言うなれば退屈だったのだ。ものすごく。
 毎日仕事に追われていた頃とは違った、のんびりとした自由な生活。ユニオンに来たばかりの頃は寝られるだけ寝てみたり観光地へ出かけてみたり、それなりに長期休暇を満喫すべく努力し、兄さんにいいご身分だな、と皮肉られたこともあった。その頃はティーとまだ打ち解けられていなかったので、家に居場所がなかったというのも理由のひとつだったが。
 ティーと仲良くなってからは、彼の家事の先生になってみたり、一緒に買い物やサッカー観戦に出かけてみたり、それはそれで楽しかった。楽しかったのだが、あまりやりすぎて兄さんが拗ねた。ので、最近は二人でいても自宅でのんびりする時間が増えつつある。
 そしてネバーランドでも遊園地でもなんでもない我が家では、暇をつぶそうにも限界があり―――金もかからず長時間暇をつぶせるということで、端末に向かう時間が増えたわけなのだが。



「…やっべ、昨日より下がってる」
 ティー特製のトマトヨーグルトジュース(新しいミキサーを購入したのと、色がきれいなので作ってみたそうだ。味は推して知るべし)をちびちびと舐めながら、ホロモニターに向かってため息をつく。
 きれいに下降の直線を描いている折れ線グラフは、ここ数日様子を見てみたものの右肩下がりを続けるばかりだ。いい加減諦めて売ってしまった方がいいのかもしれない。このままではせっかく儲けた分まで帳消しになってしまいそうだ。
「いけると思ったんだけどなぁ…」
 一週間前に同じような会社のものを買ってそれなりに利益を上げたばかりだというのに、少し状況が違うとこうまでうまくいかないものなのか。
 やはりデイトレードで一攫千金なんて狙うよりも、スーツを着て足を使ってあくせく働いた方がオレには向いているのかもしれない。いくら時間も金にもそこそこの余裕があるとはいえ、経験や培った勘の有無というのはいかんともしがたい。形だけ他人の真似をしたところで、うまくいくはずもないのだ。
 ひとつ息を吐いてから、すぐ傍にあるティーのノート型の端末を一瞥する。歩いてすぐのホビールームに要塞のような端末を大量に用意しているにも関わらず、彼はノート型の端末をいつも肌身離さず持ち歩いていた。それでも、あそこから出てくるだけマシになったんだよ、と兄さんは言うが、オレが来る前彼らはいったいどんな生活を送っていたのだろうか。
 そんなティーは今、オレと自分の昼食を作るためにキッチンで世紀の大実験―――ではなく料理をしている。時折何かを落とす大きな音やティー自身のちいさな叫び声が聞こえるが、どうしようもなくなったらオレを呼べ、という約束をしてあるので敢えて様子は見に行かないことにしていた。
 ものを教えるときは過保護になっては上達しない、というのがオレの持論で、多少キッチンが焦げたり燃えたり汚れたりしたところで、そこから学ぶことの方が多い。危険だからといってこちらが手を出してしまうといつまで経ってもできないままで終わってしまうから。
 あの様子だとしばらくキッチンから出てくる様子はないだろう。今までの経験を鑑みるに、ゆうに二時間はかかる。なぜたかがパスタを茹でてバターと野菜とともに炒めるだけの料理にそれだけの時間を費やすのかはわからないが、レトルトのパスタソースでも構わないと言ったオレに自分で作ると宣言したのはティーなので、楽しみに待つことに決めた。茹でたパスタがのびようがくっつこうが、大切なのはティーがひとりで頑張って作ったという事実であり、失敗についての反省は食べた後でやればいい。
 そんなわけで、オレにとってのティーは、とんでもなく不器用だが一生懸命なかわいい教え子だった。年の離れた弟か、下手をすれば子どもができたらこんな感じだろうかと思ったりもしたものだ。
 しかしそれだけではないと認識が改まったのは、この上げ下げをしながら伸び続ける折れ線グラフが原因だった。オレがデイトレードを始めたきっかけはそもそも、時間と金に余裕ができたこと以上に、優秀すぎる先生がいたからに他ならない。
「情報を整理し、流れを掴むことだ。そうすれば自然と買い時と売り時が読めてくる」
 ティーの趣味がデイトレードと聞いていたこともあり、冗談めかしてやってみようかとこぼした翌日、ティーは大量のデータとともにそんな言葉を残した。右も左もわからなかったオレに、わかりやすく一から手順を教えるその様は、ライスを直火にかけて丸焦げにした人物と同一人物だとはとても思えなかった。
 びっくりするほどティーがやる気を出してくれたお陰で引っ込みがつかなくなってしまったわけなのだが、今思えば、普段オレがやっていることに対する恩返しなのかもしれなかった。そうすると自然に、ティーもこんなに一生懸命になってくれているわけだから、大儲けとまでいかなくとも多少の利益は得たいという欲が出てくる。
 ―――それがいけないのだろうか。オレには、ティーが言うような流れもさっぱり見えず、少ない経験から売り買いのタイミングを考えてみるけれど、どうにもうまくいかない。大敗というほどではないが、若干のマイナス。こんな微妙さでは笑い話にもならず、諦めもつかないから余計にタチが悪い。
 かくして、不向きと知りながらも、折れ線グラフを前にため息を吐く日々が続いているのだった。このままではいけないと思いながらも、この状況から抜け出る良い方法も思いつかない。
 そして、この八方塞がりな感覚が、ティーの端末に視線を注がせているのだった。
 なんといってもオレの大先生はデイトレードに関しては信じられないほどの利益をあげているようなのだ。休止中の本人曰く「儲けすぎて面倒になった」というのは、この家でちらりと漏れ聞こえる資産総額を考える限り、嘘ではなさそうである。
 何か、この端末には秘密があるのかもしれない―――。
 我ながら浅はかな考えだ。わかっていた。けれど、連日下げ止まらない折れ線グラフが、オレの感覚を麻痺させていた。ついでにいえばあと二時間はキッチンから出てこないという確信があった。
 少し、情報を漁るだけ。ヒントをもらうだけ。
 そう自分に言い訳をしながら、ティーのノート型の端末を手に取る。心臓がどくどくとうるさく鳴り響くのを無視して、思い切って端末を起動させた。幸いにも指紋認証などのロックはかけていないらしく、あっさりと浮かび上がったホロモニターにほっと胸をなで下ろす。
「さて、データはっと…」
 多くのフォルダの中からそれらしきものを漁るけれど、予想した通りあっさりとは見つからない。相手は電子の申し子だ。もとよりすぐに見つかるといった甘い考えは持ち合わせていなかった。
 幸いこのノート型の端末は比較的ポピュラーな形のもので、仕事でいじった経験もある。番組の予約録画の操作も怪しい兄さんとは違い、それなりに端末をいじるのには慣れていた。不可視領域に放り込まれたフォルダを可視化するくらいのやり方は知っている。
 ―――30分ほど端末をいじり倒した結果、ホロモニターに大量の隠しフォルダが浮かび上がったのをみて、思わずガッツポーズを決めた。
「23xx_08_13」
「23xx_08_14」
「23xx_08_15」
 延々と続くそんなフォルダ名に心が躍るのを隠せなかった。一日ごとにデータを分けて保存しているなんて、普段の料理の手際の悪さや不器用さとはかけ離れたマメな性格だ。しかしそれくらいしているからあれほど儲けているのだとも思った。
 心臓の鳴る速度が増していくのを実感しながら、フォルダをダブルクリックする。
 途端、ポーンと鳴り響く機械的なアラート音に心臓が止まりそうになった。ビビりすぎて全身が跳ねた。おかげでホロモニターに浮かび上がったメッセージを理解するのに時間がかかった。
「…パスワードを入れろ、って」
 万事休す。そんな言葉が頭をよぎらずにはいられなかった。これが兄さん相手ならばいくらでも候補が思いつくものだが(そもそもパスワードをかけるという知恵が彼にあるのかも謎だ)、残念ながらこの端末の持ち主はティーだ。しばらく一緒に過ごして距離が縮まっている実感はあるものの、残念ながらこういうものが読めるほどにはオレは相手のことを知らない。
 ヒントは数字4桁ということのみ。試しにこの家の電話番号の下4桁を入れてみるが、あっさりと弾かれた。この家のドアのロックのためのパスワードも入れてみたが、やはり失敗だった。
 三度失敗するとロックがかかります、という警告に心臓が冷えていく。ロックがかかるということは即ちオレの介入行動が露呈するということだ。デイトレードで一儲けしたくて家族の端末を覗いたなんて情けないにもほどがある。
 諦めるべきだ、とオレの中の冷静な部分が告げるのだが、ホロモニターに映し出される大量のフォルダはあまりにも魅力的だった。また心臓がうるさく鳴り出すのを自覚する。ふるえる指で、キーボードを叩いた。
 もう他に、数字4桁の心当たりなんてなかった。
 あまりにもベタすぎて、入力するのを躊躇っていた。
「マジかよ……!?」
 それだけに、ロックが解除された瞬間には目を疑った。
 そして更に、そのフォルダの中身が展開されたとき、オレは今までとは違う意味で心臓が止まりそうになった。






 音を立てて作業台からパスタの束が落ちていく。それを拾うため、慌てて持っていた鍋を放り出してかがんだら、きちんとコンロに乗り切らなかったそれが落下してきてしたたかに背中を打った。
 鈍い痛みに顔をしかめながらも、鍋にまだ水を入れていなくてよかったと強引に思い直す。台所が水浸しになってしまったらそれこそライルを呼ばなければならなくなってしまう。床にばらまいてしまったパスタを拾いながら、これらは水洗いすべきなのかを熟考する。ライルが毎日きちんと掃除してくれるおかげで床にはホコリひとつ落ちていないのだが、不可視の細菌が多くいるかもしれない。むしろ消毒液だろうか。
「…確か、こういうときは、」
 キッチンに立ったときのライルの行動パターンはレシピとともにすべて端末に記録してある。包丁を取り扱うときは猫の手。レタスは水にさらす。調理中の鼻歌はアイルランドの民謡。
 彼の手際の良い動きをトレースすればもっと素早く調理できるのでは、と思い、端末に記録する他にもすべて頭にたたき込んであるのだが、イメージ通りにうまく身体が動いてくれないのを腹立たしく思った。
 今までのパターンと近いものを検索するが、落下した物体が野菜であるか肉であるか、未調理であるか調理済みであるかによっても異なるために最適であると認識できる行動パターンが該当しない。彼は今までパスタを落下させたことはないようだ。少なくとも僕の前では。
「どうすれば…ロックオン」
 無意識につぶやいたのは、毎日教授してくれるライルの名ではなかった。パスタの束を握りしめ、鍋を床に転がしたまましばらく思考にふけっていた。こういうときにぱっと動くことのできない自分をもどかしく思う。ライルもことあるごとに、あまり考えすぎるなと言うし、もっと適当でいいんだと繰り返す。
 けれど、何を以て適当であるのか、本能に従い調理を始めるといかなる料理ができるのか、僕にはまるで想像ができない。端末のようにキーを押せばそのまま出力装置がイメージ通りに動いてくれればいいのに、こと料理に関してはそうではないのだと痛いくらいに実感していた。
 こう何度も失敗を重ね続けては、さすがに自分に料理の適性がないのだと実感する。だからといって諦めるわけにはいかなかった。せめてロックオンの誕生日までには、料理のひとつでも振る舞えるようになりたいのだ。
 クリスマスプレゼントのひとつも素直に受け取ろうとしない、無欲すぎる恋人が笑ってくれる方法なんて、それくらいしか僕には思いつかない。



 そんな僕が結局、解決策として選ぶのはやはり端末だった。端末に記録してあるライルの行動データを参照し直せば、記憶にないものの中から該当するものが出てくるかもしれない。
 パスタを握りしめたまま端末のある居間へと向かう。もし端末にデータがなければ、今度こそライルに助けを呼ぼう。そう決意を秘めてキッチンを出た。
 小さな家だ。キッチンから居間まで、一分とかからない。
 そして僕は、見てしまった。
 ―――否。正確には見られてしまった、というべきだろうか。
 瞬きを忘れて目を見開いた。持っていたパスタが床に落下し、磨き抜かれたフローリングに散らばっていく。目の前で、何が起こっているのか全くわからなかった。理解する前に目の前の男を殺すしかないと思った。なぜ今の僕の武器はパスタなのだろう。彼を殺して僕を死ぬ。いやその前に端末のデータを全消去して、それから、
 何故。
 どうして。
 ホロモニターに、決して見られてはならなかったモノたちが映っているのか。
 右にあるロックオンの寝顔は15日の4時37分に撮影したものだ。中央に鎮座する着替え中の姿は13日の8時13分のもの。僕のつけた傷が背中に残っている。左上にあるのは12日の23時18分のものは風呂上がりでミルクを飲んでいる姿。9日の14時22分は庭の草むしりをしている。17日の19時38分にはグラビアにあるティーンのアイドルを凝視していた。
 どれも、本人には悟られないよう秘密裏に撮影した後パスワードをかけて厳重に保存していた筈のものだった。それがなぜ晒されているのか。それが何故ホロモニターに映る男と同じ顔をした男に凝視されているのか。
 ああ、本当に理解ができない。というよりも、したくない。
「う、」
「…げ、」
「うわあああああああああっっっ!!!!!」
 絶叫した後、僕は全力で床に落ちていたパスタをライルとホロモニターへと投げつけた。ホロモニターに映っていたロックオンのボクサーパンツの股間のあたりに、パスタが刺さってすり抜けた。





 オレはティーの誕生日を知らない。
 故に、可能性としてありうるパスワードは0303くらいしか思いつかず、しかしまさかそんな単純なパスワードを設定しないだろうと思っていたのだが―――あっさりと端末はそれを認証してしまって驚いた。
 そこまでは成功だった。しかしその結果オレが手に入れたものは、デイトレードのためのデータではなく、大量の画像だったのだ。オレと同じ顔の男が、寝ていたり、着替えていたり、ティーにどことなく雰囲気の似たアイドルに鼻の下を伸ばしたりしている、なんてことのない、しかし若干恥ずかしい写真だった。
 それらがホロモニターに映し出されたとき、オレは全く意味が飲み込めなかった。あまりにも驚きすぎて、オレの背後に陰が忍び寄っていることにもしばらく気づかなかった。
「きみを殺して僕も死ぬ!」
 まさかパスタを投げつけられながら、メロドラマ紛いの台詞を現実に耳にするとは思わなかった。
「いっそ殺してくれ…」
 真っ赤になって目に涙をいっぱいにため、膝から崩れ落ちるティーの姿をみて、オレは初めて自分がとんでもないことをしたと気づいたのだった。



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