さあ、どうぞと置かれた目玉焼きはつやつやした黄色をしていた。つつけば薄い皮膜が破けて中身が流れ出すであろうことが想像できる。果たしてこれを食べるのに、黄身の流出を防げるのだろうか。それともこの目玉焼きは実は目玉焼きではなく、食べるために置かれたのではないのかもしれない。
真剣に悩み、首を傾げた僕に、「たまごは嫌いだった?」と濃い色の髪を持った女性は訊いてきた。その発言からどうやらこれは食べるためにあるらしいと推察し、僕はフォークを手に取った。出されたものはきちんと食べるのが礼儀だと、僕は知っている。教えてもらった。
「遠慮せずに食べたまえティエリア・アーデ。彼女の料理は絶品だぞ。ええと…」
それはこの家の家主の声だった。さして会話もしたことがない相手だが、この男が言いよどむのを見るのは初めてであり、この男の性格、雰囲気にそぐわない現象であったので、思わず僕はいつもより余計に渦巻いた金髪を凝視する。すると左目を覆う眼帯と、それに覆い切れない傷痕が否が上にも視界に入り、身体が強張った。
「やっぱり名前、覚えてくれてないのねグラハム。いいわ、餌付けできればあなた相手には上出来」
しかし僕の心臓が凍りつくほどの緊張など、この場の空気に毛ほども干渉していないらしい。僕の存在はこの場合異分子なのは当然なのだが、当惑せずにはいられなかった。
二人は親密であるはずなのにグラハム・エーカーは彼女の名前すら知らないという。男は悪びれた気配もなく、彼女も気を悪くした様子がない。僕が二人の関係を把握しきる前に彼女は身支度を整えて出て行ってしまった。
「あなたはそんな怪我くらいじゃ困らないでしょ。せめてお腹が空いたら、私を呼んでね」
ひらひらと手を振られ、どう返事をすべきか考えている間にドアが閉まる音がする。僕は仕方なく、彼女の代わりに彼女が作った目玉焼きに向かって小さくいただきますと言った。
「君のことを」
タオルをソファに引っ掛けて、グラハム・エーカーが僕の向かいに座り同じくフォークを手に取りながら言う。
「ティエリア・アーデと呼んだが、失礼には当たらなかったようだな」
その言葉の意図するところを知り、僕のフォークは指の間を滑って皿にぶつかった。うさぎの絵の入ったプラスチックの皿からは、金属音にしては気の抜けた音がする。
「どうして…」
「昨夜君が一人でいたことから推察させてもらった」
昨夜。行くあてなどなかったが、もうこの国にはいられないことは理解していた。かといって彼らの故郷があるAEUは論外だったし、ひとまず人革連の天柱から宇宙に上がろうと向かった空港で、僕はこの男に捕まったのだ。
今よりも厳重に包帯が巻かれ、優先権を持たない民間人用のパスポートを持った彼が、グラハム・エーカーであると気づくのには多少の時間を必要とした。その間に僕の腕はがしりと掴まれ、気づいたときには解きようもなかった。
「…あなたも、どこかに行く予定があったんじゃないのか」
「何、ロックオン・ストラトスの愛妻にして愛息である君が一人でいることに比べれば些事に過ぎんよ」
そう言って形作られる笑顔は少しぎこちない。初期の治療は終わっているのだろう、そのぎこちなさと傷痕さえなければ彼はいつもと何ら変わらなかった。
「怪我は…大丈夫なのか」
「その気遣いに感謝する。見ての通り問題ない。問題があるのは君のご夫君の方だろうな」
 本当に、この男はいつもと何ら変わらない。僕をここに連れてきたのと同じだけの強引さと遠慮のなさで、ずかずかと触れられたくない領域を踏み荒らす。
「君が一人でいた理由とは、ずばり私のせいなのだろう?」
「あなたのせいじゃないっ!」
 グラハム・エーカーは闖入者以外の何者でもなく、ロックオンの上官それ以上でも以下でもなかった。ロックオンからこの男の存在を排除しようとしたことこそないが、極力関わらずにいようとしていた。そんな自分が、感情が先行した反射的な行動でも彼を擁護したことが信じられない。
「ではロックオン・ストラトスか?」
「違う、彼は悪くない」
「その通り。彼には一分の非すらない」
 僕は答えてから、自分の言葉がひどく一人よがりであることに気づいて当惑していた。もしロックオンと彼の立場が逆であったなら、僕はこんな発言をする者を許せるか、自信がなかった。
 だが、目の前の傷だらけの男はこともなげに肯定してみせる。この男のこういうところが、僕が彼を苦手とした所以なのだろうと、何だか懐かしい思いすらした。
「この数日の間に起こったことで、悪いことをした者など一人もいないと私は考える。君の考えは違うようだが」
「いいや、違いません。誰も何も悪くない」
 あなたが許してくれるなら、とは言わなかった。それは僕の価値観によるものでしかなく、彼には通じないとわかっている。
「では、なぜ君たちが離れなければならない?」
 そう、それは僕だけの価値観と思考による結果だった。誰に何を言われたわけでもない、自分の意志と感情で決めたのだ。それを果たして目の前の男に理解してもらえるか、自信はない。だがごまかすことが許されるとも思えない。さてどうしようか、と僕は困りながら少し笑った。
「気に入らんな。諦めた人間の顔をしている」
「そうだろうか、ビリーはよくこうやって笑っている」
「君が私を不得手としているのは熟知しているつもりだ。君の友人にして私の無二の友を呼べば、諦めずに話をするか?」
 友人と呼ぶべきほとんど唯一の人間の名前を出されて少しだけ心が揺れたが、僕は首を振った。彼らは去り、彼らは残る。それはもうどうしようもないことで、どちらにとってもベストではないかもしれないがベターな選択だった。話をしても意味はないのだ。ただ、僕はどちらにもいられないだけで。
「…黙って、行かせてもらえませんか。彼のためには、それが一番いいんです」
 姑息な論法が通じる相手ではないと友人が嘆き、かつ笑っていたのを思い出す。
「拒否する。君が彼に愛想を尽かしたというなら全力で協力するにやぶさかでないと思い連れてきた。それが言うに事欠いて彼のためだと? 一体君は彼の何を見てきたのだ。あるいは私が見ていたロックオン・ストラトスは君の伴侶とは同姓同名の別人だったのか? なぜ彼らと共に行かない!」
 彼の意図は全く別のところにあった発言であっても、それは奇妙に事実を突いていた。同一人物だが名前が違うというのは、彼のような人間には問題にすら感じられないだろう。
 しかし、ニールは違う。名前をとても大切にしていて、だからこそ背負いきれなくて捨ててみたり、そのくせ手放せなくて挙げ句縋って救われたりする。それを恥とは思わない。みっともなくても格好悪くても、僕は彼が幸せでいられるなら何でもいい。彼が捨てたいものを一緒に捨てられない自分など、いらない。
 彼の本当に大切な名前を呼ぶのに、一々咽喉が避けるような違和感を覚える自分など、彼にはいらない。
「…泣くということは、行動と感情が一致していないと解釈しても良いのかな?」
 ぽたぽたと頬を伝い顎の先から落ちた涙はつやつやした目玉焼きに弾けて溶けた。泣くつもりなどなかったのに、この男はいつも僕の意思を乱す。やはり苦手だと涙を拭いながら少し笑った。
「感情が、少し追いついていないだけです。いずれ慣れる。彼も最初は淋しく感じるかもしれないが、そのうち笑えるようになる。幸せになれる場所に彼は行くのだから」
 このとき初めて、グラハム・エーカーの気色が変わった。泰然とあるいは超然としていた空気が緊張し、やがて力が抜けていった。それは、喪失感とか淋しさといったものだろうとわかる。僕はグラハム・エーカーに感謝し、少し安堵した。こんなにも思われている彼が、故郷で幸せになれないはずがないのだ。
「やはり、彼は行くのか」
「ええ。しかしあなたのせいじゃない」
「当たり前だ。私のせいなどのために、彼を手放してなるものか」
 くしゃりと髪をかきむしる彼はまるで子どものようで、感情と現実との間で葛藤しているのがわかる。こんな規格外の男にもそんなことがあるのかと、奇妙な話だが僕は初めてグラハム・エーカーを自分と同じ人間だと実感した。
 だから、僕は少しだけロックオン・ストラトスの話を彼にした。ロックオンのこと、ライルのこと、僕のこと。そして、ニール・ディランディのこと。
 彼はきっかけでもあり、ロックオン・ストラトスの幸福に寄与してきた人でもある。彼にはできるなら理解を、それが叶わないなら知っておくだけでもしてほしかった。あるいは、誰かに僕たちの別離の正当性を保証してほしかったのかもしれない。





「私は、私のそばにいてくれる人間に幸せでいて欲しいと思っているし、そのための努力を決して欠かすまい」
 こう言い切れてしまうところは、きっと一生理解できないだろう。今回傷ついたのが彼でさえなければ、あるいはロックオンはここで幸せでいられたかもしれない。そう思わせるだけの強さが羨ましい。
「だから、彼が真にそれを望むのなら、別離もやむを得ない。そう思って彼を愛するもう一人の男の提案を受け入れた」
 僕がその結論に至るまでにはもっと時間と感情の起伏が要った。彼の強さを羨むと同時に、自分もそうあらねばならないと思う。人に訊かれて動揺するくらい弱いままでは、彼と暮らした間に何を得てきたのかわからない。
 ロックオンはいなくなる。この国で過ごした思い出を全部置いて。だから彼が置いていったもののうち、形にならないものは全て抱えていようと思った。
「あなたは、強いな。本当を言うと、僕はやはり少し淋しい。あなたの何分の一かでも、僕も強くありたい」
「馬鹿を言うな。私だって淋しい。淋しくて淋しくてたまらない。今にも泣きそうだ!」
 そう宣言した彼の顔のどこにも涙はなく、その予兆もない。こんなにも雄々しく告げる男が淋しいだなんて、一体誰が信じるだろう。
「ああなんということだ! 彼を失うなど耐えられない! フラッグの右腕をもがれたときだってこんなに痛くはなかった!」
 悲しんでいるというよりは怒っているという方がふさわしい叫びに、耳を塞ぎたくなる。
「彼がそれを望んだというということは、私は彼にとって疑似恋愛の相手でしかなかったのか、彼はフラッグを慰みものにしたというのか!」
 彼が支離滅裂なことを叫ぶたび、こちらの感情のたがも外れそうになる。必死に目を逸らして、ロックオンへの愛情で蓋をした感情が噴き出していく。
 捨てて欲しくない。忘れてほしくなんてない。ほんのガラクタに過ぎない彼のかけらが僕にとって大切なように、彼にも全部持っていてもらいたい。
 なんてひどい、一人よがりのわがままだろう。全部決めて、彼が置いていくものは自分が持っていようと決めて出てきたはずなのに、脆弱で傲慢な自分を殺してしまいたい。彼の幸せを祈っているといいながら、何一つできない。寄与するものがない。
 やがて、今にも破けてしまいそうなほど張りつめた感情を、グラハムの言葉が突いた。
「そして何より哀しいのはティエリア・アーデ、君がそれを受け入れてしまったことだ」
「受け入れてなんかいないっ!」
 感情は言葉とともに溢れ出し、同時に涙が目からこぼれた。ぼたぼた落ちた大粒の雫が黄身の薄い皮膜を押し破り、皿の上にじわりと黄身がとろけだす。
「ロックオンのためなんだ! ここにはもう彼には邪魔なものしかないんだ! 彼にはもう私はいらない!」
「嘘だ! ならなぜ君を連れて行こうとした!」
 大声を出したせいで咽喉がひりひりして、横隔膜が引きつるように痛かった。だが胸が痛いのはそのせいではないだろう。
「あいして、くれている。それはわかっている。でもだめなんだ、私はロックオンを捨てられない。大切なんだ、ロックオンと出会って昨日まで過ごした時間は、どれも私の、」
 宝物だった。あのビロードの袋に詰めたもの全部がそうであるように。
「でもそれは、ニールにはいらない、にせものだ。だから、一緒に行けない。彼は悪くない」
 泣き喚いて巡り巡っても、結論は同じだ。辿り着いた先が知った場所であることに、泣きながらそっと安堵する。そう、これでいいのだ。
「では一つ訊く。私たちが知り、愛したロックオン・ストラトスはにせものだったのか?」
 そうだ、と言ってしまえれば良かったのだろう。だがどうしてもできなかった。ロックオンやライルにとってはにせものでも、私にとっては違うことを嫌というほど思い知ったからここにいるのだ。口先だけでも誤魔化せれば良かったのだが、ばかばかしいほど真っ直ぐなこの男の前で、それはできなかった。これまでの会話で僕を取り繕うものは全て脱がされてしまっている。
「私たちは今、ケンカをしたな。あの激論は決闘とすら言ってもいい」
 立ち上がったグラハム・エーカーが僕の胸を拳で叩く。大して強くもない力なのに身体の芯がずん、と揺れた。
「二人の人間がそれほどまでに思う相手が、にせものなどであるはずがない。君たちの間にないのなら、この世のどこにも愛など存在しない。彼の懐かしいアイルランドにさえ」
 ぐらぐらと揺れた身体からまた涙がぼろぼろ落ち、黄身と混じって視界を濁す。だが目はまるで別のものを見ていた。
 ロックオンの不在を悲しく思う代わりに、帰りを待ちわびるようになったのはいつからだろう。彼でも抱えきれないほどの大きな花束を持って帰ったことがあった。わけのわからない人間を二人、伴って帰ってきたこともある。僕を背中に庇いながら、クリームパイを投げつける同僚に、彼は笑っていなかったか。
 不慮の停電で半狂乱になった私を連れ出し、二人で星を見た。星を見るのに疲れた僕は、彼には呆れられたり叱られたりすることが多かったが、こうして二人でぴったり身体をくっつけている間の穏やかな笑顔が一等好きだと思った。
 そんな笑顔に見られながら眠りに落ちた僕は夜中にそっと目を覚まし、すやすや眠る彼の顔を見る。額にかかる吐息に胸がきゅうと苦しくなり、泣きたくなった。その感覚を幸せというのだと、今の僕は知っている。
「……にせもの、なんかじゃない」
「そうだとも。私は欺瞞が嫌いだ。ロックオンは好きだ。だから彼は本物だ。大体、君の気も知らず自分の逃げ道に君を引きずりこもうなど、我田引水にもほどがある!」
 涙を袖口で拭いながら、僕は笑った。息が詰まってみっともない音しか出なかったが、確かに笑った。
「あなたが、それを言うのか」
 ロックオンの行動を逃げだなど、彼以外の人間が言ったなら僕は絶対に許さないだろう。
「言うとも。ついでに言わせてもらうが、昨日私が空港にいた理由だがね」
 唐突に話題が変わることには慣れたつもりでいた。それでもきょとんとしていると、彼はくしゃりと笑う。勝利の確信のような、それとも今から挑もうとでもいうような、不敵な笑みだった。
「さるルートから、ユニオンを超える最先端の再生治療を受けられることになったんだ。あとかたもなく消して、彼の逃げ道を塞いでくれる」
 自分で決めたのとは丸きり反対の方角を向いているのはわかるのに、それはいいなと思ってしまう。ここにロックオンはいない。ライルもいない。ただ僕とこの破天荒な男が、たまごの黄身が固まる程度の時間、益体もない話をしただけだ。なのにまるで何かが、何もかもが解決したような気さえする。
「愛しているのなら闘うべきだ。君の闘いをしてみたまえ、ティエリア・アーデ。互いに引っ張り合えば、互いに心地の良い田に落ち着けるかもしれん」
 ここにいよう。そう話をしてみよう。ささやかな決意をした僕の耳に、インターホンのベルが響いた。闘いを告げるゴングにしては、あまりにも穏やかな音だった。