小さな箱のなかには紫煙が充満していた。不安定な照明もあいまって、空気に一枚セロファンを通したようにぼやけている。細波のように起こるざわめきが高まって起こる笑い声は、隅まで伝染してひとつのうねりになる。
 肌をざらりと撫でるようなこの雰囲気にまだ馴染めず、空になったグラスの底に残った氷水を吸う。大分薄まってしまったレモネードは喉を突くには足りず、曖昧な香りばかりが鼻についた。
 溜め息をつく横で、何度目かわからない笑い声が起こる。視線だけそちらにやると、彼がまたグラスにウイスキーを注ぐのを見た。今まで空にしたグラスの数を数える限り、普段の飲酒量と比較するまでもなく、アルコールの過剰摂取と言えた。相手の状況を伺うことも難しい、不安定な照明がもどかしい。
 またどっと笑い声が起こって空気が震えた。その中心には彼の声があり、それだけを無意識に拾った自分の耳に軽く呆れた。その声は確かに明るかったが、明るいだけでひどく空疎だ。いつもの彼の声に混じる穏やかさはなく、どこか切迫してひりひりとしていた。

 世界のあちこちで小競り合いが繰り返され、規模は大きくないものの、派兵の回数が増えていた。それが仕事だから、と彼は上手に割り切ってみせるようで、その実疲弊しているのが感じ取れた。
 彼は強く穏やかな性格をしていたが、同じだけ優しかった。彼を評して、ああ見えて繊細だからね、と友人は笑った。だから、一緒にいてあげて、と付け加えられ、何を今更と思ったものだが、その言葉の意味が今になって分かる。
「飲み過ぎだ、ロックオン。もう…、」
「見て見て」
 意を決して袖を引くと、不意に肩に手が回される。彼の陰にひっそりと隠れていた筈が、急に中心に持って行かれて身が竦んだ。いくつもの、酒気を帯びたとろりとした視線に身体を舐められるような心地さえした。視線で咎めても、彼は気づかないのか、その振りをしているだけなのか、こちらに目を合わせようとしない。その癖、肩を抱く手のひらばかりが力強いのだ。
「これ、俺の」
 アルコールのせいで伸びきった声。それでも胸をざわめかせるには充分すぎた。彼が私を自分に属するものだと、何度言っても納得してはくれなかったし、私を自由にしたがった。所有することをまるで罪悪のように感じているのは最早病の域だ。
 だから、酒によって理性を剥がされているとはいえ、彼がそのように私を表すことに動揺せずにはいられなかった。周囲の人間の茶化すような笑い声も殆ど耳に届かないでいる。アルコールを摂取してもいないのに、言葉を受け入れた部位が熱くなる。そのせいで、新たにグラスへ注がれるウイスキーへの反応が遅れた。失態だった。
「お前がここ以外で女作ったのって初めてじゃねえか」
「うるせえ。酒なんて使わなくても美人は口説けンだよ。なぁ?」
「え…、」
 唐突に話を振られて困惑する。胸の辺りに疼く痛みを感じた、気がしたが、その由来がよくわからなかった。いつもの、異物として排除されるような疎外感と思ったが、それよりも深く暗い痛みだ。
 どこからか漏れてくる、もう相手してくれないのね、という甘い声を不意に耳が選び取って、それに上機嫌に応える彼の声を繋いだ。それだけのことなのに、頭の端が白く焼き切れて何も見えなくなる。
「…ロックオン」
「んー……ぅ、」
 グラスから離れたばかりの顎をとらえて口づけると、一瞬だけ場の空気が固まった。構わずに舌をねじ込んで、彼の唇を強引にこじ開ける。溜まっていたウイスキーをこちらに流し込み、口内の粘膜が摂取しかけたそれらもぬぐい取るように、口腔を舌でなぞった。
「…んぅ、ふ」
 不意打ちに呼吸の仕方を忘れた彼が、苦しそうに息をする。口の端からそろそろとウイスキーがこぼれ落ち、彼の顎に触れる指先を濡らした。人差し指の第二関節の辺りまで落ちてきたところで、ようやく唇を解放する。吸い出したアルコールが舌先に苦く残った。
「これで満足か?」
 唇を濡らす酒と唾液を拭い、呆然とこちらを見ているロックオンを睨み付ける。未だ呆気にとられて凍りついた空気に、叩きつけるように次の言葉を重ねた。
「もういいだろう。行くぞ」
 ロックオンの腕を強引に引き寄せ、人だかりから背を向けようとした。酒気を帯びた盛り上がりに捕まってしまう前に、彼をこの場から連れ去りたかった。
 しかし、椅子の支えを失った途端に、彼の身体がぐらりと傾ぐ。それほど強い力で引いたつもりもないのに。予想外の事態に息を呑み、下敷きになることを覚悟した。
「おっと、」
 しかし、身体に接触する直前で彼の身体が踏みとどまる。立て直したのかと思ったが、彼の肩越しにひょいと覗く人影がそれを否定した。不安定な彼の上体を、まるで荷物でも扱うような所作で支える。ぞんざいにすら思えるそれはかえって慣れを感じさせた。
「酔っ払いには気をつけないと危ない」
 人なつっこい笑みには酒気の浮遊感がなく、この場で異質なくらいのしっかりとした身振りに安堵する。バーテンダーという役割を考えれば当然のことなのだが、それでもこの場では救いとすら思える。
 彼は、古くからの従業員で、リヒティと呼ばれていた。ロックオンが初めてこの店に来たときには既に働いており、私が初めてここに訪れたときから何かと気にかけてくれている。酒場に似合わない幼い笑顔の男だった。
 しかし、その屈託のなさとは裏腹に、店の隅々にまで注意を怠らない。それも仕事なのだとロックオンは言い、驚かされた。ただ飲料を提供するばかりではなく、場にいる人間ひとりひとりに気をやらねばならないなど、途方もない。
「大丈夫? 手伝おうか」
「…あなたの仕事は、」
「いいのいいの。これも仕事のうち」
 笑みを崩さぬまま、ロックオンの上体を支え直す。カウンターの向こうにいる別の従業員に目で合図した後、有無を言わさぬ勢いで店の外へ運んでいった。周囲もさして注意を払わないということは、珍しいことではないようだ。
 リヒティの後を追い、駐車場にあった一台の車へ駆け寄る。やはり無造作にロックオンを後部座席に放り込んだ後、自身も運転席へと滑り込んでベルトを締める。その所作が自然すぎて、反応するのが遅れた。そんな私を促すように、ハンドルを握ったまま視線だけを向けられる。
「乗って。新しいニールの家、知らないんだ」
「……あ、あなたにそこまで面倒をかけるわけには、」
「気にしないで。よくあることだから。まぁ、ここまで酔うのは珍しいけど」
 何があったんだか、と苦笑する横顔を見て、つきんと胸が痛んだ。
 ここのところ、彼が毎夜うなされているのを知っている。そのくせ目が覚めると、何かを埋めようと必死に笑うのだ。フラッグに乗らない私には、彼の痛みの由来は分からない。こうして酒で薄めずにはいられないほどの苦しみを、ひとりで抱えている。そんな彼を見るたびに無力感に苛まれていた。
 私は彼のものだと言い、彼はそれを受け入れた。けれど、それでひとつになれるわけでもない。近づくたびに、他人なのだと思い知らされる。それでも傍にい続ければ、いつかは家族になれるだろうか。彼が欲してやまなかった存在に。
「家までは、いい。近くの宿泊施設まで運んでくれれば充分だ」
「オーケイ。懐かしいとこ連れていってやろうか、ニール」
 問いかけに彼が何かを答えた気がして、軽く目を見張った。聞き慣れない呼び名は間違いなく彼のものだ。私の知らなかった頃の。全てを失う前の彼の名だ。あの店でだけ使われるその響きは、いつも少し彼を遠くさせる。過去は過ぎてしまった情報に過ぎず、所有することも適わない。永遠に触れられないそれがもどかしく、彼らが好んで使う「なつかしい」という言葉は私の胸を掻いた。
 わき起こる痛みをごまかすように、窓の外へ視線を放る。後ろへ流れていく景色を見ながら、ロックオンも同じ景色を見たのだろうかと思った。広がる闇の向こうで明滅する明かりを数えながら、何を考えていたのだろうか、と。
「難しい顔、してる」
 不意に話しかけられ、慌てて向き直る。軽く視線だけをこちらに遣って、リヒティは続けた。
「何考えてたの?」
「…彼の、ことを」
 不意打ちは卑怯だ。誤魔化す暇も与えてくれない。彼が眠っていてくれることを願った。
「嗜み程度に……」
「嗜むんだ!」
 慌てて付け加えた言葉はかえって逆効果だったらしく、運転席から大きな笑い声が漏れる。そんなに大きな声を出して、ロックオンが起きてしまっては困るのに。そろそろとバックミラーに目を向けて、映っているものが変わらないことに安堵した。ついでに自分の顔を見て、眉間に皺が寄っていたことに気付く。これでは相手も怪訝に思うかもしれない。
「よかった。警戒されてるのかと思ったから」
「警戒? 何故…」
 問い返すと、今度はリヒティが目を丸くする。予想外の反応に首を傾げていると、すぐに苦笑にすり替わった。道路沿いの照明が、いつもの屈託のない笑みに光の筋を残していく。
「こんな無防備なひとを連れてくるなんて、何考えてるんだろう」
「……おい。聞こえてンだよ、バカバーテン」
 そのときだった。突然、声と共に腕がリヒティの背後に伸びて、陽気な唇を塞いだのは。運転席のリヒティが身を竦ませたのがこちらから見ても分かる。不意打ちにもハンドル操作を誤らずに済んだのは、ひとえに彼の経験のたまものと言えた。
 首を傾げると、酔いの醒めていない深緑の双眸とかち合う。そこに宿る光が鋭いように見えるのは、アルコールのせいだろうか。照明が少ないせいだろうか。心臓が跳ねるのがわかった。
「運転代われ。ったく、余計なことしやがって」
「……彼に、宿泊施設まで運ぶよう頼んだのは私だ。第一、その身体で運転は無理だろう。おとなしく寝ていろ」
 一瞬、萎縮した自分を奮い立たせるようにきっぱりと言い返す。しかしロックオンは不機嫌を隠そうとしないまま、眉間に皺を寄せてため息を吐いた。
「お前、分かってンのか」
「…何が、」
 後部座席の彼を睨め付けて、問う。しかしそれ以上の言葉はなく、少しの沈黙の後、ロックオンが切り捨てるように呟いた。
「勝手にしろ」
「そうさせて、もらう」
 こちらの様子を横目で伺っていたリヒティに軽く頭を下げ、促す。それ以上誰も何も言わず、車内は静けさを取り戻した。先ほどの酒場の喧噪が嘘のように重く、呼吸のひとつひとつすら意識できるような。

 そんな時間がしばらく続いて、車はひとつのモーテルへ入っていった。リヒティは眉を寄せ、ロックオンは耐えきれずに溜め息を吐き出し、私だけが分からなかった。そのときに感じた重みは、ニールにまつわるそれに似ていた。過去の匂いがするものはまだ少し怖い。
「ちょっと、悪いことしちゃったかな」
 店に戻ろうとする直前、リヒティがぽつりと呟く。一足先に下車をしたロックオンを一瞥してのことらしいが、こちらにはその意味も分からなかったし、彼が厚意でしてくれていたと分かっていた。
「そんなことはない。感謝している」
 頭を振って数枚、チップを握らせる。ロックオンが時折こうしていたことを思い出したからだ。相手は拒んだけれど、受け取ってもらわないわけにはいかなかった。与えられたことに対して適正な対価を払うのは礼儀だ。自分がその対価を払いきれていないから、余計にそう思う。
 遠ざかっていく車のランプを暫く眺めた後に振り返る。ロックオンは看板の辺りをぼうっと眺めていた。恐らくこんな横顔を、なつかしいと呼ぶのだろう。どのように声をかけていいのか分からず、黙って指先を絡めるしか出来ない。
 やがて、握りかえしてくれるぬくもりだけが全てだった。彼の痛みも、記憶も、心も充分には触れられないでいた。それでもこの手を離す気はなかった。今の私にはこれだけしかないから。






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