐしゃりと悲鳴を上げた。
 ビリーは喜ばれると言ったのに、ロックオンはこの箱を蔑ろにしてばかりだ。こんな状態のものを畏まって渡すのも躊躇われて、唯ただ重みを受け止める。身体の上に彼がいることは珍しくない。だが、こんなに重いとは知らなかった。こうして、少しずつ分からないことを知っていくのだろうか。ごまかしのような演技を繰り返しながら。
 ためらいがちにロックオンの頭に触れ、柔らかい髪を撫でた。彼がそうしたように、頭皮から毛先まで梳くことを繰り返していると、のろのろとフローリングにキスしていた頭が持ち上がる。絡んだ緑の双眸は、幼い子どものように不安げで驚いた。思わず、撫でていた手が止まる。
「なんでそんな、俺のいないところで、そんな!」
 意味を持たない感情的な言葉が吐き出される。こちらが思ったよりも相手は動揺しているらしかった。ちょっとした意趣返しのつもりが、思わぬ効果を発揮したらしい。
「……不満か? ならばあなたも友人に、」
「それは無理」
 言い終わらないうちにきっぱりと切り捨てられ、次いで唇にキスされた。先ほどの触れるだけのものとは違い、貪欲に唇を吸われる。唇の僅かな隙間を狙うように、なまぬるい舌が侵入して。慎重に舌先を合わせると、激しい勢いで捉えられ、絡め取られた。酸素を求めた隙に、唾液が口の端から零れ落ちる。
「ふ、ぅ…」
 液体の絡む音が何度も交わされ、唾液が混ざり合う。粘膜が擦れて熱が滲んでいく感覚に、頭の端が痺れていった。一方で、冷たいフローリングの上を彷徨っていた足に、彼の足が絡みつく。その間の熱に触れた。それすら懐かしく思えた。
 やがて唇が離れ、唾液が糸を引く。名残惜しげに見下ろす目は暗い色をしていた。僕の身体を貪るときの、深い欲望の色だ。普段の優しげな、包み込んでくれる穏やかさに隠された、全てを奪おうとする貪欲な色だった。この目に見つめられると、いつも動けなくなる。幼いと思った次の瞬間に、こんな目をするからこの男はずるい。
「……俺、こんな可愛いのと友達でいられる自信、ないから」
 形容の出来る関係は安心できた。けれど彼にあっさりと否定されてしまった。では、自分たちは何なのか。それを訊くことは出来なかった。紙一枚の契約でどうにかなるものでもない。そもそも彼への感情に名前が付かない。
 かといって、先に相手に答えを与えられ、刷り込まれるのはもうごめんだった。彼の与えてくれた答えに縋るだけではきっと、駄目なのだ。もう彼を手放す事が出来ないのなら、なおのこと。
 代わりに、ボタンにかかる手を押しとどめて、形の歪んでしまった箱を差し出す。そして、ずっと言い忘れていた言葉をようやく、口にした。

「ただいま」

 そうして、形に出来ないものを形にしていく。知っていく。少しずつ。