そしてオレは途方に暮れ、堅く閉ざされたホビールームの前で立ちすくんでいた。昼食の時間にも夕食の時間にも居間へ姿を現さず、ご機嫌取りにティーの好物のプリンを作ってみても全くの無反応だ。
 他人の端末を勝手に見て、そのプライバシーを無遠慮に暴き立ててしまった。内容の是非はあれど、オレの行動そのものに言い訳のしようはない。勿論写真の存在を兄さんに告げる気は毛頭なかったが、姿を見せないティーを心配する兄さんにどう説明すべきかだけ困ってしまった。
「オレがティーを怒らせちまったんだよ。家族だし、喧嘩くらいするさ」
 そう曖昧に、しかし追及は許さずきっぱりと告げると、兄さんは眉を寄せて苦笑しただけで何も言わなかった。きちんと説明すべきなのかもしれないが、原因が原因であるが故に、迂闊に口を滑らせてしまったらティーがそれこそ電気コードで首を吊りかねない。
 こんなとき兄さんならどうするのだろう。得意のアイリッシュシチューで機嫌を取るのだろうか。ドアの向こうへ愛と謝罪の言葉を告げて、優しく抱いてやるのだろうか。
 前者は既に無効であることを確認済みで、後者はどう考えてもオレには不可能だ。いっそ兄さんが抱いてくれでもしたら態度は軟化するだろうに、と他力本願甚だしい最低なことを思ったが、それでは根本的な解決にはならない。
「本当に…悪かったよ、ティー」
 ドアの向こうへ何度目かわからない謝罪を投げた。しかし応えは返ってこない。ドアに耳を当てると、すんすんというすすり泣きの音がかすかに聞こえる。先ほどからずっとそうだった。よほどショックだったのだろう。罪悪感に胸が痛む。
「軽い気持ちで見ちまったんだ。お前を傷つけるつもりなんてなかった」
「軽い気持ちで、きみは…、」
 言葉が返されるとは思わず、とっさにドアに当てていた耳を強く押しつける。耳ごと半身をドアに押しつけたせいで、肩の骨がドアに当たって痛んだが、そんなことに構う余裕もなく。
「軽い気持ちできみは不可視領域へアクセスし、パスワードを解くのか」
「……本当に、言い訳のしようもねえ。悪かったとしか言えない」
 言葉にされると反論の余地がない。確かに軽い気持ちでするようなことではなかった。人間、金が絡むとろくなことがない。金輪際デイトレードはやめようと堅く胸に誓った。
「あんな気持ちの悪いもの、誰にも見せるつもりはなかったのに!」
「……自分の恋人をそこまで言うか」
「ロックオンは気持ち悪くなんかない!」
「ああ、もう! 悪かったって!」
 涙声の反論に慌てて謝る。もはや何に対して謝っているのかわからない。完全に会話がかみ合っていない。それでも、ティーの言葉は聞かなければならないと思った。だから嗚咽のひとつも聞き漏らさぬよう、じっと耳をそばだてていた。
「もっと、聞いていいか」
 泣き声が落ち着いた頃を見計らい、ぎこちなく声をかける。会話の主導権を相手に預けると、また噛み合わず誤解を生みそうだと思ったから。
「気持ち悪い、って?」
「………あんな写真をもしロックオンに知られたら、気持ちが悪いと思われる。分かっていた。やめようと何度も思った。けれど止められなかった。全部、ロックオンがほしくて、僕は、どうしようもない強欲で、だめなんだ。ぼくは、だめだ、」
 言葉は途中で途切れ、かわりに子どものようなあられもない泣き声が、ドアの向こうに響きわたる。ティーが部屋から出てこなかったのは、オレに腹を立てていたから、ということがすべてではなかったようだ。
 最初はオレを責めていたはずなのに、いつの間にかその刃が自分に向けられている。そしてその方が、何倍も痛い。お前が悪いと詰られて嫌われた方がまだ気持ちの上ではすっきりする。
 オレは知ってはならなかった。やはり暴いてはならなかった。ティーがずっと積み重ねてきた小さな罪悪は、おそらく誰も責めることはないだろう。しかしそれは確かに彼の中で風船のように膨らんでいったのだ。それをオレが、つまらないことで破裂させてしまった。彼がうまく飲み込めないでいるうちに。だから彼はその衝撃をすべて自責の刃に変えるしかなかった。幼い情緒は時折、必要以上にその持ち主を傷つけてしまうから。
「…だめじゃねえよ」
 部外者だと、分かっていた。だが敢えて口にした。
「いい加減なことを言うな」
「なんでそう思う?」
「…きみは、何も、知らないから」
「知らないって何を? ティーが思わず隠し撮りしちゃうくらい兄さんのことが好きってこと?」
 ひっ、と息をのむ音が聞こえた。どうやら図星だったらしい。そのつもりはないのだけれど、まるで苛めているみたいだ。本来責められるべきはオレなのに。
 正直言って、その先を言うべきか言うまいか少し迷っていた。だがドアの向こうに響くちいさな泣き声を耳にして、告げようと決めた。少しでも彼の動揺が和らぐように。彼があまり自分を責めずに済むように。オレは、自分の切れる最後のカードを切った。
「…オレ、昔、好きな女の子がいてさ」
 このことは兄さんにも話したことがない。墓まで持っていこうと決めていた秘密だった。それなのに、こんな狭い廊下で懺悔のように打ち明けている。一体オレは何をしているのだろう。
「でもその子はオレじゃなくて兄さんが好きで、でもオレ、どうしても諦めらんなくてさ……」
 思い出すと今でも羞恥心で死にたくなる。頬が赤くなっていくのを自覚しながら、いっそティーが泣くのに夢中で少しも聞いていなければいいのにと思う。
「…それで?」
 しかしその願いは叶わなかった。自分から話したくせに、ドアに頭を打ちつけて死のうと一瞬だけ思った。しかしそれでは何の解決にもならないので、観念して、言葉を続ける。
「兄さんのフリをして、デートの約束、取り付けた。普段いたずらで兄さんのフリとかしてたし、全然いけるだろって思ったのに―――その日に限って、あがっちまって、ボロボロでさ。すぐにバレて罵られるし泣かれるし、兄さんまで同じ顔の弟をあてがう人でなしだって言われるし、告白どころじゃなかった」
 全部オレの独断で兄さんは何も関係がないのだと分かってもらうだけで精一杯だった。なんでそんなことをするの、意味が分からないわ、とオレを責める相手に、好きだからだと返すほど厚かましくもなれず、お互いに最低の記憶を植え付けてオレの恋は終わった。
「きみを好きになってもらうのに、ロックオンの振りをしても仕方がない」
「…はは、まったくだ。バカみてえだろ」
 自分のバカさ加減を思い出したくなくて、ずっと記憶の奥底に封じ込めてきたのに、口に出すとまた羞恥心で気が狂いそうだ。それをごまかすために声を立ててわざとらしく笑う。そして言葉を続ける。
 その先を続けなければ、オレの恥ずかしい過去は晒し損になってしまう。
「でも、好きだからバカになっちまうんだ。オレも、お前も、兄さんだって同じなんじゃねえの」
 ドアの向こうでティーが息をのむ音が聞こえた。少しでも彼が自分を責めずに済めばいい。オレの恥ずかしい記憶よりも、それだけを願った。
「好きって、そういうことだろ」
 諭すように言葉にする。兄さんがオレたちの三文芝居にだまされるのも、オレが上手に兄さんを演じられなかったのも、ティーが途方もない量の写真を集めてしまうのも、つまりはそういうことだった。
 相手は少しばかり黙って、それから初めて声にやわらかなまるみを見せた。
「……ロックオンに、言われているようだ」
 オレのなけなしの優しさがそういう風に応用されるとは予想外で、思わず膝から崩れ落ちそうになる。彼が一途でかわいらしいのは事実だが、やはり少しズレている。これ以上話がこじれてもしょうがないので、胸に秘めておくことにするけれど。
「便利だろ、双子って」
 オレの苦い経験からすると、なんだか皮肉のようにも響くけれど。薄く笑ってそう告げると、そうだな、とだけ応えて、それからロックが解除される音がした。
 ドアの隙間からおそるおそる姿を現したティーは、みっともないほど目を赤く腫らしてして、罪悪感に胸がまた疼くのを感じた。それを察しているのかいないのか、彼はぎこちなくだが、こちらに笑いかけた。
「ありがとう、ライル」
「…ごめんな」
 肩に触れる。抱きしめる。額にキスをする。兄さんはどこまで許してくれるだろう。気持ちを伝えるのに言葉だけではとても足りなくて、オレは途方に暮れるばかりだった。
 しかし伸ばした手は何も触れることなく握りしめ、代わりに、応えるように笑った。ぎこちなく。
「安心しろよ、兄さんには言わ……ッ!?」
 オレの言葉は最後まで音にならなかった。なぜならティーが、オレのにこやかな顔に―――少年らしい華奢な外見に似合わぬ、重い拳を浴びせかけたのだ。
 彼が微笑を崩さぬままだったから全くの不意打ちだった。おかげで身体が派手に吹っ飛び、フローリングの廊下に音を立てて転がる。少年マンガもかくやという吹っ飛びっぷりで、堅い床にぶつかる衝撃に生きた心地がしなかった。完璧な右ストレートだ。どちらかというと引きこもりのきらいがある彼が、一体どんな経緯でこんなパンチを身につけたというのだろう。
 そんなオレを見下ろすティーは、ぞっとするほど冷たい目をしていた。切れ長の赤い瞳は、鋭さを帯びると紅茶どころか鮮血のようにすら見える。背後に照明があるせいで逆光になっているのが、余計に恐怖をあおり、腫れ上がり熱を持つ頬の痛みも忘れそうだ。
「人の端末を勝手に覗くなど、万死に値する」
「…………すみません」
 額に手を当てながら謝罪の言葉を絞り出す。なんだか目尻から涙がにじんできた。自分よりもずっと年下の(たぶん)少年をこれほど怖いと思ったのは初めてだった。
「これで終いだ。きみは今日、何も見なかった。いいな?」
「…了解」
「よし」
 途端ティーはにこやかに笑い、右ストレートを決めた手をそのままオレにさしのべる。それを握り返そうと手を伸ばしたとき、つんと鼻をあたたかいものが通り、慌てて手のひらを鼻先に戻した。それは涙の気配―――というわけでもなく。
「? どうした、ライル」
「…鼻血。アンタの右は強烈すぎんぜティーさん」
 そういって鮮血に染まった手のひらを見せるが、あれほど泣いて動揺した相手とは思えない無表情で眉一つ動かさない。腫れぼったい瞳がまるで嘘くさい。しかしどちらもティーなのだと、最近になってようやく理解した。
「脱脂綿でも詰めておけ。なかなかの男前になる」
「そしたら兄さんみたいに写真撮ってくれる?」
 右ストレートの仕返しにちくりと棘を返すと、細い肩がぎくりと跳ねる。それがおもしろくて声を立てて笑うと、ティーの口の端も同じようにほころんだ。
 居間に戻ると兄さんが鼻血に驚いて何事かと問いただしたが、二人で笑いあうだけにして、それ以上は語らなかった。ティーに脱脂綿をつめてもらうと想像以上に男前になってしまったので、記録をするのはご遠慮いただいた。












 今になって思うと、あんな顔でもいいから撮ってもらえばよかったかもしれない。少しだけ後悔している。
 オレがあの家にいたときの記録なんて、驚くほど少ない。あれほど家族として時間を重ねたはずなのに。くだらないやりとりを繰り返したはずなのに。理由などなかった。いつの間にか、写真を撮るのに理由が必要なほど、ティーたちと過ごすのはオレにとって日常になってしまっていた。それだけのことだった。
 いつだって、その時間を過ごしている最中は気づかないでいる。日常なんてそんなものだ。過ぎ去ってから気づき、少しため息をつく。
 しかし、だからといって、過ごした日々の価値が揺らぐわけではない。それを分かっているから、オレはなんとかやっていけるのだ。