最初に知覚したのは匂いだった。ローションと外気の匂いに紛れた、懐かしい匂い。柔らかくて曖昧で、人の肌や汗から発しているはずなのに、不快感はない。いつもその匂いに包まれて眠っていた。そこに満ちるのは安堵だ。そして、それが欠けていた自分が不安だったことに気付いた時、無意識に目の前の身体に縋っていた。
 背と膝裏に回った腕は力強く、身体を委ねるのに何の不満もなかったけれど、早く全身の体温が欲しくなる。肩口に埋めた鼻が、必死で匂いを探って原始的な安堵を求めた。
「くすぐったいって」
 笑いを含んだ、浮いた声音が耳をくすぐる。そうだ、この声だ。下らない仕事の愚痴や、童話を紡ぐこの声音を聞きながら、背後にある彼の腹にもたれるのが当たり前になっていた。
 腕が下ろされ、背中にスプリングの弾力を感じたが、首にかじりついた腕を離すわけにはいかない。匂いが遠のいてしまう。
「大丈夫だよ」
 柔らかい声と有無を言わさぬ力が、それを引き剥がした。抗うように横たえられた身体を起こし、傍らに乗り上げた彼の膝に顔を伏せる。スラックスを掻き毟るように縋った。頭上では衣擦れの音。ぱさりと何かが床に落ちた気配の後、伏せた身体が引き起こされ、再び横たえられる。
 ロックオンの寛げたシャツの襟元が間近に見えた。首の下と腰から回った腕に背中を包まれ、視線を上げると微笑をたたえた端整な顔がある。いつものように添い寝されただけなのに、全身をロックオンの体温と匂いが包み、視界も彼が占拠する、それらのことにどうしようもなく安堵した。
「ロックオン……」
「ん?」
 名を呼ぶと、すぐにも返事をくれた。彼が首を傾げるので、癖のある毛先に頬をくすぐられる。素手に髪を撫でられるのが心地良い。
「ちゃんと寝てなかったな? メシも食ってないんだろ? あ、風呂もだな」
 目許の皮膚を親指で引っ張られ、腹を軽く叩かれ、髪を嗅がれた。その一挙一動に、自分が安堵していること、自分が不安だったことを思い知らされる。
「あなたが、いなかったからだ」
「そりゃ困ったもんだ。でも、そうだな、ごめんな」
 髪を撫でていた手が額をかき上げ、露出したそこに口づけられた。眉間、鼻先、頬、顎。続けて与えられるそれは甘い痺れを伴って、さらなる渇望をもたらした。唇を開けばそこに与えられ、わずかに凪ぐが疼きは酷くなる。腰に回された腕に力が込められ、下肢が密着して、自分が求めていたものの正体にようやく気付いた。こういう時に求めるのかという奇妙な得心があり、頭の芯が冴えて行く気がする。他は熱に浮かされたようにぼうっとしているけれど。
 目の前にある襟を掴んで引き下げ、首を伸ばした。顔を傾けて迎えてくれるので、夢中で啄む。自然を扱ったドキュメンタリーで見た、餌を求める鳥の雛を思い出した。あるいはそれが託卵された結果でも、与えられることが与えてくれる存在があるのは確かなのだ。
「んん、」
 離れようとする唇を、逃すまいと吸いかかる。手は無意識にロックオンの胸を掴み、上下に揺さぶっていた。ねだるように。
「はっ……」
 腕力に負けて唇が離れる。代わりに、唇を拭ったロックオンの指が、シャツのボタンを摘んだ。
「……いいか?」
 彼はいつもそう尋ねる。瞳を柔らかく伏せて、微笑みながら。それを断った記憶がないことに、この時初めて気付いたが、大した問題ではなかった。視線を逸らさないよう、小さく頷く。そうした後のロックオンの表情に、好意というものを体感した。


 ずっと一人でも平気だったのだ。人のすることの大半はこなせたし、眠ることは呼吸と同じようにできた。なのに、ロックオン・ストラトスと出会ってからは、必要がなくなり、やがて呼吸すらままならなくなってしまった。彼の手が声が体温が、丸ごと包んでスポイルしていく。泣きたいと思ったけれど、哀しいとは思わなかった。
「あっ、」
 身体の中心線を電流が走り抜ける。指を噛んで声を殺そうとしたが、ロックオンの手がそれを阻んだ。
「いいから」
 良くない、と言いたかったけれど、肺からひっきりなしに息がせり上がってきて叶わない。横伏して向かい合っている彼の肩には、シャツがひっかかったままだ。それを剥ぐように逞しい肩に指を食い込ませると、間近で苦笑の吐息が漏れる。しゅ、と衣擦れの音がした。不思議なもので、動悸や呼吸は激しいのに気分は穏やかだった。ロックオンが脱いだシャツや、ロックオンが脱がしたシャツがベッドを滑り抜けて床に落ちる音すら正確に拾いあげる。
 身にまとうのがシーツだけになったところで、もう一度その身体に縋った。心得た彼は足まで使った全身で抱き締めてくれる。大きな掌が背を宥めるように撫で、唇や鼻先に口づけられ、額に頬が寄せられて、彼の帰宅を最初に知らしめた匂いに包まれた。
 呼吸は荒いし、鼓動は早い。視界だって生理的に分泌される涙でぼやけっぱなしだ。なのにどこまでも穏やかで温かい。撫でる掌に泣きたくなる。刺激というにはあまりに緩い感覚だった。胸や脇腹、太股をただ撫でられ、体温が徐々に徐々に高まっていく。
「ふっ、あ、あ、」
 張り詰めた熱の中心にロックオンの指が絡み、こればかりは穏やかではいられず、止める間もなく下肢が震えて吐き出した。引きつった声が咽喉の奥から溢れて脱力感が心許無く、涙が零れた。すかさずそれを柔らかい唇が吸い取る。腰を抱き込まれてさらに密着し、ロックオンの耳の下を探るように顔を埋めた。
 腰を曖昧に行き交っていた手が、下を探り出す。つ、と指先が埋まる感覚を、目の前にある肩に噛み付くことでやりすごした。そうして縋りつく背中を、彼の空いた腕が支えてくれる。指が進み、奥を探り、そして指が増やされた。徐々に徐々に、もどかしいほどの穏やかさと優しさに翻弄され、解きほぐされていく。指が引き抜かれると、縋りついていた身体も離れていくのがわかった。身体の内側に燻る熱を抱えながら、起きかけたロックオンの首に縋りつく。
「ティエリア、」
 困惑した声と共に腕を遮られるが、首を振って抵抗の意を示した。
「勘弁してくれよ」
 困った顔と困った声で、ロックオンはそう言うが、本気の望みならば彼は決して退けないことを知っている。肩に置かれた彼の手を無視して、首に回した腕に力を込めて身体を密着させた。上体を起こした彼の身体に乗り上げるような格好になり、下肢同士が触れ合う。互いの熱が伝わり、ロックオンの困惑の正体を今更ながらに悟った。
「ティエリア、」
「……いい」
「え?」
 耳をくすぐる困った声を心地良く感じながら、呟いた。
「このままでいい」
 揃えて乗り上げていた足をぐいと開いて、胡坐をかいたロックオンの足に跨る。彼の頭が胸の辺りに当たるので、包むように抱かれることは出来ない。代わりに背を丸めて、顎の下に彼の肩を挟むようにして、背中に回した腕で力いっぱい抱きしめた。腕の間にロックオンがいて、隙間が埋められたのだという実感を得る。
「ティエリア」
 語尾の落ち着いた声音。自分という個を明示するための標識でしかないそれを、ロックオンはとても多くのレパートリーで読み上げる。嗜める、呆れる、叱る、心配する。それらの中でも一番腹の底まで落ちてくるのは、こういう時の声音だった。
 背を抱く手に力が込められ、腰が持ち上げられる。慣らされたそこにぐ、と押し入られる感触。
「う……、」
 身体を支えようと、抱きしめた身体に縋るが、腕が掴んだのは自分自身の肘だった。違う、これじゃない。背に爪を立てて、胸と胸とを密着させ、鼓動を直に感じた。鼻先に彼の匂いがあった。反り返る背中は大きな掌に支えられていた。
 のめり込まれる感触。内臓を押し上げられて、内壁を擦られて、ロックオンの足に小刻みに揺さぶられて、身体の芯がぶれる。何かを噛んでいたかったが、ロックオンの肩は顎の下だった。大きく開けた口から、意図しないボリュームの声が溢れる。それはロックオンの仕掛ける揺さぶりと同調し、やがて嗚咽と混じって消えた。


 弛緩した身体をそのままロックオンに委ねれば、胡坐をかいた格好の彼は、自身の身体を前後させる。ゆらりゆらりと緩やかに一定感覚で揺れる動きは、背中を包む掌と身体の前後から伝わる体温と相まって、眠気を誘った。ゆりかごとは、そういうものだ。見たことはないが、そういうものだと理解はしている。
「食事とか、風呂とか、そういうのが先だと思ったんだけどなぁ」
 耳の下にある骨に、直接声が振動した。
「ティエリアがちゃんと答えてくれないから、手順が狂っちまった」
 おぼろげな頭で考えても、自分が何をしたのかわからない。そういう表情をしたのだろう、彼はいつもの、眉をわずかに寄せて笑って見せた。
「ただいま、ティエリア」
 背中には彼の掌があった。それは銃を持ちなれた所為で硬くなっていたが、温かく大きい。息を吸い込めば彼の匂いが鼻腔を支配する。跨った足や触れ合った胸からは、素肌の感触を通して彼の体温が伝わった。それらが与えてくれるものは安堵であり、彼が不在の間、自分を支配していた不安というものはもうどこにもない。
「お、かえり、なさい」
 掠れた声での不器用な呟きに、ロックオンはそれはそれは嬉しそうに笑い、その腕で抱きしめられた。大きな掌、懐かしい匂い、温かな彼の体温。ゆらりゆらりと揺れ続けるその中で得た眠りは、ひどく心地良かった。