二時間、と言いはしたがまさか本当に二時間で帰るわけにもいかない。耳栓で凌ごうとして無惨に敗れた夜、ブレイクタイムを挟んで四時間励む二人の営みを知ってからは、オレは極力朝帰りするよう努めている。
 いつもならすっかり馴染みになったバーに行き、そこに溜まっている奇妙な友人たちと飲んで時間を過ごすのだが、それだけはできなかった。
 そこにはきっと誰もいない。いたとしても中心人物は欠けているし、残りのメンバーがいつも通りにオレを迎えてくれることだけはない。絶対に。
 忘れてくれればいいと思う。感謝している。恩もある。だがそれを返すことはもう永遠にできず、彼らから受けた恩恵はじくじくと鈍く残る毒でしかなかった。だから、忘れてくれればいいと思う。
 いつか、毒という毒が全部抜けて、すべての傷痕が綺麗に消えたいつか、再会して笑い合える日が来るかもしれない。来れば良いと思う。だがそのためにはまず忘れるしかないのだ。オレも彼らも兄さんも。
 一人でいるのは正直ひどくつらかった。オレも誰も何も悪くなんてないのに、罪悪感にも似た何かが咽喉のあたりにまとわりついているような気がして、オレはそれを洗い流そうとがぶがぶ酒を飲む。誰かと一緒にいられたらどんなに楽か知れないが、心当たりは全滅だ。
「おにいさん、ひとり?」
 一人背を丸めて飲むオレの姿はやはりそう周囲の目には淋しそうに映ったのだろう。日付が変わる頃、オレは名前も知らない淡いブロンドの美女と隣り合って酒を飲んでいた。
「楽しくて何がいけないの?」
 彼女は少し自棄になっている節があった。ビールを浴びるように飲み、そう叫ぶ姿に憐憫の情を抱く。
「そうだよなぁ」
 その店の払いを全て出してやりながらオレは相槌を打つ。陽気に笑う彼女の濃く彩られた瞳はどこか淋しげで、哀しいことがあったのだと懸命に訴えている気がした。
「幸せになって、何がいけないってんだよ、なぁ!」
 唱和するつもりで口にした言葉は思っていたよりずっと力強く反響する。幸せを阻むなんて、一体何様だ。幸せになって何がいけない。幸せだけを考えて、悪いことがあるはずがない。
「あたしたちのハッピーな未来に!」
 掲げられたジョッキに強く自分のそれを打ちつけると、小気味の良い音とともに中のビールが零れて床を汚した。
 日付が変わり、店を変え、何件目かに入ったのはホテルで、やがて夜が明ける。シャワーを浴びて化粧の落ちた顔で笑う彼女の笑顔は、夜に陽気に笑うそれと何ら変わらない。そう言うと彼女は照れたように笑ってありがとうと言い、気持ちの良いほどさっぱりとオレたちは別れた。
 久しぶりだったせいか、相性が良かったのか、驚くほどすっきりした頭でオレはランチアを家へと走らせる。二日酔いの頭痛すらなかった。爽快感と自信が脳の隅々まで行き渡り、目まぐるしく回転している。
 やるべきことは多くある。兄さんの除隊に旅券の手配。あの気の良い旅行代理業者はまた骨を折ってくれるだろうか。ビザや何やらも必要だし、あの家電にごった返した家も片付けなければならない。家族二人が戦力になるか怪しいものなので、とくに力仕事の大半がオレの仕事になるだろう。
 だがいくら考えても少しも億劫ではない。むしろうきうきとする。血湧き肉躍るとは言い過ぎだろうが。
 陽が昇り始め、ちらほら出勤中のサラリーマンや学生の姿も見えだした。一日が始まる。オレはランチアを加速させる。
 幸せになるために、やるべきことがたくさんあるのだ。




「…顔、合わせらんねえんだろうなあ。オレたちこれからやります!って、宣言したようなもんだし」
 しかし家に帰ったオレを迎えたのは、恋人を探してクローゼットの奥に首を突っ込む兄の姿だった。何事かと訊ねれば、ティエリアがいないのだと言う。猫か何かにも似た仕草や扱いが見られるティーだが、いくらなんでもクローゼットの中にはいないだろうと呆れ混じりに「便座の裏は探したのか?」と言ってやった。
「探したけどいねえんだ!」
 便座の裏に張りつく可能性がある存在であっても、兄のティーに対する愛は少しも揺るがない。まったく愛とは素晴らしく、今日も世界は美しい。
 念のため寝室とリビングとティーのホビールームをチェックしてから、オレは心当たりを口にした。あの真っ赤な耳と震える声を思い返せば、とてもオレと顔を合わせる気にはなるまいと思う。
「んなの、今さら…」
「裸見られるのと、脱ぐ過程見られるのとじゃ恥ずかしさが違うんだってよ。ま、朝メシでも食べて待っててやろうぜ」
 もちろんその朝食も用意するのはオレだと思っていたのだが、兄さんが袖を捲りながらキッチンに入ってきたから驚いた。ものすごい勢いの割に雑にスライスされていく玉ねぎを見るに、要は何かしていないと落ち着かないということなのだろう。
 そんな心配になるなんて昨夜はいったいどんなプレイを…と考えかけた意識をフライパンの中の目玉焼きに集中させる。黄身もきっちり固めて焼く目玉焼きは、ディランディ家の朝の定番だった。たまにはやわらかいのが食べたいと駄々をこねのはオレだったか、エイミーだったか。
「黄身をこぼさないように、綺麗に食べられるようになったらね」
 そう母さんは笑った。ついに我が家でやわらかい目玉焼きを食べることはなかったが、自分で作ることもしなかった。それを不幸と結びつけようとは、もう思わない。
 兄さんはつまみ用に買っておいたマリネのオイルを使ってドレッシングを作っている。母さんがそうしたように垂れやすいプラスチックのトレイから器用に移す。
 腹を空かして帰って来るに違いないもう一人の分にはラップをかけて、オレたちは向かいあって食事をした。兄さんの心配は病気のようなものだとわかっているのでもう何も言うまいと思ったが、相変わらず上の空でドレッシングをシャツの胸元に垂らす兄さんを見かね、オレはティッシュを差し出しながら言った。
「どうせ遠くには行きっこないって。二人で散歩とか、よくしてたんだろ?」
 二人のこの家での話は散々聞いたから事欠かない。兄さんが下手なおとぎ話をしてやったことも、とんでもないオンボロアパートで初夜に臨んだことすら拝聴済みだ。
「でもあれは二人だったし、手つないでたし…」
「ティー一人で出歩いたこともあんだろ? ここに来る前だっけ?」
「そうそう、あいつ、なんかちっちゃな女の子と仲良くなっててさ」
 ティーの心配をしつつも、ティーの話には食いつきが良いからおかしなものだ。本当はわかっているんだろう。ティーはどこにも行きやしない。ずっと一緒だ。
 立ち上るコーヒーの湯気、ドレッシングに含まれた酢の匂い。固くて少しパサつく目玉焼き。それらを食べてとりとめのない話をしながら、オレと兄さんはティーを待った。もしかしたらふてくされて帰って来るかもしれないから、パンケーキでも用意しておいた方がいいかもしれない、なんて話しながら。


 やがてコーヒーはカップの底に乾いてこびりついた。目玉焼きの表面はひび割れ、サラダもぬるくくたくたにしなびる。
 オレたちは二杯目のコーヒーを淹れた。やがて三杯目のそれも注がれた。もう腹はがぽがぽだったが、お互い何も言わずにコーヒーを飲み続けた。
 食事を始めたときは朝十時を示していた時計が、午後三時を告げる。ティーが通販で買ったという、電波時計のくせにアナログで鳩が飛び出す謎のアイテムだ。三時が近付くとティーはこの時計の下に張りついたのだそうだ。最初の三日だけ。
 コーヒーがなくなって、鳩が鳴いた。日が徐々に傾き始める。オレも兄さんも何も言わない。じわじわと迫り来る夕闇が連れてくる不安を埋めるように続けた会話すら恐ろしく感じ始めたのだ。


「…何が、いけないってんだよ」
 陽が完全に沈む直前、オレは吐き捨てた。もう表情すら伺えない兄さんにではない。ティーに、だろうか。無情にも夜を告げる太陽にだろうか。
「なんで、邪魔ばっかするんだっ!」
 答えるものはいない。陽は沈み、ティーは帰って来なかった。
 ―――どいつもこいつも、なんで寄ってたかってオレたちを苛む。





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