「ただいまー」
 懐かしく、こそばゆい言葉だ。ずっと昔は何の感慨も抱かずに言っていた。もっと大切に言えば良かったと後悔したのは、言うべき相手を全て喪ってからだ。再びこの言葉を口にするのは、ほんの少しの勇気が要った。
「ティエリアー?」
 しかしそんな勇気は空回りして、同居人からの返事はない。外出など滅多にしない彼だし、セキュリティで在宅中なのは確認している。ふと、不安がよぎった。今回は同居をしてから、初めての出張だった。ほんの三日だけの短いそれだが、俺が促さなければティエリアは食事を平気で抜く。大量のシリアルやカロリービスケット、レトルトのリゾットを用意したが、果たして食べるものだろうか。三日といえば九食にも及ぶ。
「ティエリア!?」
 スーツケースを放り出し、慌てて部屋に駆け込む。勢い良くドアを開けた寝室にもパソコンルームにもその姿はなく、俺は辿り着いたリビングルームでようやくその美貌を見つけた。ソファにもたれてぼんやりしている。
(痩せたかな?)
 いくらなんでも三日で目に見えるほど痩せるとは思えないが、そう思わせるだけの物憂げな雰囲気がティエリアにあった。憔悴とは違う。それよりは穏やかで緩やかだ。が、確かに細まった印象を受ける。
「ちゃんとメシ食ったか?」
 ソファの前に膝をつき、顔を覗きこむ。ちょっと信じられないが、ティエリアはそのときようやく俺……というよりも家に侵入した者を認識したようだった。空き巣や強盗に遭遇していないことを、切に願う。
「……ロックオン?」
 か細い声だった。いつもの高圧的な雰囲気など微塵もない。眼鏡のない表情はあどけなく、触れなば落ちん風情だった。
「ただいま」
 もう一度、帰宅を告げる。不思議ともうこそばゆいとは感じなかった。白い頬に手を滑らせ、微笑が自然に出るに任せる。穏やかな、緩やかな一瞬だった。それを突き破ったのは堰を切ったような、奔流のような抱擁だ。細い腕が首に回り、受け身を考えずに身体ごと投げ出される。しがみつく力は強く、加減を知らなかった。
「おわっ!」
 背後にあるローテーブルへの直撃を避けるため、咄嗟に身体を半回転させる。結果身体を遮るものはなく、テーブルとソファの隙間に倒れ込んだ。カーペットを敷いていて本当に良かったと心から思う。背中をひとまず落ち着けると、腕を回した身体に意識が向かう。細いには細いが、痩せたというには及ばない。
 ティエリアはもともと細いのだ。出会った頃など俯いていてもあばらが浮いていて、見ていて寒々しく思ったものだ。偏食の過ぎるティエリアに少しずつでも食事を摂らせ、その白い肌がなめらかに張りを持ったときには酷く安堵し、嬉しくなったのを覚えている。
 それと比べれば、抱きついてきたティエリアは水をやり忘れた花のようだった。咲いているのに萎れている。俺が水をやらなかったから萎れ、俺が水をやったからあの張りがあったのだとしたら、留守を反省しつつ自惚れても許されるのではないだろうか。
 ティエリアは密着するだけでは飽かず、全身を揺さぶるように肌を体温を求めている。足掻いた足が俺の両足を割り、下腹部が擦れた。頭を擦りつけられる喉元がこそばゆい。後頭部に回った手は髪を掴んで引っ張っていた。
 痛みよりも痛ましさが押し寄せる。同時にどこか温かい気分だ。俺は必死のティエリアに答えるようにその背に手を回す。浮き出た肩甲骨を手繰り、脇腹の肋骨を一本一本撫でると、安堵したのか揺さぶる動作は収まった。代わりにしがみつく力はさらに強まる。互いの隙間を無くすかのように。
「淋しかった?」
 問うた唇は笑みをかたどっていた。幼い頃、迷子になって泣いていた俺や妹に、母がそうして笑いかけたのを思い出す。淋しがらせたのは自分と知りながら笑うのは、強烈に求められる優越感が成せるのだろうか。しかし俺はそんなエゴイスティックな心理より、愛情というものの存在を信じたかった。


 ティエリアは答えない。涙も見せない。代わりに睨みつけてくるのだが、それはどんな贔屓目で見ても強がりにしか見えなかった。俺は背中を撫でていた手をティエリアの首から後頭部へ、少しごわついた髪に指を絡ませ、促す。唇は素直に近付いてきたので、俺は頭を少し持ち上げてそれを迎えた。
「ん、」
 唇で啄み、舌を差し入れて、貪欲に切実に接触を求められる。吐息と共に漏れた甘い声が、帰ってきて初めて聞いたティエリアの声だった。
「ふっ……」
 唇を離したティエリアは俺の上に脱力した身体を投げ出す。執拗に絡んでいた足からも力が抜けた。しかしその付け根に熱を持っていることを、互いにもう知っている。俺は片手を床について上体を起こした。乗ったままのティエリアはだらりとついてくる。
「ティエリア、ほら」
 背後にあるソファを頼りに立ち上がろうとしたが、力の入らない、けれども俺から離れないティエリアが阻んだ。腕を掴んで引き起こそうとしても、だらりとぶら下がるだけだ。
「ティエリア、立ってくれよ」
 やはり返事はなく、立つどころか俺の足に抱きつくようにもたれる。そう望むのならいつまでもそうさせてやりたいが、そうでないことも俺は理解していた。衝動でしがみついているだけでは、ティエリアの欲求は解放されない。無論、俺も。
 もたれるティエリアを振り払うように立ち上がり、縋って見上げて来る赤い瞳に応えるように両手を伸べる。片手を背中へ、もう片手を両足の膝裏へ、ティエリアの腕は首に促した。
「よっ、と」
 背筋と腕に力を込め、細い肢体を持ち上げる。そうして抱くと体重もあいまって細さが際立った。必死にしがみていてくる腕も頼りない。俺は肩口に埋まった小さな頭に口づけて、強くその身体を抱き締めた。
 ―――男の腕は、愛しい人を抱き締めるためにあるのだよ。
 そう言ったのは愛の定義が常識からかけ離れた上官だったが、この際は構わない。俺はティエリアを丸ごと抱き締められるこの身体に感謝する。細い身体から伝わる震動と体温を感じながら、俺は足を寝室へと向けた。




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