それからというもの、ことあるごとにオレは天使様を飲みに誘った。それは大概オレが家にいては邪魔なときなので、万が一飲み過ぎて自宅に戻れなくなっても心配される可能性は低い。
 そもそも、24の男の帰宅が遅いから心配するというのも過保護だと思うのだが、兄さんは慣れない土地だからといって何かと端末で連絡を取り合おうとしていた。煩わしくもくすぐったい、そんな気遣いは嫌ではない。けれど、たまにはそういったものから解放されたいし、して欲しい。兄さんは周りの色々なものに気を回してばかりで、肝心のパートナーのことには少し鈍いから。三人のでいる形もなんとか様になってきたけれど、たまには二人だけの時間も必要なのだと思う。
「端末の電源など切ってしまえばいい。無粋な邪魔は入れぬことだよ」
 熱い琥珀色の液体を、重みのあるグラスの底に浴びせた。酒は仕事の上で貴重なコミュニケーション・ツールであるため、オレはその酒が決して安くはないことを知っていたけれど、彼は躊躇いなくそういうものをグラスに注いでいった。金銭感覚の違う相手とは、プライベートで付き合いたくないとずっと思っていたけれど、彼だけは何故か許せた。
 別に毎回奢ってくれるからという理由だけではなく、金銭感覚以外にも、何もかもが違いすぎるのだ。そういう意味で彼はヒトではなく、天使様だった。煩わしいと思いながらも、兄さんの心配性や見知らぬ土地への不安から端末を持ち歩くオレには、あっさりと電源を切ることなど出来そうにもない。
「そうは言っても、何が起こるか分かンねえし」
「何かが起こるかもしれないと用心しているときに限って、何も起こらないものだ。もしものときのために不自由を買って出ることはない」
「…だからあんた、たまに繋がらないのか」
「端末など飾りにすぎん」
 オレみたいなどうでもいい用事はともかく、軍人なのにそれはまずいのではないか、と思うのだが、仕事のことには口を差し挟むのはやめておいた。兄さんが個人端末とは別に持っている、パールホワイトの端末を思い出す。ティーと穏やかな時間を過ごしていても、それが鳴るとすぐに兄さんは仕事の顔に戻った。少しも甘さの混じらない声音で相槌を繰り返す彼の傍で所在なげにしているティーにすら、なんとなく声がかけづらく、そんなオレにとっては、あっさりと切り捨てられる天使様の態度は羨ましいとしか言いようがなかった。今夜も、あの白い端末が鳴らないといい。できればずっと鳴らなければいいのに。
「とかいって、部下が呼んでも来なかったら怒るんだろ?」
 部下という言葉の指し示す内容は、オレと天使様の間ではあまりにも具体的すぎた。そのために恨み言のように聞こえるのが怖くて、軽い声音で口にする。言ってからしまった、と思った。いっそオレとは違う尺度で生きている相手に、当然だ、と切り捨てられてしまえば、このやりきれなさも薄れるのだろう。
「理由は聞こう」
「……たとえ話だからな」
「了解している」
 けれど、そういう選択をしない程度に彼は兄さんに優しかった。この、よく分からない兄さんの上司となんとなく酒を飲んでみて分かったことだ。更に同じ顔をしている役得からか、彼はオレにも優しくしてくれた。彼と飲むようになってから、何度財布を出してみせても、頑なに会計を譲ろうとはしない。兄の上司としてだとか、自分の方が高い酒を飲んでいるからだとか、色々と言い訳をつけては支払いたがるものだから、もしかしたら高い酒を飲んでいるのはわざとではないか、と思うようになった。
 何より、オレのことを二号二号と無遠慮に呼ぶ割に、オレ達のことを聞きだそうとはしない。何故十年も離れていたのか。何故今更会いに来たのか。どの面を下げて、名前さえ捨ててしまった兄の家に転がり込んだのか―――隠しているわけではないけれど、笑って話せるほど遠い話にもできなかったので、それが何より助かった。
 この、舌先を熱くするアルコールの感触に交えて口にしてしまえば楽だろうか。隣で笑いながら酒を舐める男を横目に、思う。しかしそれではあまりに甘ったれているような気がして、いくら天使様といえども、出会って間もない相手にそれをするのは躊躇われた。
 兄さんにすら言えないのだ、オレの目的なんて。あまりにも勝手すぎて。
「…ははっ」
 アルコールと少しの自嘲を混じえた笑い声を吐き出した後、胸ポケットにしまっておいた端末を取り出して電源を落とす。途端、電源など落としてしまえばいいと言い放った張本人の空色の瞳が大きく見開かれた。オレよりも年上の筈なのだが、こうして眺めると幼く見える。バーの薄暗い照明のお陰で、紫がかって見えるその色に見とれた。
「いいのか? 切ってしまって」
「…切れって言ったのあんただろ。いンだよ。どうせ二人でお楽しみなんだから」
「なんだ、拗ねているのか」
「スネてませんー。オレがそうさせたんですー」
 遠慮無くオレとティーを抱きしめてみせた兄さんに全力で呆れながらも、本当はほんの少しだけ安堵していた。二人を残して夜道を歩き、ひとしきり兄さんの滑稽な様を笑ったとき、確かにオレは嬉しいと感じていたのだ。フローリングの床に妙な体勢で押しつけられた痛みと共に、二人とひとりでないことに今更拘っているなんて情けなくて、誰にも言えやしない。
 だから、ざっくりと切ってくる相手の言葉に否応なく心臓が跳ねる。ごまかすように言って、グラスの底で薄くなった酒をあおった。氷も溶けてぬるくなってしまった液体ではまだ充分に酔えない。
「淋しいのならば混ざれば良いだろう。三人で夜を楽しむのも悪くはない」
「……ッ!?」
 真顔でさらりと言ってのける相手に、飲み込みかけた酒を思い切り吹き出しそうになった。さも素晴らしいことを提案したという風に、真剣に言うものだから、一瞬返す言葉に迷う。
「…………あんた、可愛い顔して案外えげつねえこと言うのな」
「む、」
 そして自らの発言の異常さに気づかず、グラスを唇に乗せながら怪訝そうな顔をする。人とは違うルールで生きている。兄さんの言葉を、何度目か分からず反芻した。どういうルールの下に生きれば、家族とそのパートナーと乱交するという提案を持ちかけられるのだろうか。オレとティーの棒読み演技にころりと騙されて号泣した兄さんと同じくらい、理解の出来ない状態だった。
 酒と斜め上の行動のせいで鈍くなった頭で、ぼんやりと電源の切れた端末を眺める。このスイッチを入れて、いくつかのボタンを押せばすぐに兄さんへと繋がる。それは数ヶ月前には考えられないことだった。しかもそれを自分の気まぐれで、断ち切ることができるくらい、当たり前になっている。この状態はもしかしたら、奇跡と呼べるかもしれない。奇跡というものは案外くだらないところに潜むもので。だから。
「別に淋しくなんかねえよ。………家族、なんだから」
 その一言を、兄さんやティー以外の誰かの前で口にするのは初めてだった。けれどそろそろ許されると思うのだ。兄さんはとうにオレの知っている名前ではなくなってしまった。ティーの料理は相変わらず上手くならないし、時折言葉を探して言いよどむこともある。それでも、ごっこ遊びのようなぎこちなさでも、オレ達は三人でいようと決めた。
 だから、出し惜しみすぎて神聖な告白のようになっては困る。もっと丸めた紙くずのように、平然と投げかけられる当たり前のものでありたい。だからぬるい酒の勢いで口にしてしまうことにした。それくらいの安っぽさで使うべき言葉なのだ、本当は。
 ―――それなのに。
「そうか。……家族か」
 品位に欠けるきらいのある天使様は、オレが望むように聞き流してはくれなかった。代わりに、つい先ほどの発言が嘘みたいにやわらかく笑ってみせる。彼の唇に触れている琥珀色の液体も、薄暗い照明も到底似合わない穏やかな表情だ。
 オレは常識やルールを剛毅に切り捨てる彼の潔さに驚かされてばかりだったから、その相手がこんな顔もするのかと意外に思った。彼は二人分のグラスに新しい酒を注ぐだけ注いだ後、テーブルの上にグラスを置いて氷が上下するのをぼうっと眺めていた。
 相手がそれ以上何も言わないでいたので、しばらくの間、沈黙があった。氷の表面が弱い照明を反射してきらきらと光っている辺りを見つめながら、ぽつりと言葉を重ねる。冗談にもなりきれず、心の底から誇って言えるほどの自信はなく、宙に浮いた言葉の続きを不器用に探し続けるしかなかった。
「十年も離れてたのに、今更……笑えるけどな」
「全く、笑えるな」
 薄っぺらい笑みを浮かべかけたとき、隣で、相手がゆっくりと頷いた。ずっと眺めているばかりだったグラスの酒に唇をつけた後、言葉を吐き出す。
「彼も同じことを言っていた。十年も離れていたのに、今更だと」
 オレが目を見開いたのと、彼がグラスの中身に口を付け、再びテーブルに置いたのはほぼ同時だった。笑えるといいながら彼はひどく真面目な顔をして、こちらに向き直る。テーブルがグラスにぶつかる、かつんという乾いた音が空疎に響いた。
「自分のエゴできみを縛り付けるのは正しいのか。十年も離れていた自分が、家族面をして許されるものかと」
「あ、ンのクソ兄貴…」
 相手の言葉に、頬が熱くなる。アルコールが回っているせいでいっそう熱が鮮明に感じられた。端末の電源を切っていてよかった。衝動的にひっ掴んでティーとのお楽しみの最中なのも構わず怒鳴りつけて罵倒してやるところだった。
 過ぎ去った年月を取り戻せると確信していたわけじゃない。それでも、埋めようと思ってここまで来たのだ。それはまごうことなくオレの意志なのに、自分のエゴで縛り付けているだなんて片づけられてはたまったものではない。そうやって、一方的に遠ざけながら金だけを送ってきたのがあの男だ。繋がっていたいのならば会いに来ればよかったのに、そうすることも切り捨てることもできない。そうして生まれる距離を諦めて、自分のエゴだからと言い訳をしている。そういう、どうしようもない臆病者だった。
 ―――全く、腹が立つくらいによく似ている。
 彼がそこにいるのだと知った後、ユニオン行きのチケットを何度も買っては払い戻した。空港のロビーでスーツケースを片手に数時間立ち往生し、結果引き返したことだって一度や二度ではない。もっと金を貯めてから。仕事をきちんと片づけてから。会えない言い訳ならばいくらでも思いついた。それだけ臆病になっていた。
 同じ名字を捨てて遠ざかっていった相手に、どんな顔をすればいいのか分からなかった。どんな言葉をかければいいのかも分からなかった。
 正直言って、傍にいる今ですら正解なんて分からないのだ。十年ぶりに彼と過ごし、そういうものなのだと気づいた。十年の空白はたぶん埋められないし、取り戻せない。それでも、もう遠ざけられるのも、諦めるのも嫌だった。
「事情は知らんが、」
 オレが考え込んでいる間に、いつの間にか天使様のグラスは空になっていた。一方でこちらのグラスは注がれたときのままで、氷だけが小さくなっていた。折角注いでもらったのに、と慌てて口を付けたが、少し薄まっている上になまぬるい。高い酒の甘い風味が台無しになってしまったことを少し残念に思う。相手は、そんなことを気にとめるはずもなく優しげに口角をつり上げてみせて。
「きみ達は外見も、考え方もよく似ている。それは家族だからではないのか?」
 熱を持った指先が輪郭へとのばされる。息をつく間に顎をとらえられ、空色の瞳にのぞき込まれた。ぐずぐずと内心でくすぶっていた迷いまでも見通されたような気がした。たぶん、それは望んでいだ言葉の筈なのに、何を言えばいいのか分からず途方に暮れた。
「本当にそう…」
「そう、その顔だ!」
 紡ぎかけた言葉を突然大声で遮られて面食らう。オレの顎を掴む手に力が入り、子どものようにきらきらと輝き出すまるい瞳を強制的に見つめさせられた。世紀の大発見をしたとでも言わんばかりの口振りで、彼が言葉を続ける。
「ロックオンも同じような顔をしていたよ」
 何がそんなに嬉しいのか、思い切り顔をほころばせながら頬に口づけてきた。酔いが回るとキスをする彼の癖を、いつの間にか受けとめている自分に気づく。触れられたそこに仄かな熱が点り、思わずたどるように指を重ねた。その指の動きを追う彼の視線の動きに気づき、何度めかわからず視線が重なった。
 幼い輝きの瞳は揺らがずにこちらを見つめている。それはあまりに真っ直ぐすぎて、居心地の悪さすらあった。思えば色々なものを真っ直ぐに見ることを無意識に避けていた。だからこうして覗かれると戸惑う。薄まった酒のような、間の抜けた心地だ。
「自信を持ちたまえ、二号」
「……ッ」
 そして乱暴に頭をかき回されてしまったせいで、オレはそれ以上何かを言うのに失敗してしまった。
 髪を梳いて頭皮を撫でるばかりでは飽きたらず、頭ごと抱きしめられて更にかき回される。よく言っただのわたしは嬉しいだの、独り言のような喜びの声すら十分に拾えないほど激しく、犬猫を撫でるよりも無遠慮な手つきは痛くすらあって、けれどはねのけることもできずにいた。
 事態を十分に飲み込みきれないまま、じっと身を堅くしてその嵐のような猛攻に耐えていたら、最後にやさしく旋毛に口づけられた。今までの粗雑さが嘘のような口づけの後、指先がうなじの辺りをやさしくなで上げる。オレの頭を抱えたまま、耳元に彼の声が落とされた。

「きみ達は家族だ。私が、保証しよう」

 今、オレの頭を抱いている相手は天使様でも何でもない。少し風変わりな、兄さんの上官であるユニオンのエースパイロット。それだけだ。
 それなのに、彼の言葉には不思議な力があった。本当に頷いてしまいたいと思った。鼻の奥に涙の気配がしたのを慌てて飲み込んだ。思った以上に酒が回っているようだ。
そういうことに、しておく。
 喉から絞り出した声が上擦らないように、慎重に音にした。頭を撫でる指先はいつしか、やさしい触れ方に変わっていた。
「本当に、さ」
「…ああ、」
「そう、思って、いいと思うか?」
「当然だ」
「真面目に?」
「私はいつでも真面目だ」
「信じらんねえっつったら?」
「きみが信じられなくとも、代わりに私が信じている。だからきみは、私を信じればいい」
「……いきなりハードル高えな」
「なんと!」
 真面目な相槌がおかしくて吹き出すと、相手も大声で笑いだした。笑ったままオレの頭を容赦なく胸に押しつけてきたので、息ができなくて困った。
 何一つ自信が持てなくとも、この酒臭い天使様を信仰するくらいは許されるかもしれないと思った。鼓膜をとんとんと叩く笑い声と、少し早い心臓の音と、むせかえるようなアルコールのにおいの中。誰にも悟られないのをいいことに、オレは少しだけ泣いた。


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