鉄製の階段を駆け上がってくる音が高く聞えて心臓が跳ねた。足音で分かる。ロックオンが帰ってきたのだ。一定のテンポで刻まれるそれが止んだら、28秒もすれば玄関の玩具のようなロックが外される。そして錆びた止め具を軋ませながら旧式の重いドアが開かれ、この部屋の主が入ってくるのだ。
 俺はいつも振り返るようなことはしない。全ては音で知覚していた。今も褪せた電子音が聞える。ロックが解除されている音だ。微かに聞える鼻歌はあの男のもの。ただ振動として鼓膜を叩いたそれは、なぜか耳の下をざわめかせた。血の流れが早すぎる。
「ただいま」
 呼吸ごと血を静めようと浅く息を吐いているのに、それを台無しにするような声が、過去のデータから取った平均よりも82分ほど遅れて入ってきた。いや、その声が指すとおり、帰ってきた。今度は血だけでなく、心臓がごとりと鳴るのが分かる。振り返ることなどできるはずもなく、モニターを見るともなしに見ていた。だが血が駆け巡る頭では、それは数字と記号の羅列でしかなく、跳ねる心臓を宥める効果は期待できない。ちなみに、この声が発せられる時刻の遅延と、入力した情報がエラーになる頻度が比例していることに気付いたのは昨日の事だ。
 いっそ目を閉じて耳を塞いでしまいたいと思う衝動を、伸ばされた手が綺麗に撫でつけた。大きな掌が肩を包み、その接触によって己の輪郭線をはっきりと自覚する。同時に強い脈動を続けていた振動は少しなりを潜めた。鼓動は続いているが、ずっと穏やかだ。
 こめかみに吐息が、次いで唇が触れる。鼻先をくすぐる彼の髪からは、外の匂いがした。空気中に散った砂塵の匂い。鼻腔に纏わりつき、肌がざらつくようなそれが、俺は大嫌いだった。なのに足音で大きく乱れた脈拍が、今こうして穏やかなものへと変わったのはなぜだろう。
 それは、湿気にも似ていた。風に巻き上げられた空気中の砂塵にも似ていた。眼には見えないのにべったりと肌に纏わりついて振り払うことが出来ないものだ。ロックオンが不在の間の焦燥感と、ロックオンが帰宅した時の動揺と、触れられた時の安堵と。全てがそれに起因しているのだと、おぼろげに理解していた。それに振り回されている自分に唾を吐きたい。だが、そんな俺の苛立ちをキッチンから漂うコンソメの匂いや、口元を拭う指先が傲慢に刈り取ってしまうから、俺は伸びきったゴムのように中途半端な伸縮を繰り返してしまう。
 そのことがまた、胸の奥でくしゃりと紙が握りつぶされたような痛みと焦燥を呼び起こした。けれどもそれを宥めるのもまた、ロックオンの指と唇、そして侵入してくる熱の塊なのだ。少し硬い指先の皮が擦れて熱を灯し、性感帯を刺激されて咽喉の奥から聞いたこともないような声が漏れる。最初は自分にもそういう身体機能があったのかと少し驚いた。
 侵入したペニスが奥を突き、自分にも射精感が込み上げてきたときには、全ての電源がカットされたような気分だった。視界が完全にブラックアウトする。だが、開放感と倦怠感で痺れた頭にも、閉じた瞼の上に落とされた唇は確かに感じられて、意識が落下するのを柔らかく受け止めた。
 その時感じた胸の蓋が引き上げられるような感覚を、何と言ったらいいのだろう。胸の奥に痛みと焦燥を抱えながらも酷く凪いだ気分で、身体中がべたついているのにそのままいつまでも籠もっていたくなる。
 結局、自分が飼い殺されていくのだということしか今の私には分からない。それがまた、私の空っぽの胸をどろりと満たした。いっそ私を捨ててくれればいいのに。


 額に触れた何かが小さく囁いた。
「いってきます」
 その声に一気に意識が覚醒するが、ドアが閉じる音だけが無情に響く。まくれた毛布から、かけられていたロックオンのジャケットが零れた。とりあえずそれを拾って裸の肩に引っ掛ける。昨夜、帰ってきて早々に脱ぎ捨てられたそれは、温もりすら残らない抜け殻だったが、微かに匂いが残っていた。
 また、胸がざわついた。紙が掌でぐしゃりと握りつぶされるような感触が胸のどこかでしている。腹の底が空っぽで、小さな車輪がその内側をごろごろと転がっていた。
 嫌だった。こんな、言葉や数式で表せない感覚に胸を苛まれるのも、それをあの指先や声や体温に宥められるのも。彼の不在に空虚を感じ、彼の存在に安堵するのは嫌だった。
 ―――好きだよ。
 痛みを感じるたびに彼はそう言って、指か唇かで触れてくる。それにまた胸が掻き乱され、栄養の摂取も睡眠も満足に出来ない。気持ちが悪かった。そこまで彼に依存している自分が。気持ちが悪くて無様で惨めで、いっそ殺してしまいたい。
 空調で適温に保たれているはずなのに背筋に悪寒を感じて、膝にかかった毛布や肩にひっかけた上着ごと、身体を抱える。昨夜の名残は綺麗に拭き清められていた。だからシャワーを浴びる必要もない。食事だって彼は用意してから出かけている。自分の身を包むものも、自分が摂り入れる栄養も彼に用意されたもので、自分が彼によって構成されこの形を保っているのだと感じて、吐き気がした。それは身体を許すこと以上に忌まわしい。
 近づくのだと彼は言った。近くにいるのだと彼は言った。ここにいると言って、僕の中に吐き出した。それを渇望し、離れれば飢える自分がいる。なぜ自分という存在にデリートキーが存在しないのだろう。纏わりつく生温い同情で飼い殺されるのは御免なのに、あの声を聞くと全てが麻痺して動けなくなる。
 出口の見えない思考に頭を振って、立てた膝に顔を伏せた。肩から上着が滑り落ちる。そこに、衣擦れ以外の音が混じって視線を上げると、上着の横に封筒があった。民間会社のロゴがプリントされているので、ロックオンの仕事と関わるものではないらしい。
 どうせ服を着るついでだからと、ベッドから足を出して立ち上がり、封筒を拾った。まだ覚醒しきっていない身体は脳の指令どおりには動かず、封筒から中身が零れる。フローリングを滑ったのは、カードキーと彼のサインがされた契約書だった。
 同情なんかいらないのに。
 ―――いっそ私を捨ててくれたらいいのに。






 俺が食後のコーヒーを出すのと、ティエリアが封筒を差し出したのは同時だった。見覚えのあるその封筒には、笑顔を向けてくれた女性職員の制服にプリントされていたのと、同じロゴが入っている。サプライズの目論見があっさり崩れたことは残念だが、躊躇がなくなったことはいっそありがたいかもしれない。
 俺がほんの少しの恐れを伴ってティエリアの表情を伺うと、それは無表情としか言いようのないものだった。出会った頃のそれに似ている表情だ。ティエリアはその端正さを崩さないまま、珍しくテーブルに座った。このテーブルに椅子が二つセットで良かったと心から思う。
「引っ越すのか?」
「へ?」
 真っ直ぐに見つめられて、俺は啜りかけていたコーヒーカップを慌てて下ろした。ティエリアは普段座っているし、手足を縮めていることが多いが、こうして正対するとそれほど小柄でもない。身長だって俺とそう大差はないだろう。
「カードキーと契約書を見た。引っ越すのか?」
「あー、ああ、二人じゃ狭いしな」
 赤い視線が真っ直ぐ過ぎて、俺はその意図を掴み損ねていた。だが、あの家を見たティエリアの驚いた顔を想像すると、自然と顔は綻ぶ。口調にもその浮ついた気分が滲んだのだろう、ティエリアは少し眉間に皺を寄せた。それが勝手に話を進めた俺への怒りか、はたまた照れ隠しか。その時の俺はそう考えていた。
「その必要はない。俺が出て行く」
 だからティエリアの言葉を、理解できなかった。
「なんだって?」
「同情は御免だ。俺はそんなものいらない」
 やはり理解できない。ティエリアがなぜ出て行こうとするのかも、同情というのが何を指すのかも。分かるのは、ティエリアがコーヒーにも手をつけずに席を立ったことだ。ティエリアに見下ろされるのは、そういえば初めてだった。
「ティエリア……!?」
「さようなら」
 その口調に、明確な訣別の意志を感じた俺は、椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。踵を返したティエリアはそのままドアの前までさっさと歩き去っていた。ほんの短い廊下を、俺は三歩で抜けてティエリアの腕を掴む。
「待てよ、同情って、」
「私に、触るなっ、」
 腕は振り払われた。勢いをもってそれなりに強く掴んでいたはずの腕が容易く払われて、初めて拒絶されたのだと知る。張り詰めた声はまるで少女のようだった。
 驚いている間にもドアは開き、隙間から外気が入り込み、薄汚れたアパートの壁が見えた。その隙間に飛び込もうとするティエリアの口を、俺は後ろから手を伸ばして覆う。
「ふっ……!!」
 顎に指をかけ、そのままぐいと引いた。ティエリアの身体はバランスを崩し、前のめりに重心をかけていた反動で後ろに倒れこむ。手を振り払おうと頭がもがいたが、もう片方の手で腰を抱えればティエリアは抗いようもない。しかしその細身から出ているとは思えぬ力に、ティエリアが今までいかに無抵抗で俺に抱かれていたのかを思い知った。振り払う力に抗って、ティエリアの身体から手を離さなかった俺は、バランスを崩して廊下に倒れこむ。ドアが閉じ、オートロックが作動する音がどこか遠くでした。


「嫌だ、さわるなっ」
 倒れこんだ時には反射的にティエリアを上にして、抱えこむように倒れたのだが、ティエリアは酷く神経質かつ機敏な動きで跳ね起き、再びドアを開けようとした。その腕を引っつかみ、引き戻して床に押しつける。もがく手は細い手首を掴んで一纏めにして床に縫い止めた。足掻く動きは足を重ねて封じる。
「離せ、離して、」
「ティエリア!」
 話もままならない激しい抵抗に、俺の声も高くなった。初めてと言える俺の怒鳴り声に、ティエリアの身体が一瞬竦んで抵抗が止む。
「同情って、何だよ」
「同情だろう、僕には何もないから、だからっ、」
 身体の下で、再びティエリアの腕が足が暴れ出した。この細い身体のどこにあるのかと思うほどの強い力が俺の手を振り払い、ティエリアの整った形の爪が俺の頬を抉る。びり、と走った痛みに一瞬視界が霞んで身体が浮きそうになるが、我武者羅に手を伸ばして今度は肩を押さえつけた。
 基点を抑えられれば、ティエリアの腕力では俺の体重を撥ね退けるのは難しい。とにかく鎮まったことに安堵して深く息を吐き、そしてティエリアの言葉を反芻した。
 好きだと言ったのに。繰り返し言ったのに、一つもティエリアに届いちゃいなかったのだ。それはエゴだと罵られるよりも遥かに堪えた。
「言っただろう、好きだって」
「そんなの知らない。あなたといると僕は弱くなる。あなたなんかいらない、あなたといるのはもう嫌だ!」
 どうしたら伝わるのだろうと考えていた。ストレートに好きだといっても通じなくて、全身全霊で示したはずなのに理解はされなかった。挙句、ティエリアはいらないと言う。
 俺といて弱くなるというなら、それはきっと俺がこの国に来てからずっと一人だったのと、同じ理由だ。喪うのが怖いのだ。自分が与えられる好意を。 
「そんなに嫌なら出ていけよ。振り払え」
 肩を掴んでいた手を離して、重ねていた上体を起こす。さっきの力があれば十分に抜け出すことの出来る余裕を持たせた。
「行かないのか?」
 呆然としているティエリアの腕を掴むと、尖った肩がびくりと震える。そんな怯えを振り払うように、乱暴にその腕を引き起こした。涙が伝う完璧な卵型を描く顎を掴み、赤い双眸が見開かれ、そこに自分が映ることにほくそ笑みながら、薄く開いた唇の隙間に舌を押し込む。緊張していたのか、口の中はカラカラだった。湿らすように舐めまわしてから唇を離すと、赤く腫れたそこが微かに動く。
「……あなたと、いるのは嫌だ」
「お前がいないのは嫌だ」
 小さな呟きに、俺ははっきりと答えた。そして、純粋すぎて歪んでしまった本音をキスで塞ぐ。
「嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ」
「俺は好きだ。ティエリアが可愛い。ティエリアが好きだ」
 ティエリアは自分にはなにもない、と言った。それが何を意味するのか俺には良く分からないが、少なくともティエリアは何も知らないのだ。好意が何をもたらすのか、胸を苛むそれが何なのか。それを教えてやりたくて、服の前を開いて露わにした胸に赤い鬱血を残す。すると真っ白な胸が大きく跳ねた。
「一緒なんか嫌だ、一緒になんていたくない」
「一緒じゃなきゃ嫌だ。出て行くなんて言わないでくれ。淋しくて死にそうだ」
 哀願するように胸に額を擦りつける。鼻先で内臓が収縮する音がして、額に感じる鼓動と共にティエリアが生きているのだと教えてくれた。
「なんで死ぬっ……」
「好きだから」
 顔を上げて、瞳を見つめてはっきりと告げた。それが果たして効果があるのかどうかは不明だが、視線を逸らして言うような真似は、決してすまいと思った。涙が滲んだ視線がかちりと絡むと、強張っていたティエリアの肩から力が抜ける。崩れそうになる身体を支えようと首から頬にかけて手を添えれば、さっきまでの抵抗など無かったかのように小さな頭が委ねられた。
「好きってなんなんだ。そんなの知らない。理由にならない」
 長い睫毛が伏せられる。何もない、と言った彼の言葉が思い出される。何もないなら、知らないと言うなら、俺に出来ることは多少はあるはずだった。
「それはこれから教えてやるから、もうちょっとだけ、一緒にいないか」




 目元を腫らしたティエリアに上着をかけ、手を繋いて古ぼけた狭いアパートを出た。車の助手席に座らせ、シートベルトを着けても呆然としたままだ。ただ、運転しながらも俺は左手をティエリアの膝に置かれていた手に重ねていて、ティエリアもそれを振り払いはしなかった。
 小一時間かけて郊外まで出て、住宅地を進むと赤茶の屋根が見えた。ベージュの外壁に寄り添わせるように車を止め、ティエリアの手を引いて車を降りる。キーを通してドアを開けると、そこにはがらんどうの空間があった。
「ここで暮らそう。勝手に決めて悪いけど」
 握っていた手を伝って肩を抱き、耳の下にティエリアの小さな形の良い頭をぴたりと付ける。
「ここでなら、好きっていうこと教えてやれると思うから」
 ずっと垂れ下がっていた手が俺の背中に回り、服の上からでもはっきりと痛みを感じるほどに強い力でしがみつかれた。爪が皮膚に食い込むのは、ティエリアが他に求める方法を知らないからだ。手を重ねて指を引き剥がすと、そっとしたつもりでもティエリアの身体が強張るのを感じた。逃がさないように手を掴み、指を伸ばさせてから俺の背中に当てる。空いた手でティエリアの肩や背中、そして髪を何度も撫でた。すると鎖骨の辺りにティエリアが頭をもたせかけ、心地良い重みと温かさを感じる。
 一週間後、俺たちはこの家に引っ越して暮らし始めた。その途端、ティエリアは通販で大量の買い物をし、その費用を心配した俺に、貯金残高がありえない数字の口座を示した。俺はそれを見なかったことにしている。
 ちなみに彼が一番に購入したものは俺が持っていた物よりも数倍ごついパソコンで、予備の寝室にと考えていた小さな部屋は一日でそれに占領されてしまった。それでも構わないと思えたのは、例え日中その部屋に引きこもっても、眠る時は新調したセミダブルのベッドがある寝室に来てくれるからだ。
 

 仕事を終えた俺は車を走らせて家路を急いでいた。今日も可愛いあの子が、俺たちの家で俺の帰りを待っている。