帰りたい。
 会うまでは絶対に帰るまいという誓いは、早くも破られようとしていた。
 実際に行動に移してはいないからそう言うには大げさかもしれないが、少なくとも、オレの頭の中は帰りたい気持ちで一杯だった。故郷の片田舎から都会に出てきたおのぼりさんの気持ちを、今更になって理解する。都会で生まれ育ったので、本当に今更だ。
「…どーすんだ、コレ」
 その原因を作ったのは、両腕でも抱えるのに苦労する大きなテディベアだった。スーツの男が街中でこれを抱きかかえて歩いている様は思った以上に周囲の注目を買うらしく、通り過ぎざまに無遠慮な視線が遠巻きに送られる。
 会いに行くには手みやげが必要かもしれない、と確かに思ってはいた。だから菓子店の並ぶ通りに足を踏み入れた。しかし、そこからどう間違えれば巨大なテディベアに変わるのか知りたい。オレの記憶が正しければ、入ったのは玩具屋でも何でもない、唯のドーナツショップだったはずだ。
「ロックオン! ロックオン・ストラトス! 偶然だなぁ!」
 そこで、髪の長い男を連れた、やたら声のでかい男に会ったのだ。アイスグリーンの瞳と金髪の癖毛は幼い印象を受け、通りのいい声とちぐはくに思える。肩に手を置かれ、満面の笑みを浮かべる親しげな様に、どちら様ですかと聞けない雰囲気を感じた。
 いや、本当のことを言えば聞いても良かったのだが、耳慣れない名前の方が気になった。それは彼の居場所を突き止めるときに手に入れた資料に載っていた、現在の彼の名だったのだから。
 目の前の男は、オレの知らない彼を知っている。彼がこの国でどのように過ごしてきたのかも。彼のことを知りたいと、強く思った。その意思が否定の言葉を飲み込ませた。彼と間違えられるのは十年ぶりだったが、それでもごく自然に知っているフリが出来たことに驚く。幼い頃、よく遊びでやっていたことを思い出していた。引っかからなかったのは家族くらいだった。二人だけの秘密の遊びだった。
「父親になったそうだな! 実にめでたい」
 ―――妻子持ちかよ。
 のっけからの爆弾発言に笑顔のまま凍り付く。それでも表情に出なかった自分を誉めてやりたい。彼の知人が童顔の割に老けたしゃべり方をするなんていうどうでもいいことが気に留まったのは、きっと彼の発言から思考を逸らしたかったからだ。
 家族を、つくったのか。彼が。
 彼はオレよりもずっと優しいひとだから、きっと幸せな家庭を築くだろう。それはとても素晴らしいことだ。永遠に傷を引きずって生きることなんて無理なことだし、誰も望んでいない。彼はきっと正しいのだ。
 家族を、つくったのだ。オレでもない。父さんでも母さんでもエイミーでもない。誰か別の人と、新しい家族を。オレにとって彼はたったひとりの家族だけれど、彼にとってはそうではないのだ。
 何やってるんだ、オレは。
 仕事を放り出してまで知らない国に来て失った家族の残滓を追い続けることに、何の疑いも持たなかった。彼がここで家族を作って、名前まで変えて、すべてを忘れて生きているというのに。
 帰りたい。
 強固だった筈の誓いが早くも揺らぐ。目の前の男の馬鹿でかい声も、屈託のない笑みも中に届かなくなる。皮膚一枚で笑って頷いてはいるが、それだけだ。何も聞こえない。見えない。足下から崩れていく感覚がして、ここがどこかも分からない。
 ―――そんな状態のオレを引き戻したのが、とてつもなく大きなテディベアだった。気が付いたら目の前にあった。
「手みやげにこれを持ってくといい。少しは父親らしいことをしたらどうだ」
 テディベアが喋った、ように見えた。その肩口から子どものような笑顔が覗く。その屈託のなさに乗せられて、差し出されたそれをつい受け取ってしまった。金髪の男の連れが驚いたように目を見開き、本当にいいのかい?と問うたが無視をした。頭を下げてその場を去る。そこまで、ほとんど無意識の行動だった。
「それは私からの祝いだ! おめでとうという言葉を、きみと、きみの可愛い女神に謹んで送らせて頂こう!」
 店を出る手前で、背中越しに声がする。たかだか祝いの言葉を口にするだけで、随分と回りくどい言葉選びをする男だと思ったが、その声はとても晴れやかで心地よい。少し話しただけでも奇妙な印象は拭えないが、悪い人間ではなさそうだった。テディベアなぞこんな場所で貰っても困るが、決してからかいや困らす意図をもってしたのではないことだけは、なんとなく分かったのだ。
 そして、善意からであるだけに無碍にするわけにもゆかず、こうしてオレは途方に暮れているのだった。
 帰国するには邪魔だが捨てるのも申し訳ない。しかし、どんな顔をして会えばいいのかもわからない。しばらく抱えたまま街を歩いたり、助手席にテディベアを乗せて飛ばしてみたり、向かいに座らせてコーヒーを飲んでみたりしたものの、どうにも面白くない。観念して、彼の自宅に向かうことに決めたのは、貰ってから四時間後のことだった。我ながら時間のかかったものだと思う。





 それは閑静な住宅街の中にあった。治安が良くて、空き巣どころか押し売りのセールスも来なさそうな。緑が多くて近くには公園があった。ひどく穏やかな場所だ。
 てっきりアパートかマンションかと思いこんでいたのは、オレがそうだからに他ならない。しかし考えれば、妻子を持っているのならば一戸建てでもおかしくはないのだ。思い直したときに胸が鈍く痛むのを感じた。
 土産を脇に抱えて運ぶのは意外と大変で、ベルを押すのに苦労した。お陰で迷う暇がなかったことだけは幸いだった。ここに来る前に会ったら何を言おうかと、散々シミュレートしてきたのに、知らない人間の唯の一言で吹っ飛んでしまった。別に彼女でもあるまいし、家族があろうが彼であることには変わりないのに、どこかで裏切られたように思う自分が嫌になった。街で幸福そうな家族を見かけたとき、ちりりと感じる痛みをどこまでも大きくしたような感覚につきまとわれていた。
 玄関のドアが開く。
「あ、…」
 オレが第一声をきちんと言葉にするより先に、ドアの奥から叫び声が漏れ聞こえた。
「ティエリア、何やってンだお前!!!!!!」
 それは聞き間違える筈もない、切望してやまなかった彼―――ニールの声だった。しかしそれに感情が揺さぶられる前に、別のものに上書きされてしまった。目の前の光景に目を見開いた。正確には、ドアを開けた人物に。
 髪の芯までずぶぬれで、ところどころ廊下に水滴が落ちているのを見た。そんなところにまで目が留まるのは、無意識に視線を逸らそうとしていたからだろう。水滴をたどって、まぶしいくらい白い脚が視界に入った。裸の足先から足首、ふくらはぎ、膝、太ももまでたどりついて我に返る。そこでぱっと目をそらし、紅茶色の双眸をのぞき込んだ。意識がはっきりしていないのがこちらにも伝わってくるような、ぼんやりとした目がじっとこちらを見ている。
 ずぶぬれの半裸にシャツ一枚というインパクトを更に強めるのは、その造形の美しさだった。人形のような、どこか硬質な印象を与える美貌は、常ならば見る者にある種の緊張感を与えるのだろう。しかし大きめのシャツを羽織っただけの有様はひどく無防備だった。
 この人は妻なのか子なのか。観察してみたがよく分からない。妻というには若すぎる気もするが、子にしては育ちすぎている。それ以前に性別からして不詳だ。とびきりの美人だが、こんな薄着なのに胸の辺りが淋しいし、おまけに身体もでかい。オレよりも少し低いくらいではないだろうか。ドアを支える腕を包む、袖口が雑に折られているのに気が付く。案外適当な性格なのかもしれないと、どうでもいいことを思った。
 言い訳をすると、予想外の出来事にオレも混乱していたのだ。決してわざとではない。それだけは言っておきたい。かといってこの行動が許されるわけではないのだけれど。本当に謎だったのだ。目の前の相手が。それ以外に他意はない。
「…ッ、失礼!」
 観察をしてもとても答えが出るとも思えなかった。だから、テディベアを放り出して一番手っ取り早い方法をとってしまった。
 即ち、彼の胸元に手を伸ばすという方法を。
 ボタンはぐちゃぐちゃに掛け違えられていて、幼児のそれより酷い有様だった。その辺りに曖昧に手を当てる。
「…何か」
 しかし『彼』はとりたてて反応する様子もなく、ぼんやりと自分の胸を一瞥して、呟いただけだった。想像していたよりも低い声に驚いた。指先の淋しい感触にも驚いた。すべてを見透かしそうな赤い目をしていた。そこでようやく我に返るが、既に声が出なかった。相手よりも遥かにオレの方が動揺し、混乱していた。オレが出来たのは辛うじて薄い胸から指を離すことだけだ。
「あ、あの…」
 言い訳のしようもない状況で、混乱しきった頭で言い訳の言葉を探すことほど愚かしいことはない。もう完全に通報され帰国まで覚悟した。相手の身体越しに、一番会いたかった人間にだけは直接見られなかったことは救いだった。
 しかし内心の懺悔は、幸か不幸か神に届くことはない。
 ―――目の前の美人が白いものに食われたからだ。
 オレはそのとき、先週見たパニック映画のワンシーンを思い出していた。街中に突然現れたモンスターが、街の人を次々と食らいつくしていく。逃げ回る女を後ろから丸飲みにする、その映像を思い出した。実際は頭からシーツをかけただけなのだが、一瞬で包み込まれて担がれてしまったのでそう見えたのだろう。
「すみませんもうホント! 風呂、そう風呂入ってたもんで…ははは」
 そして、彼が近づいてくる。オレに気が付くまでそう時間はかからなかった。
 外向けの笑顔が消えて、深緑の双眸が見開かれる。忘れられる筈もない、よく似た顔だった。オレはテディベアを担ぎ上げ、彼は担ぎ上げた美人を支えるのにいっぱいいっぱいだった。一瞬だけ薄い胸の感触も忘れた。
 そんな感じの、再会だった。





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