基地の人間は、誰も彼もが僕のことをグラハムの付属品か何かだと勘違いしているようだ。僕が行ってもいない演習の、戦績データを唐突に手渡されてよろしくと言われても困る。
 むしろこうしてグラハムに会わねばならない理由が増えることで、付属品たらしめているのではないか。どうせ付属品扱いされるならば彼ではなく彼のフラッグの方がましだ。
 そんなことを考えながら彼のデスクのある部屋に向かうと、丁度見知った顔が一礼して出てきたところだった。僕はそれを見て驚きを隠せなかった。軍には似つかわしくない優男風の顔立ちはいつも通りだが、その頬が赤く腫れていたからだ。
 珍しいこともあるものだ。あの彼が、演習で何かやらかしたのだろうか。グラハムに適当に渡して戻ろうと思っていたデータに、良くない類の好奇心が湧く。
 一瞬、声をかけようか迷うが、口をつぐんだ。ここにいる人間は大抵それなりにプライドが高い。研究者として、エラー結果の解析はそれを修正するための大切な作業だ。しかし、僕個人としては人の失敗を肴にするほど歪んではいないつもりでいる。素知らぬ顔をすることにして、彼が姿を消したのを見計らい、部屋へと向かった。





 僕は大概婉曲な物言いを好むが、彼の前では極力直球を投げるよう努めている。理由は簡単で、彼にはそうしなければ伝わらないからだ。だから、今回もシンプルに本題だけを告げた。
「鉄拳制裁とは穏やかじゃないね」
 データの入った記録媒体を放り投げる。それは綺麗な弧を描いて、グラハムの手のひらに収まった。慣れないことをして気が立っているのか、僕を見る目に剣呑な光が混じる。
「何故それを?」
「さっきそこで彼とすれ違っただけだよ。お使いもしてみるものだね。珍しいものが見られた」
 彼は僕のからかうような物言いに、不快感をあらわにして睨めつける。彼のこういう潔癖さは嫌いではない。頬を腫らす部下以上に、拳の痛みに耐える上官はとても興味深い。それを知ったら彼はますます眉間の皺を深めるだろうが。
 彼の散らかったデスクの中のさして重要でなさそうな部分を払いのける。日付が一年前の資料と共に行き着けのドーナツショップの景品のぬいぐるみが落下した。少し前に僕がグラハムに押し付けたものだ。
 その空いたスペースに腰掛け、彼のデスクの辛うじて稼働している場に置いてある、パソコンを覗き込んだ。
 一度は彼に渡した記録媒体を奪い取り、視線で要求する。彼は渋面を浮かべていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……好きにしたまえ」
「隊長殿の許可をいただき、感謝するよ」
「構わんさ。どうせフラッグの整備にも使うのだろう? 整備をするごとに最新の演習データを参照して微調整する物好きに、こちらも少しは感謝しなくてはな」
 彼が口の端を吊り上げる。日頃の行いはこういうところで思わぬ見返りを得るものだ。それよりも、気付かれていたことに驚いた。半ば趣味のようなもので、専門家にしか分からないような微細な変更を加えているだけなのに。立場が異なるだけで、彼もまたフラッグの専門家だということか。
 記録媒体のデータを開き、頬を殴られていた男の名を入力する。コンピュータは膨大な人間のデータの中から、一秒もかからず該当のものを探し出してくれた。画面に表示された数字を見て、僕は息を飲まずにはいられなかった。
「完璧じゃないか」
 撃墜数もかかった時間も、ご丁寧に反応速度なんてものまで弾き出されていた。どれも標準を遥かに上回っていて非の打ち所がない。グラハムが苛立つ理由が、僕には少しも理解できなかった。
 彼を一瞥すると、また不愉快そうに眉を寄せる。アイスグリーンの瞳は、目の前の数字などもはや捉えてはいなかった。何か苦いものを、吐き出したい衝動を抑えて噛みしめているような顔だ。
「数字が全てを物語るとでも?」
「……どういうことだい」
「きみが彼を甘やかしてくれるからいけない。彼は機体性能に頼りすぎるきらいがある。演習ならば勝てるかもしれないが、実戦では――、」
 言いながら、床に落ちたぬいぐるみに向かってペンを投げる。単純なデザインの可愛らしいぬいぐるみは、緩い弧を描いたペンに貫かれて、顔を少し歪めたように見えた。バウンドして転がるペンをグラハムが拾い上げる。それを見て、不毛だなぁ、と僕は思った。
「私のような者に撃墜されるかもしれない」
 くるりとペンを回してそう口にする。大まじめな物言いに、思わず笑いを浮かべてしまった。こういうときのこんな笑顔を、グラハムは嫌うのだと知っていたけれど。
「君ほどのパイロットが、実戦でそういるとも思えないな」
「しかし、いないと断言も出来まい。殺されてからでは遅い」
「だから自分と同じレベルを要求するというのかい? どうしてそこまで…」
 問いかける僕に、彼は白々しい答えを口にするかのように、大仰に笑んで答えた。それはひどく傲慢な台詞だったけれど、彼ならば許される気がした。
「私ならば生き残れるからだ」
 彼が、勝てる、ではなく、生き残る、という言葉を選んだのが少し意外だった。軍隊という組織の在りようよりも先に、矜持を生きる糧にしているような男とは縁遠い言葉のように思えたから。
 縁遠いからこそ、彼なりに苦労してたどり着いたのであろう、不器用な結論に口の端をつり上げた。しみじみと言葉を噛みしめて、笑い声にして吐き出す。きっとこんな有様もグラハムは好まないだろう。考えれば、僕はグラハムに厭われてばかりだ。付属品など滅相もない。
「君は本当に、彼のことが大好きだねぇ」
 個人的な動機を指摘するよりも、いい隊長だと矜持を優しく撫で上げる方が相手は喜ぶだろう。だが、敢えてそれはしなかった。調整を甘やかしと片づけられてしまったことを、ほんの少しだけ恨んでいた。
 何より、年齢よりも幼い顔が戸惑うように表情を消すのが、僕は楽しみでならないのだ。だから僕は彼の望む言葉は決して与えない。厭われてばかりなのも当たり前だろう。





 唐突だが、僕は偶像崇拝を否定するわけではない。僕だけしか知らない彼の秘密に、彼の携帯端末の待ち受け画面がある。
 半ば形骸化しつつある軍規の一つに、『基地内の携帯端末の使用禁止』というものがある。恐らくグラハムはその軍規の存在すら知らない。だというのに、彼は律儀にそれを守っていた。
 それは彼が仕事に対して真面目であるとか、軍に対して忠実であるとか、それ以上にもっと単純な理由があった。他人に見せられないのだ。
 彼の待ち受け画面には、いつも彼の可愛いひとが収まっているから。しかもどうやら日替わりらしい。僕が知っているだけで、三種類は確認した。角度からして許可を貰って撮ったわけではなさそうなので、恐らく被写体本人にも知られていない。
 ハイスクールの女学生でもしないようなことを、24歳の軍人が平気でやってのけるというのも奇妙なものだが、僕は、地下墓地で神を崇める敬虔な信者のような彼を、微笑ましいとすら思っている。
 偶像崇拝を僕は否定しない。フラッグのコクピットに家族の写真を持ち込むパイロットもいるし、海軍兵が、潜水艦に恋人の下着を持ち込んで自慰をするのも同じだろう。
 しかし、今の彼はその崇高な秘密を無防備に晒していた。僕自身が綿密にチューンしたカスタムフラッグの横にしゃがみ込み、ぼんやりと携帯を握っている。今日の彼の待ち受けは、無防備な寝顔だった。
 ここで問題は二点ある。ひとつは、携帯を握っているのに何をするでもなく、待ち受けを晒したままであること。もうひとつは軍人でもない僕が、画面を悟られるほど近くにいるのに、彼が一向に気づく気配がないことだ。
 キーを押すはずの指は唯ボタンの微妙な凹凸を撫で上げていて、かといって待ち受けに見とれているわけでもなく、深緑の双眸は唯ぼんやりと開かれているだけだった。青信号の方がまだ感情があるような気さえした。そんな彼の顔を、立ったまま上から覗き込んだ。
「癒されるかい?」
「……ぅわっっ!!!」
 僕の声に、ワンテンポ遅れて反応する。しゃがんだままのけぞったせいで尻餅をつく。感覚が鋭敏な狙撃手には似つかわしくない、ボンクラの反応だった。隊長がもしここに居たらもう一発くらい拳を食らっていたかもしれない。僕は腕力では敵わないので、罰として、彼の手のひらからこぼれ落ちた携帯を拾い上げて観察することにした。
 モニタに映る寝顔は市販の携帯とは思えないほど鮮明に映っており、長い睫毛の一本一本までよくわかる。今にも触れられそうだ。どういうからくりを使ったのかは知らないが、恐らくこの寝顔の持ち主の仕業だろう。まさか、こんな変態的な用途に使われるとは夢にも思わなかっただろう。かわいそうに。
「相変わらず可愛いね。天使みたいだ」
「か、返してくださいっ!」
 素早い所作で僕の手にあった携帯がひったくられる。相手は座って、こちらは立っている。高さのハンデがあってなおの早さに、戦績データで見た数字を思い出した。しかし、鼻先を掠めた手のひらの、向こう側で見た顔は困惑に満ちていて、うっかり嗜虐心が煽られる。大切そうに携帯を手のひらで包み込む仕草なんて、特に。
 くすくすと笑い声を漏らすと、目をそらしてため息を吐く。ぱらりと茶色い癖毛の間から、腫れの引かない頬が覗いた。グラハムの部屋の前で見たときは痛々しいと思ったそれも、こうして見ると叱られた子どものようで可愛らしささえ感じた。
「……あの、」
「わかってるよ。秘密にしておくから」
 口火を切る前に先回りをする。それはそれで居心地が悪いのか、眉を寄せられた。ありがとうございます、という低い呟きには若干の照れが含まれていて、それもまた心地よい。普段はグラハムなんかよりもしっかりした部下だが、こと私生活が絡むと途端に可愛らしくなる。全く、人間とは分からないものだ。
「いいのさ。君を甘やかすのが僕の仕事だから」
 目を見開いた彼の隣にしゃがみこんで、腫れた患部を隠す長い髪をかきあげる。そうしてあらわになった頬に、そっと指を重ねる。疼く痛みに端正な顔が歪んだ。それを見て笑う。ペンに貫かれたぬいぐるみを思い出していた。同じだけ不毛だと思った。
「僕があれこれと手を加えるから、君が機体性能に頼りすぎてしまうんだって。酷いと思わないかい? 僕の仕事、全否定だよ」
 傷をなぞる僕の手にそっと彼の手が重なる。どういう手入れをしているのかは知らないが、軍人のそれとは思えないくらい彼の手は綺麗だった。この指先が数センチ動くだけで、多くの人間を屠ることが出来るというのに。
 僕の与える痛みを受け入れるように、彼がゆっくりと目を伏せる。長い息を吐いた。寝息のようだと思った。携帯電話に映ったあの姿を思い出した。一緒に暮らしていると似てくるというのは本当かもしれない。
「そういうことじゃ、ありませんよ」
 彼の指が僕の指に重なる。それから力が込められる。彼が口の端をつり上げる。己の傷を抉りながら。まるで律するようだと思った。
「あのひとは浮気が許せないんです」
「…グラハムがかい?」
 突拍子もない台詞に、思わず聞き返してしまう。同時に好んでもないのに居合わせてしまった、彼の数々の修羅場が頭を駆けめぐった。貞操とか浮気とかそういう概念が存在しそうにない男が、それを禁じるなんて笑い話でしかない。彼がそういう感覚を持ち得たとしたら世界はもっと平和だ。しかし彼は笑みを深めて、あろうことか、彼ほど一途なひとは他にいませんよ、とつけ加えた。
「分かるもんなんですね。最中に他の相手のこと、考えてるって。身が入ってないから相手に委ねてしまうんです。だけど、それでは二人で高みに昇りつめようとする相手には勝てない…」
「……機体を擬人化するの、やめてくれないかな。製作者としては複雑だよ」
 フラッグの操縦を神聖化する気はないが、それでもセックスのような即物的なものに喩えられると複雑だ。何より、自分がグラハムの愛の営みのために尽力していると考えたくない。グラハムのあの大仰な笑みを思い浮かべ、こめかみの辺りが鈍く痛んだ。
 そんな僕を見て彼はくすくすと笑う。腫れた頬が引きつって不格好なそれを見て、彼の笑顔をそういえば初めて見たのだと気づいた。
 気づいて、目を見開いたのが悟られたらしい。ばつの悪そうな顔をして、それから、笑みが苦笑にすり替わった。少し自虐の色も含まれていて、シニカルな彼らしい表情に戻ってしまった。残念な気持ちになる。直属の上官でもないのだから、遠慮せず笑えばいいものを。
「まぁ。つまるところ……俺の集中力が不足してたんです。色ボケてたんです。三日離れてただけで心配で心配でたまらなかったんです。あいつ、俺がいないとメシも食わないから!」
 懺悔をするようにもの凄い勢いで吐き出され、呆れる隙もなかった。やけっぱちに携帯の画面を睨めつけてはため息を吐くロックオンに、僕は何も言えずにいた。でもやっぱ可愛い、という独り言は、敢えて聞かなかったことにしておく。
パイロットを甘やかすのが僕の仕事ではあるが、今回だけはグラハムの味方をしてもいいのではないかと思った。彼のため息になんとなく、イライラした。理由はよく分からない。
「そういう甘えとか全部、見抜かれてました。なんだかんだ言ってもあのひとはすごいです。数字はごまかせても、あのひとだけは無理だ」
 携帯端末を握ったまま、背を床に投げ出す。彼らしからぬ無防備な所作に驚いた。まるで公園で芝生の上に寝転がるように遠慮がない。完璧な戦績。腫れた頬。刺されて歪んだぬいぐるみ。色々なものが頭に浮かんでは消える。すれ違っているようで、案外分かり合っているのかもしれない。この二人は。
 だから、僕がこれを言うのは、単なるお節介だ。
 勢いよく立ち上がり、寝ている彼の顔を覗き込む。前髪が重力に従って落ちて、額があらわになっていた。無防備な表情も相まって幼く見えた。
「彼はね、勝ち方は知っていても生き残るためのやり方は知らないんだ」
 グラハム・エーカーの武勇伝は枚挙にいとまがない。しかし、それは裏を返せば命を危険に晒す機会が多いということだ。率先して動くため、自らが安全な勝ち方を知らない。指揮官には向かないタイプだ。それゆえに、出した結論はとても彼らしいものだった。
「だから、君に勝つための手段を叩き込みたいんだと思うよ。勝てば生き残れると、彼自身が証明しているから」
 彼のしていることは無謀で、回りくどいことなのかもしれない。そんなことをしなくとも、効率の良い戦い方はいくらでもあるのかもしれない。そういう意味で彼はいい隊長ではないのかもしれない。けれど、僕個人としては彼なりの結論を尊重したかった。
 グラハムは、彼の配属当初、その経歴を見て誰よりも憤った。このような悲劇を生まないために我々は戦っているのではないかと、己の無力さを悔いていた。異国のありふれた惨劇にさえ罪悪感を抱く男だった。それを傲慢と笑うのもきっと正しいのだろう。
 けれど、彼の家に行った帰り道。グラハムの嬉しそうな横顔を僕は忘れられなかった。彼は独りではなかったのだな、と。ふと漏れた呟きには心からの安堵が混じっていた。
 グラハムが彼に拘るのは、彼が好人物であるだけではない。彼のような人物が幸福であることが、自分たちの存在理由であると本気で思っているのだ。それは傲慢で高潔な意思だった。
「君を、ちゃんと帰してあげたいんだ。君の帰る場所に」
 たとえば、彼が握りしめた携帯端末の中にあるような、平和な光景の中に。
 彼が戦いを選び、僕らがそれに頼っている事実を顧みると、ひどく矛盾した願いだった。それを偽善と嗤うのは容易いけれど。
 それでも、何処かで信じたいのだ。傷と血にまみれた人間でも幸せになれるのだと。
 僕は偶像崇拝を否定しない。僕にだって信じたいものはあるから。小さな家で寄り添い合う二人は、神に見捨てられた僕らの信仰だった。





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