ティエリアの体温に後ろ髪を引かれながらも、帰れないから迎えに来いという弟の頼みを無碍にはできなかった。気を利かせて家を空けてくれたのだから、それくらいはしてもいいだろうと思ったのだ。
 しかし、先に現場に到着していたカタギリさんの虚ろな目を見て、俺はすぐさまその選択を後悔した。いつもの穏やかな笑みを浮かべているように見えるが、目が少しも笑っていない。オレがうっかり技術班に提出する報告書の締め切りを一週間ほど破ってしまったときだって、今の顔に比べればまるきり天使のようだった。
 ああ、すべてを知らなかったことにして、叶うものなら今すぐベッドの中に眠る可愛い妖精さんの体温を、ぐずぐずと貪っていたい。しかし時はすでに遅く、俺はこの場に足を踏み入れてしまった。きびすを返してやりたいと願うけれど、バーの店員の縋るような、もしくは心底迷惑そうな視線がそれを許さない。制服の白いコットンシャツの第二ボタンが不自然に外れているのと、弟たちとは何の関係もないことを祈った。
 そんな兄としてのささやかな願いは、店内の誰もが振り返らずにはいられないような大声に、あっさりと吹き飛ばされた。
「よっしゃオレの勝ち!!」
 振り向くと、オレと全く同じ顔の男がハットトリックを決めたストライカーもかくやと思うほど全力でガッツポーズを決めていた。顔の部品を全部線にして子どものように飛び跳ねる様は、幸せだった頃を思い出させるようで微笑ましい気分にさせる―――わけがなかった。
 とりあえず、何故弟の上半身が裸なのか兄として知るべきか深く思い悩んだ。何故俺の上官のシャツのボタンに手をかけているのか、部下として知りたくはなかった。
「さぁ天使様のビーチクは何色かなぁ〜えっへっへ」
「私の乳首は桃色乳首だ! とくと見るがいい!!」
 そう言って脱がせかけられた白いシャツを自らパージし、小柄な体型に隠された肉体美をバーの薄暗い照明のもとにさらす。その乳首が何色なのか、残念ながら背中を向けられていてわからなかった。見たくもなかったが。
「きゃー! 天使様ったらハ・レ・ン・チ! あ、オレのは見んなよ陥没気味だから」
 そうやって両手で乳首を隠す。見られたくないなら言わなければいいだろうに。
「なんと! きみがそうならロックオンも陥没気味だというのか!?」
「やっだぁ今更ピュアな振りして……知ってるくせに」
 ―――何故俺の乳首について語り合う二人を迎えに来なければならないのか。そもそも俺は陥没などしていない。双子なのをいいことに好き放題言いやがって。
 完全にできあがっているライルが隊長の桃色乳首(推定)をつんつんしたところでもう帰ろうかと本気で思った。すぐ傍でカタギリさんが、携帯端末でオートマトンを投入するとかしないとかそういうことを囁いたので必死で踏みとどまった。
 切れたというか壊れたカタギリさんは手がつけられない。もういいじゃないか彼がこの世からいなくなれば誰かの酸素の取り分がすこし増えるよなどと、かなりズレたことを言い出したらもう末期だ。放っておくとこのバーは戦場になる。オートマトンで屈服させて迎えにくるようなぬるい優しさは、恐らく向けてはくれないだろう。彼は殺る気だ。かなり本気で。
 このバーの平和は俺にかかっている。目の前の、脳天気を通り越したカオスな光景と、背後の凍り付くような殺意に挟まれて、俺は唯ひたすら先ほどまでの可愛いティエリアの姿を思い出そうとしていた。スパークリングワインで上気した頬や絡みついてくる腕の甘えた仕草を思い出すと、少しだけこのつらい現実を忘れられそうな気がした。
 ―――ティエリアごめん。お父さんは、もう帰れないかもしれません。
 無意識に教科書通りの敬礼をした俺の鼻先を、知性のかけらも感じられない歌声が通り抜ける。

やーきゅーうー、するーならー、

 そして、銃声が響き―――。











「何も撃つことねえだろうが…」
「空砲だからいいンだよ。ああでもしねえと酔いも醒めねえくせに」
 すっかりアルコールに浸りきり、足腰の立たない愚弟を背負い、パーキングまでの道をゆく。バーに駐車場がないことは道理が通っていると思うので、料金をケチって少し歩く場所に停めた俺が悪いのだろう。もしくは、立てなくなるまで飲んだライルが。
 深夜で人通りが少なくてよかった。服は着せたとはいえ、同じ顔の成人男子を背負って歩くなど人目を引きすぎる。肩や背にかかる重みは段違いだが、いつかティエリアを拾って背負ったときを思い出させた。あのときも同じことを思ったものだ。
 あのときは、自分がよもやこんな風になるなんて想像もつかなかった。一丁前に指輪なんてして、家族ごっこを繰り返して、あまつさえ弟まで強引に引き入れて繋ぎ止めようとしている。この国に来てから、こんなありふれた幸せを諦めていた筈だった。だから名前も捨てたのに。日増しに欲は深くなって、その分だけ楽には生きられない。
 ティエリアがいて、ライルがいる。正直、身に余るほどだと思う。目が覚めたらいつもの安いアパートにいて、誰もいないのではないかと今でも疑いたくなる。こんなことを知られたら、いい加減に受け入れてしまえと二人に叱られるかもしれない。そもそもは俺が望んで、始めたことなのだから。
「…にーさん、怒ってる?」
 突然黙り込んだ俺に戸惑ったのか、背後のライルがまるで子どものような口振りで言った。それがおかしくて笑いながら頷いてやる。
「当たり前だろ。俺まであの店に行けなくなった」
「同じ顔だしな」
「一緒にすんなよ、バカライル」
「オレだってあんな棒演技に騙されるようなバカニールと一緒にされたくありませんー。ヨガッダヨガッダーとかぼろぼろ泣いちゃってまぁ、」
「お前…一度国に帰るか?」
 一番痛いところを突かれて意図せず頬が熱を持つ。背後でくつくつと声を殺して笑い出す弟を背中から放り出してやろうかと思った瞬間に、痛いくらいにしがみつかれた。まるで背後から、強く抱きしめられるように。思わず驚いて息を詰めると、やわらかい声音がそこに被さった。
「やだ。帰ってなんてやらねー」
 まだ喉だけで笑い続けて、俺の身体を締め付ける。そして伝わる身体の重みに、ライルがいるのだと思った。大切すぎて遠ざけ続け、諦めていた存在が今、傍にいてくれる。その事実を改めて認識し、胸の底が大きく揺さぶられた。そんな俺の気持ちなど知らず、アルコールで上機嫌になった弟が更に言葉を続ける。
「帰らねえよオレは。天使様に誓って」
「何だよ天使って……」
「兄さんとこの桃色乳首の隊長〜」
 そんなことは分かっているし、別に隊長の乳首の色など知りたくもない。そのふざけた名前の由来を聞いていたのだが、更に問うたところで納得できるような自信もないので、敢えてそれ以上聞かないでおいた。天使様、という物言いに、基地にいる隊長の信者たちと同じ匂いを感じたのは兄として残念に思うが、本人が幸せそうなのでやはり何も言えない。天使のような外見に見えて中身は狼なのだと、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
「…兄さんの家に、行けなかった」
 上機嫌で軽薄だった今までの声のトーンが不意に落ち着き、背後の拘束が緩む。こちらの身体が強ばったのも、たぶん相手には伝わってしまっただろう。
「兄さんが名前捨てて、別人になってて。昔の家族なんていらねえって言われたらどうしようって。ユニオンまで来てンなこと思ってたんだぜ? 笑えるだろ」
 そんなことはない。俺はいつだって―――。
 ライルの言葉を強く否定してやりたかった。けれど、うまい言葉が少しも思い浮かばずに、頭を振るだけで終わる。故郷から遠く離れたこの国で、どれだけ会いたかったか。どれだけ戻りたかったか。名前だけ捨てても、何一つ変われずにいた。だから金だけでも送り続けて、しがみついていたのに。本当は、会いたくてたまらなかったのに。
「……笑わねえよ」
 ようやく絞り出したのは、そんな気の利かない言葉ばかりだ。ライルは、そうかい、と小さく言って息だけで笑んだ。そうしてまた、穏やかな声で続ける。
「でも、天使様が持ってけってでっけえぬいぐるみ渡してくンだよ。なんかオレのこと、知らねえ名前で呼んで。……そいつがすげえ邪魔で、仕方ねえから会いに行けた。ほんと、そんだけ。それがなかったらオレ、尻尾巻いて帰ってた。だからあのひとは、オレの天使様なんだよ」
 それでもライルは会いに来てくれたのだ。金しか送ることができなかった俺とは違って。きっかけなんかどうだっていい。ライルがここに来てくれなければ、今なんてありえなかった。だから相手が自嘲するたびに、胸が締め付けられるように痛む。
 ―――ああ、
 俺が今を受け入れられずにいるのも、多分同じことなのだ。俺が不安になるたびに彼らは怒って、きっと同じだけ哀しむ。自分を守るために諦めることが癖になって、それが大切な人たちを傷つけてしまっていた。逆の立場にならないと気づかないなんて、それこそ情けなくて笑える。
 欲しいと言え、ちゃんと呼べと怒ったティエリアが求めていたことが、少し分かった気がした。
「会いに来てくれて、ありがとな」
 皮肉屋の弟が、これ以上自分を卑下せず済むように。考えた末、ようやく言葉になったのはあまりにも陳腐なものだった。それでも言葉にするのは勇気が要った。どくどくと鳴る耳の裏に気づかない振りをして更に口を開く。
「要らないわけねえだろ。家族なんだから」
 いい加減認めるべきなのだ。どうしようもなく彼らが必要なのだと。天使様がくれた偶然のプレゼントなんかではない。俺が、俺自身のエゴでもって引き寄せて、繋ぎ止めたかけがえのない存在なのだと。
 血の流れる音でうるさい耳に、みじかく呑み込まれた息が掠める。肩に絡んだ腕は強ばって、相手の動揺が伝わった。唯家族をそう呼ぶだけで、こんなにさせてしまうほど距離は存在するけれど。それをこれから埋めていくと、決めたのだ、俺は。
「…なぁ、兄さん」
 耳元に吹き込まれた声はわずかに上擦っていて、うなじの辺りが濡れた気がした。けれど気づかない振りをした。後ろからまた、きつく抱きしめられる。ずず、と鼻をすする音がその力の強さに重なった。容赦なく締め付けられたせいで、歩きにくくはあったけれど、パーキングまでの距離くらいは我慢しようと思った。
「父さんも、母さんも……エイミーも、いねえけどさ、」
「うん」
「オレたち、幸せになっていいンだよなぁ?」
 祈るような問いかけに、胸が詰まった。
 色々なものを失いすぎて、それでも生きるしかなくて、当たり前のことをずっと望めないでいた。自分たちには資格がないと、どこかで諦めていた。だから俺はライルを遠ざけて名前を捨てた。ライルはそんな俺に負い目を感じずにはいられなくて、前を向けずにいた。
 だから、初めてだった。こんな風にはっきりと願うのは。
 それができるまで十年もかかってしまった。けれどきっと、遅すぎるということはないはずだ。
「当たり前だろ」
 それは自分にもそのまま降りかかる言葉だ。単なる相槌以上の意味があった。相手のためだとか、十年離れていたとか、そういう風にごまかすのはもうやめようと思った。俺は俺のエゴで、幸せになりたいだけなのだ。大切な家族と一緒に。
 ライルは何も応えなかった。その代わり、うなじから肩にかけてが次々と湿ってくる。腕の力がますます強まる。まるで子どものような弟の所作に苦笑しているうちに、こちらまで鼻の奥が痛んできた。
 目元まで上ってくる熱をごまかすために上を向くと、白い月がこちらを見下ろしている。それがだんだんぼやけて、夜に輪郭が溶けていっても唯ただ眺めていた。そのうちに、言葉が口をついて出る。
「…月、キレイだなぁ。ライル」
 愛の言葉の代わりにこんなことを言うのだと、どこかで読んだ気がしたけれど。実際に言葉にするとあまりに場違いで、すでに嗚咽すらもらし始めている酔っぱらいにはもう届かないだろう。
 それでもいい。いつか三人でこんな風に月を見て、同じ言葉とその由来を話してやろう。寒いとライルに笑われたら、俺の言葉に号泣していたくせに、と返してからかう。
 そういうくだらないやりとりを繰り返していけたら、それだけで俺はきっと幸せなのだ。不安と諦めとエゴを呑み込んだ果てに、ひどくちっぽけな結論に至って笑えた。

 泣き笑いの表情で、もう一度月を仰いだ。何度見ても、今夜の月は泣けるくらいにキレイだった。