『天使様』に出会ったのは、兄さんが夜勤に出る前の晩だった。

 居間でひとり、食傷気味のクイズショウをぼんやりと眺めていたところ、唐突にそれは始まったのだ。ベッドの揺れる気配と、聞き取れるか聞き取れないかくらいの、低い息づかい。それだけでなんとなく感づいてしまった。
 どうして声を殺せばバレないと思うのだろうか。不思議で仕方がない。行為に至る際の音は声だけではないだろうし、声だって猿ぐつわでも噛ませない限り完璧に抑えられるわけではない。せめてオレが寝静まったのを確認してから始めてくれればいいのに―――と次々と出てくる苦情を飲み込んで、代わりにため息にして吐き出した。
 とりあえずテレビの音量を上げてごまかしてみるが、それでも背後が気になって仕方ない。我慢して十分ほど見続けた後、この家の意外な壁の薄さを恨みながらスイッチを切った。騒音を消したことで、より鮮明になる気配に気づかないフリをして時計を一瞥する。日付が変わる少し前。酒くらいなら飲めるだろうか。むしろ、アルコールでも入れなければやっていられない気分だ。
 端末をジーンズのポケットに押し込んで、ソファから立ち上がる。とても眠る気になんてなれなかった。
 近しい人間のそういう行為というものは、妙に生々しくてこちらを微妙な気分にさせる。オレとティーの出会い頭からしてあれなのだ。お互い健全な精神と肉体を持ち合わせていて、呆れるくらい仲が良い。ならばしていないわけがない。男同士なんて関係がない。分かってはいるが、実際に意識するとむずがゆい。両親のセックスを見てしまった子どもにも似ている。
 意識すまいと思うたびに、それと反して神経が尖る。人間なんて難儀なものだ。たまらず寝室を横切るときに足早になってしまった。足音も、ドアの開閉音も気づかれないくらいに二人が互いに夢中になってくれていることを祈った。





 アルコールを入れるつもりだったのでランチアは使えなかった。思い切りアクセルを踏んで街道を走ったらさぞ気持ちいいだろうと思うのに、残念だ。ポケットに残った小銭で最終の近いガラガラのメトロを乗り継いで、兄さんに教えて貰った数少ないバーの目の前まで辿り着いてから気づいた。
 ―――財布を家に忘れてきたことに。
 居間のテーブルに放置したまま、家を飛び出してしまったのだ。ジーンズのポケットを何度探っても数枚の小銭と煙草とライター、そして端末以外は出てこなかった。
 滅多にしないようなポカを、よりによってこういうときにやらかす自分が恨めしい。何故移動中に気づかなかったのだろう。動揺していたにも程がある。ポケットの小銭は残り数枚で、とても帰宅できるほどの量はなく、頼れる友人もまだいない。ティーと絶賛エキサイト中の兄さんに、帰れないから迎えに来てだなんて、どれだけ空気が読めないのだろう。そもそも兄さんは電話に出てくれるだろうか。多分無理だ。オレなら間違いなく出ない。
「どーすんだよ、オレ……」
 改めて現状確認した途端、頭から血の気が失せていく。頭を抱えて、店の前に座り込んだ。小銭で買えるソフトドリンク一杯で兄さんたちのコトが終わるまで粘るか。それともメトロで戻れるところまで戻ってから歩くか。どちらも現実味が薄く、この状況を解決できる妙案は浮かばない。今頃兄さんたちはよろしくやっているのだと思うと、なんだか泣けてさえきた。深くふかく、ため息を吐く。
「実にいい気分だなぁ、カタギリ!」
「……そりゃあ、あれだけ飲めば、誰だって気分よくなるさ」
 そのとき、鈍いベルの音がして店のドアが開いた。今の気分と正反対の言葉を口にされて、座り込んだまま思わず顔を上げる。ドアの向こうから店内のやわらかい間接照明がはみ出して、まるで遠い世界のようだと思った。
 その、遠い世界から抜け出てきた男がこちらに気づき、視線が絡む。空色の瞳がゆっくりとまるく見開かれるのをぼんやりと眺めていた。金髪の癖毛は店内の穏やかな照明を反射して、飴色に染まっている。精悍さと甘さを兼ね揃えた不思議な雰囲気があった。あまり強くない灯りのなかでも、きれいだと思った。この姿はまるで。
「てんしさま…」
「ロックオン!」
 子どもの頃、両親に連れて行かれた教会の屋根に彫られていた天使様にそっくりの姿をしていた。しかし、それ以上でどこかで会ったような既視感がある。それを探り当てるより先に、天使様はオレを別の名前で呼んだ後にすごい力で肩を掴んできた。
 あまりにも唐突で、オレは目を瞠るしかできなかった。天使様の傍らにいたポニーテールの男もまた言葉を失う。天使様だけがアグレッシブにしゃがみこみ、立ち上がれないオレの肩ごと抱きしめた。その力が意外に強く、骨がみしみしと音を立てて痛い。
「こんなところで何をしている!? 今日、きみの女神はご機嫌斜めなのか? センチメンタリズムを酒で薄めにきたというのか……ならば止めんぞ私は!」
「あの、オレ、」
「そうか、私に慰めろというのか、破廉恥な! しかし私とてきみの女神が怖いのでな。口づけだけで止めておくとしよう」
「ふぇっ!?」
 何一つ、状況を理解出来ないままに唇を押し当てられる。予想外の出来事に、避けることすら忘れた。天使様の肩越しに、彼の連れが頭を抱えてため息を吐くのが見えた。冷静になっているのならば助けて欲しいのに、唇を重ねるどころかぬるりとしたものまで侵入してくる。
 いくら双子とはいえオレにはそういう趣味はない。出会い頭の男に舌を入れられる覚えもない。取引先のそっち系の男に尻を撫でられたりしたことはあったが、なんとか笑顔でかわしてみせたのに。こんなところで、あんまりだ。逃げを打とうにもがっちりと腕で拘束され、距離を取ることもままならない。歯列をなぞり、奥の舌を引き出そうとする動きに背筋がぞわりとなった。
「んっ……、う、ふ」
 散々酸素を奪われた挙げ句、強烈なアルコール臭に気分が悪くなる。しかし舌先は無遠慮に粘膜を蹂躙し、上顎の弱い部分を探り当てた。ぴくりと反応を返すと、それを逃さず何度も上顎のやわらかい部位をなで上げるものだから、妙な気分がこみ上げてきて頭が痺れてきた。これはまずい、と思うのに、腕の力の強さや感覚に抗えない。強引なくせに上手いのがずるい。頬が熱を持つのを感じ、身体から力が抜けていく。相手の身体に体重を預けそうになった瞬間、
「その辺にしといたらどうかな」
 不意に唇が解放され、糸を引いて離れていった。支えをなくしてよろめき、思わず後ろに尻餅をついてしまった。襟首を掴まれて引きはがされた相手の方も呆然としており、近くで見ると思うより童顔なのだと気づいた。こんな男に舌を入れられたのだと思うと背筋が寒くなる。しかも、流されそうになっていたなんて。思わず口の端からこぼれていた唾液を、手の甲で乱暴に拭う。
「何をするんだカタギリ!?」
「男性同士でも性的嫌がらせで訴えられることを忘れないように。………それに彼、ロックオンじゃないと思うよ。よく似ているけれど」
「なんと!」
「…………」
 レンズの向こう側にある切れ長の瞳が冷静にそう告げる。オレと兄さんを一発で見分けてみせた驚きよりも先に、兄さんもこんな嫌がらせを受けているのかと思うと哀れで泣きたくなる。十年離れていたのだから、何もゲイに好かれるところまで似なくてもいいと思うのだ。しかもこんな、アグレッシブな。
 どんな表情を選び取るべきか分からないでいると、白い手が再びオレの顎をとる。空色の瞳に覗き込まれ、ついその真っ直ぐさにたじろいでしまった。相当酔っているに違いないくせに、こちらを見る目だけは透き通っていて戸惑う。
「どう見てもロックオンではないか……信じられん」
 出会い頭にいきなり舌を入れる相手の方がオレは信じられない、と口に出しかけてやめた。一刻も早く忘れたかった。しかしオレのそんな切なる願いをあざ笑うかのように、また顔を近づけてきた。てっきりまた口づけられるのかと思いきや、唇の辺りをすん、と嗅がれる。そして何度か頷いた。初対面と思えぬ近さに、既に慣れはじめている自分に驚いた。
「確かに…煙草の匂いが違うな。聞いてないぞロックオン!」
「言う義理もねえよ!」
 理不尽に、思い切り肩を揺さぶられたので思わず反論する。しかし声まで似ていることは相手を更に興奮させたようで、こちらを見ている瞳が輝いた。酔っているからか、童顔だからか、それとも性格なのか、まるで子どものような表情をつくる男だ。
「そうか、私の知らぬ間にティエリア・アーデとの間に子をなしていたとは……水くさいぞロックオン! 上官への報告を怠るとは、始末書ものだ!」
 通りのいい声と無駄な大声。そして上官というキーワードから、なんとなく兄さんとの関係が見えてくる。見えてきたけれど、信じたくはなかった。それよりも常識の遙か斜め上をいく勘違いに何を言っていいのか分からなくなった。何処をどう勘違いすればそういう発想に行き着くのだろう。二人の出会いからどう逆算してもこんな大きい子どもはありえないし、そもそもティーは、顔は可愛いけれど紛うことなく男の子だ。心の底から疲労を感じて思わずため息を吐くと、それとなくこちらの様子を伺っていた彼の連れと目が合う。苦笑気味の顔になんとなく共感を覚えて、声をかけた。
「どこからツッコんでいいのか分からないんだけど」
「…面目ない。少しやり過ぎだね、これは」
 そう言って自分の連れをさらりと無視しながら、座り込んでいたオレに手を伸ばす。店の前の薄暗い照明ではよく見えなかったが、彼は随分連れと雰囲気が違っていた。細長い印象と穏やかさに、まだ会話が通じそうな気がして安堵する。高い位置にくくったポニーテールや丈の短いジャケットが、若干変わり者めいた雰囲気を感じさせるが、よもや天使様ほどではあるまい。
「きみが望むなら、弁護士を紹介するから安心して」
「……いいのか? 連れなんだろ」
「いいんだ。彼もたまには痛い目に遭わないとね」
 そういってひどく晴れやかに笑ってみせる。穏やかではない言動と表情とのギャップに、普段の苦労をなんとなく伺って少し哀れになった。そういえば、兄さんから変人の上官がいると何度か聞いたことがある。あまり愚痴をこぼすようなタイプではないから意外に思っていたが、もしかして、足下に転がっている男がそうなのだろうか。
 ロックオンろっくおんと名前を連呼しながら、地面に座り込んでいる男を見下ろして、しばらくの間考えにふける。いくら酔っているとはいえ出会い頭に唇を奪うは、途方もない誤解をするはでまともではない。いつもならばなるべく関わりたくないタイプだった。しかし今は、事情が違った。
 ポケットを探る指先が、やはり端末と煙草と火種、そして数枚の小銭しか探り当てないのを確かめる。軽く息を吐いた後、兄さんとの会話を思い出していた。珍しく愚痴った兄さんに、そんなに変な上司なのか、と聞いた後、兄さんは苦笑をしながら付け加えたのだ。
『あのひとは、人とは違うルールで生きてンだよ』
 兄さんをしてそう言わしめる男を知りたい、と思ったのも事実だった。軽い諦めと欠片の好奇心を胸に、意を決してオレは言葉を口にした。半ばギャンブルにも近い選択だった。
「訴えねえからおごってよ。飲もうぜ、一緒に」
「え…」
 細長い方の、切れ長の瞳が意外そうに見開かれる。少し遅れて座り込んでいた天使様の、空色の瞳も見開かれた。しかし彼が驚きに固まっていたのは一瞬で、即座に地面から立ち上がり、再び乱暴にオレの肩を掴む。天使様の肩越しに、連れの男が頭を抱えたのが見えた。心底の同情に満ちたまなざしに、少し同意したいと思う。オレだってこんな状況でなければ、逃げてしまっている。たぶん。
「見事な判断だ! ロックオン二号!」
「にっ…、」
「あのねえグラハム、それはいくらなんでも失れ……」
「何を言う二号は二号だろう! なぁ二号!」
 そう言いながら何度も激しく肩を叩かれて痛い。あまりに堂々とした振る舞いに、苛立つのも忘れて圧倒されてしまう。常識やマナーや何やらはたぶん、この相手には通用しない。人とは違うルールで生きているという兄さんの言葉の意味を、少しだけ理解した。
 それでも、長年兄さんへのコンプレックスを抱いてきた身としては、一応口にしておかねばなるまいと思った。
「悪いけど、オレには一応ライルっていう名前があンだよ。あんたらの部下であるロックオンの、双子の弟。そっくりだろ?」
「なんと! 息子ではなかったというのか!」
「どう考えても計算が合わないだろ。簡単な算数も出来ないのかい、きみは」
「あの二人の間柄は熟知している」
「それとこれとは何も関係がないよね」
 噛み合わない会話にいちいち呼吸のようにツッコミを入れ続け、会話が交わされていく。混ざるタイミングが伺えず、しばらくやりとりを観察するしかできなかった。兄さんはこんな中に毎日晒されているのかと思うと、少し同情したくなる。楽しそうだ、と無責任に言えるレベルを超えた斜め上の会話だ。
「では二号! ともに飲み直そうではないか。忘れられない夜にしてやろう!」
「……そいつは、楽しみだ」
 苦笑を滲ませる連れと、アイコンタクトを交わす。やはり訂正した名前は天使様に届かなかったらしい。長年抱え続けてこじらせてしまった、屈折したコンプレックスを思い切りローラーで挽きつぶされたような、何の衒いもない物言いに、主張する気も起きずそのまま肩を抱かれる。
 そうして与えられた天使様の笑い顔は、唯の酔っぱらいのくせに腹の立つくらい気持ちの良いものだったから、途方に暮れてしまった。


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