それは閑静な住宅街が良い。治安が良くて、空き巣どころか押し売りのセールスも来ないような。緑が多くて近くには公園があるような。
 部屋数は二つで十分だ。あんまりあっても使わないで埃まみれになるのがオチだし。片方は狭くても良いけど、一部屋は広い方が良いな。そっちを寝室にしたいから。
 でもリビングルームは絶対必須。日当たりが良くて日溜まりができる大きな窓があると良い。キッチンは標準で。バスは広い方が……いや、溺れるからやっぱり標準で。あ、できればユニオン軍の基地から車で一時間圏内だったりしたら、嬉しいな。何かあったらすぐ帰れた方が安心だ。


 ささやかな条件のつもりだったのだが、不動産屋の営業マンはたっぷり2秒の沈黙の後に苦笑した。賃貸の一軒家に条件を付けすぎたのかと思ったのだが、今は訂正する時間がない。今日は予想よりも仕事が押して、基地を出たのは定時を一時間ほど回った辺りだ。さらにこの不動産屋に時間をかけてはいられない。
「とりあえず、この条件で探して見てくれますか? 近いものでも、見つかったら連絡を」
 椅子にかけていた上着を取り上げながら、俺は指定された用紙に家用ではなく携帯端末のアドレスを書いた。同居人にこの件を知られるには、まだ早い。俺の一存でことを進めている罪悪感もあった。二人で暮らすための家。本来なら二人で相談して決めるべきなのだろうが、エゴ丸出しで言わせてもらえば、俺はティエリアに出来上がった家を示してやりたいのだ。
 無条件に踏み入って我が物としても許される場所を突きつけて、あの切れ長の赤い瞳が見開かれるのを見たいのだ。そしてそんなティエリアを思い切り抱き締めたい。
「ただいまー」
 錆びて軋むドアを肩で押すように開けながら声をかける。同居人は上機嫌で帰宅した俺に振り返りもせず、パソコンに向かったままだ。すっかり慣れたもので、俺は上着も脱がずにそのすぐ隣に立ち、形の良い頭を一撫でする。少し力を込めれば細い首は素直に傾いで俺の方にもたれかかった。
「遅くなってごめんな。メシ食べたか?」
 肩にもたれた頭が小さな振れ幅で動いた。艶やかな髪がさらさらと俺の肩を滑り、固いジャケットをしゃらしゃら鳴らす。今日は遅くなると鍋の中のロールキャベツと共に言い置いたのだが、ティエリアは綺麗に無視したらしい。
「じゃあ腹減ったろ。すぐに食べような」
 もたれた頭のこめかみにキスを落としてから、俺はキッチンに向かう。シンクと狭い調理台しかない粗末なものだ。取り柄と言えば、料理しながらでも無口な同居人の動向を感じられる距離、すなわち狭さくらいだ。鍋を火にかけ煮立たせながら、俺はまだ見ぬスイートホームを熱望していた。


 しかし仕事と家事に追われる日々では、思うように時間は取れない。同居人が訝るので休日も家を空けることはできなかった。自然、俺は先に提示した条件を元に探し出された物件を、仕事帰りの短い時間に見るしかない。
「僕よりも、後ろで話を聞いていた事務の子の方が必死になって探してましたよ」
 担当の若い男はそう言って笑った。
 幸い、年齢の割には高く安定した収入を得ていたので、リストアップされた物件には全て対応できる。だが実物を目にすると難しいものだった。その場所でティエリアが寛いでいる姿を、上手く想像できないのだ。元々リアリティというか生活感に乏しい容姿は、素朴な一軒家での暮らしとひどくミスマッチに感じられる。
 程良い狭さで、程良く使い込まれ、閑静な住宅街にあり、日当たりが良いリビングルームがある家。だが、結局俺が決めたのはそんな家だ。そして仕事と家事の合間を縫って訪れた13件目の家の鍵を、俺はサインと交換で受け取ることに決めた。
「ここならお子さんともばっちりですよ!」
 笑顔でそう言いながら鍵を渡してくれたのは、事務職の制服をまとった若い女性だった。要するに俺は若い身空の男やもめに間違われたわけだが、思い返せばそう思われても仕方がない言動だったろう。彼女の笑顔と心遣いだけをもらい、その言葉は不吉な数字と共に苦笑して忘れることにした。
 そこは外観がまず気に入った。赤茶の屋根とベージュの外壁は見た目にも穏やかで、落ち着いている。築八年という、古くはないが真新しい白々しさもない趣が、オフホワイトの壁紙にはあった。キッチンが対面式なのもいずれ役に立つだろう。
 部屋数は二つ。大きな部屋にはダブルもしくはセミダブルのベッドを入れるつもりでいる。小さい方の部屋には、俺が拒否されたときとティエリアが拒否したいときの避難所代わりにする。あの狭いアパートの狭いシングルベッドで、全身を密着させるように眠るのは、嬉しくもあるのだが正直しんどい。うっかり寝違えてもしたら上官に何と言われるか分かったものではないし、気を許しきっているティエリアに対して、俺が昂ぶりでもしたら逃げ場がない。
 ティエリアは硬質な美貌もそのままに反応が薄くて、誘いかけても歓迎はしないで小さく頷くだけだ。拒絶もされないが、夜毎に足を挟み込むように絡みつかれては、庇護欲や愛情の堤防など容易く崩れ去ってしまう。
 明確に好意を告げられたことはない。ただ、ティエリアはぴたりと俺に触れたがった。俺がいなければ食べることも眠ることもままならないと泣いた。距離をゼロにしたがった。それに答える術を俺は間違えたのかも知れないと、今でも思う。だが、あの細い身体に生きることすら拒絶するほどの空洞を飼っているのだとしたら、その出口を与えなければならないと思ったのだ。生きるということを形で教えてやりたかった。ティエリアはそのことについて、恐ろしく不器用に見えたのだ。
 だから俺はティエリアに食事を作る。ティエリアが安心できるように寄り添って眠る。それでもティエリアが不安がったらティエリアを抱く。俺はティエリアが可愛かったし、好きだったのだ。
 そうした行動の一つの結果、上着のポケットには契約書のコピーとカードキーを入れた封筒が入っている。その重みにそっと手を添えながら、俺はアパートの錆びた階段を駆け上がった。





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