無性に、煙草を吸いたいと思った。
 しかし目の前のテーブルには灰皿も用意されておらず、灰皿代わりに出来そうなものもない。昔の彼を考えると嘘みたいに、整頓されている部屋だった。男は家庭に入ると変わるのだ、という言葉は都市伝説ではなかったらしい。
「ほら、ボタン開けっ放し。しゃんとしなさいティエリア」
「ん、」
 灰皿どころか埃一つ見あたらないテーブルの、その向こう側。彼は美貌の同居人のシャツのボタンを一つずつ留めていた。その口調は父親や夫というより母親のそれに近い。ボタンよりももっと言及すべき部位は、先ほど彼が同居人を飲み込んだシーツに覆い隠されていた。目のやり場に困るということがなくなったことだけは幸いだ。
 長い指が白いシャツの第二ボタンまで留めたところで、彼が口を開こうとする。恐らくオレが予想していた言葉だったのだろうが、それよりも先に無防備な身体が彼の膝の上へと倒れ込む。まるでスイッチが切れたような、容赦のない倒れ方だった。
「あ、こら! 部屋戻ってろって…」
「眠い…」
 彼の抗議など、膝を占拠されてしまった今では後の祭りだ。覚束なかった赤い瞳は伏せられ、すらりとした長い足がソファに収まるように縮められる。その所作はひどく幼い印象だった。
「ばか、起きろ」
「やだ…」
 芯のないその言葉が最後だった。何度も揺さぶってみるが、もう反応はない。やがて彼の瞳が申し訳なさそうにこちらに向けられたので、慌てて口の端をつり上げてみた。ああ、本当に煙草が恋しい。
「いいよ、そのままで」
 すやすやと寝息を立てている様をどうにかするのも可哀相だったし、強く言えない借りもある。何より二人きりの場の空気に耐えうる自信がなかった。逃げたくなる気持ちを奮い立たせるために、特大テディベアの腹を叩く。ぼふんという柔らかい音は間が抜けていて、それでも勢いになった。
「これ、土産。あ、その…同居人の子にでも」
 必死で言葉を探すオレがおかしかったのか、彼が顔をほころばせた。膝の上にある丸い頭を軽く撫でつける、その手つきは本当に優しくて見とれた。
「ティエリアってんだ。…戸籍上は、俺の息子になんのかな。ちょっと変わった奴でさ。驚かせて悪かったよ」
「養子なのか」
 血縁があるとはとても思えない造形と年齢差に問いかけると、彼は僅か瞳に迷いを見せた。少しの沈黙があり、その間もずっと膝の上の頭を撫でていた。彼の唇が動かないでいる間、穏やかな寝息が静寂を飾る。それは場違いにも思えたが、ともすれば重くなりがちな空気を和らげた。やがて、彼は口許をほころばせて言う。
「本当は、結婚できれば一番良かったんだけど。こいつと家族になるには、それしかなかったから」
 彼の手が、くたりとソファの端からこぼれていた左手をとる。そこには揃いの指輪があり、二つしかなかった選択肢の一つが正式に潰された。そして更に言葉の意味を考える。呼吸をする度に上下する胸にやはりふくらみはなく、シャツからはみ出た手は細いが骨張っていた。そうであるなら、こちらにかけられた低い声にも指先の淋しい感触にも納得がいく。彼が口にするのを迷った理由も。
「好きなんだ、その子が」
「…ああ」
 そう言ってまた、髪や頬を慈しむように撫でる。頬の輪郭から唇にまで辿り着いたとき、んん、と鼻にかかった息を吐いて少年が撫でる指を緩くくわえ込んだ。幼さとセクシャルな匂いを同時に感じ取れるようなそれに、彼は少し目を見開いただけで抗わない。ふたりの距離の近さを感じて、口の端をまたつり上げた。
「幸せそうにしちゃって、まー」
「…兄貴をからかうな」
 頬を赤らめて抗議するくせに、膝の上から手を離すことはしない。それが多分無自覚なのだろうことがおかしかった。顔を合わせたときに言おうと思っていたこと―――大概は彼に会うための言い訳なのだが―――が、悉くどうでも良くなっていくのを感じる。彼に家族がいた、と知ったときのように、距離を感じないわけではなかった。だが一方で、彼の幸せな姿を見て安堵する自分もいた。
 きっとどちらも嘘ではない。そういうことを全て含め、オレはどうしようもなく会いたかったのだ。この男に。
「なんか、色々言いてえことあった気がすっけど…もうどうでもいいや」
「はぁ!? 何だよそれ」
「別に? ロックオン・ストラトスさんが幸せならもう何も言うことありませんよオレは」
 今の名で呼んだのはほんの冗談のつもりだった。しかし、ふっと彼が表情を消したものだからこちらが戸惑ってしまう。その有様が淋しそうに見えたのはオレの自惚れだろうか。それを秘かになら喜んでも許されるだろうか。
「ニールでいい」
 同じ色の瞳がまっすぐにこちらを見つめる。何もかも変わってしまったように見えて、その目だけは十年前と何も変わらなかった。
「ニールって呼べよ。昔みたいに」
 彼に、新しい家族が出来た。彼にとってオレはたったひとりの存在ではなくなった。
 けれどそれが何だと言うのだろう。何を不安に思っていたのだろう。オレが、彼の家族だという事実は何一つ変わらないのに。血を分け合ったたったひとりの兄弟で、大切な家族。まだ、そう思い続けて良いのだと許された気がした。そう思うと不覚にも感動してしまい―――気付かれぬよう目をそらした。
「ニール……兄さん」
 懐かしい響きは十年越しでまだ馴染むこともなく、そうやってようやく言える。そのときのオレは多分、年甲斐もなくひどい顔をしていた。それを見てニールが笑う。いたずらっぽい笑みは写真で見たそれに良く似ていた。
「照れンなよ、馬鹿」
「うっせ」
 紅潮する頬を振り払うようにして強引に視線を合わせる。ニールは相変わらず笑っていて、けれど先ほどのからかうような表情とは少し違っていた。やさしい笑い方だった。茶化した後にこんな顔をするのはずるい。不意を突かれてつい見入った。
「久し振りだな、ライル」
 そして、彼の言葉で、一番はじめに言うべき言葉を忘れていたことに気付く。用意した言い訳のなかにもなかった。当たり前すぎて気が付かなかった自分がおかしかった。口の端をつり上げ、ようやくで口に出来る。何よりもここから始めなければならなかったのに。
「久し振り、兄さん」
 口にした言葉は遠回りで、しかしそれだけに特別な響きがあった。ようやく会えたのだと実感できた。ニール・ディランディ。双子の兄。
 ―――オレの唯一の家族に。





 目が覚めたとき、頬にやわらかな感触が触れた。指で辿って確かめると、長い毛足にくすぐられる。身じろぎをすると沈むのが心地よくてしばらくまどろんでいると、深緑の瞳にのぞき込まれた。そして、いつもの穏やかな声で囁かれる。
「気に入った?」
 頬にやわらかい感触を押しつけたまま頷くと、それは良かった、と口の端をつり上げる。その笑い方がいつもと少し違うような気がしたが、意識がはっきりとしていないせいで良くつかめないでいた。
 ぼんやりとしたままシャープな顎の輪郭に触れると、相手が身じろぎをするのが分かる。それに構わず唇をなぞり、強請るようにすると首が振られた。代わりに軽く頭をなでつけられる。いつもの彼とは違う不器用な触れ方と、ほのかにこぼれてくる苦い匂いに初めてはっきりとした違和感を覚えた。
「あなた、は…」
 問いかけても相手は唯笑っているだけだ。その笑顔は、かたちは確かにロックオンなのに、はっきりと名前を呼ぶのは何故だか躊躇われた。分からなくなって、考えることすら面倒で、もう一度眠ってしまおうかと思った矢先に奥から人影が現れる。そういえば眠りにつく前に誰かが来た気がしたのを思い出した。一瞬だけ身を固くする。
「お前、何やってんだよ!」
 しかし奥から出てきた相手も、目の前にいる男と全く同じ顔をしていた。慌ててソファへと駆け寄ってくる。同じ顔がふたつ並んだ。
「いや、なんか可愛くて」
「…余計なことしてないだろうな!」
 耳元でがなり立てる相手がうるさくて、同じ顔が並ぶのが奇妙で、きっとこれは夢だと思った。寝返りを打ち、毛足の長いやわらかい側面に顔を埋める。追って身体にかけられた毛布の重みに彼がいるのだと感じた。が、もう既に眠気が勝っている。
「いや、これヤバいなー。可愛いしおまけにエロい」
「…お前冗談でも叩き出すぞ。国に帰れ」
 私が聞き取れたのはそこまでで、意識がどんどん曖昧になっていく。追って頭を撫でられる感触だけを拾った。その触れ方はとても優しくて、彼のものだという確信があった。それを合図にして瞳を閉じた。



「夢だと思われてるな、絶対」
 オレの土産のテディベアを抱きしめて眠る少年を眺め、ぽつりと呟く。目が覚めたときの反応が楽しみだが、今のところは良しとしよう。何より、オレの冗談のせいなのか、毛布から浮かび上がる少年の尻のラインをずっと気にしている彼がとても面白い。そんなに気になるなら最初から下を履かせておけと思うのだが。
 彼は昔から変なところで迂闊だった。料理だって決して下手ではないのに肝心なところで目を離すからジャガイモは煮くずれるし、テストで名前を書き忘れて0点を取ったのも彼である。ちなみにオレはそのとき名前しか書けなくて揃って居残りだった。懐かしい思い出だ。
「なあ兄さん、ずっと気になってたんだけど」
「…なんだよ」
「この子、はいてんの?」
 それが唯の下衣についてでないことは、彼も分かっているようだった。むきになって反論してこないどころか、頬が僅かに赤くなっている。それだけで答えは充分だった。
 こちらまで気恥ずかしい気分になり、秘かに外で宿を取ろうと決意した。いくら双子といえど、双子だからこそ、踏み込んではいけない領域というものはあるのだ。
 ティエリア少年が寝返りを打ち、その拍子に毛布が大きくずれる。隙間から見えた足にうっかり釘付けになってしまったために、毛布の位置を直した彼に殴られた。ぐーだった。
 出会い頭を見られなかったことだけはつくづく幸福だと思った。