喉にせりあがってくるものを白い洗面台に吐き出す。喉から熱と、嗄れた蛙のような声が漏れて、アルコール臭のする吐瀉物が漏れた。蛇口をひねり、それが排水溝に流れていくのを見守る。軽く口をゆすいでからそろそろと顔を上げた。鏡の向こうで、死んだような緑の目がこちらを睨めつけていた。
 手を伸ばし、ゆっくりと鏡の中の右目に触れる。以前失いかけたそれは、まだなんとか俺の眼窩に収まっていた。早期治療が功を奏したのだのだ、と医者は言っていた気がしたが、言われた当時は他のことに気取られすぎていて、あまりよく覚えていない。
しかし、失いかけたのは確かなのだ。何事もなかったように見えても。もしも怪我をした場所が演習場でなくて、派兵先であったなら。もう少し深く抉られていたら。右目を、失っていたのだ。そう思うとぞっとしない気分になる。
 そもそも、ここでこうして生きているのも、数多くの幸福が重なったに過ぎない。どう取り繕っても、殺し殺されることを生業としているのには変わらない。手が震えていた新兵はその約束を交わした次の日に自殺をした。それもまたひとつの選択であることには変わりないが、やりきれない気分は残っていた。
「体調はどうだ」
 声をかけられて、初めて鏡にもう一人映っていたことに気が付く。心配そうに下げられた眉尻にちくりと胸が疼く。本当に自分のことしか見えていない、余裕のなさに呆れた。鏡に置いていた手を離し、どうすべきか一瞬だけ迷う。一人にして欲しい、と言えば、彼はきっとおとなしく引き下がってくれるのだろうが。
 少しの迷いの後、手招きをした。あからさまに安堵を隠さない相手に、また胸の痛みが増す。
「最悪だ。気分も、身体も」
「飲み過ぎたんだ。少し、落ち着いた方がいい。あなたらしくない」
 優しい言葉と共に背後から抱きしめられる。静かな声音とは裏腹に、抱きしめる腕は切実で力強い。まるで必死でつなぎ止めようとするような所作だった。腹の前に回った手のひらは震えていた。思い出したくないものを思い出した。
「……俺らしいって、なに?」
 意地の悪い問いだと分かって口にした。顔を見ないままに問いかけると、接している身体が身じろぎするのが分かった。震えている手に自分のそれをそっと重ねて、輪郭をなぞる。震えをなだめようと優しく撫でても、彼の緊張は解けない。
「単に、お前が知ってる俺ってだけだろ」
 一方で追いつめる言葉が漏れる。背中で息を詰めるのが分かった。その音を聞いて言い過ぎたことを自覚したが、何かが外れてしまって押しとどめることが出来ないでいる。こんなもの、唯の八つ当たりに過ぎない。分かっているのに。
 それなのに、彼を傷つけると分かって引き寄せてしまう自分に反吐が出た。鏡に映った男はひどく醜い表情をしていた。それでも止められるはずもなく。
「…何も知らねェくせに」
 優しく撫でていた手のひらを強引に外し、絡みついた身体を引きはがす。そのまま華奢でうすい身体を壁に押しつけると、尖った肩が壁にぶつかる音とともに、あからさまに傷ついた紅茶色の瞳とかち合った。胸から疼痛が滲む。しかし一方で、確かに胸のすく思いがした。残酷な衝動だ。彼の純粋さを、粉々に砕いてやりたいと、思った。
「…ティエリア、ここがどこだか知ってる?」
 ティエリアが帰ってきた俺のことを案じてくれているのは知っていた。気分転換に飲みにでもいかないか、と誘ってきたのは彼だ。彼がアルコールで気分を紛らすタイプではないこと、あの場所ではいつものように彼を構いきれないこと、そのせいで彼があの場所のことをあまり好きではないことも、知っていた。それでもなおそうして声をかけてくれたのだから、よほど俺はひどい顔をしていたのだろう。
 よくできた子だ、と思う。なんだかんだ言って、俺のことをいつも一番に考えてくれている。そういう彼だから好きになったのか、俺がそうさせたのか、境目などもう分からない。
 普段は救いにしかならないそれが、今はひどく腹立たしい。俺がそれに値しないという自覚があるから、煩わしくてたまらないのだ。彼の見ているロックオン・ストラトスなど虚勢に過ぎず、本当のニール・ディランディは唯の矮小な男なのだと、突きつけてやりたくなる。いっそ捨てて欲しいとすら思う。その純粋な愛し方は手に余る。
「モーテル…」
「ああ、そうだな」
 戸惑いがちな瞳を無視して、シャツのボタンに手をかける。欲を隠す気のない触れ方に反応して彼の身体が震えた。きゅっと握りしめられていた手のひらが、胸を強く押し返そうとする。しかし、力ではこちらに適う筈もない。彼は結局のところ、俺の意志を通してしまうのだから。
「だめだ、休まないと…」
「いいから」
 かみ合っていない会話を承知で、身をかがめてさらりとはだけた白い胸にくちづける。目を見て言う気にはなれなかった。きつく吸ってついた鬱血のあとが、残酷なほど綺麗だ。
「ここはこういうことするための場所なんだよ。あそこで酔った女を持ち帰って、ヤるの。男と来たのは初めてだけどな。…あ、バカバーテンがいたか」
 からからと笑う俺をよそに、ティエリアの身体がびくりと跳ねる。構わずに腹の辺りに手を這わし、その下のスラックスをくつろげた。下着をずらし、その奥のものに直に触れると、上でひっと息を詰める音が聞こえた。まだろくに刺激もしていないせいで僅かに反応しているだけのそれを、ゆっくりと扱いてやる。
「前ここに来たときは、さっきあそこにいたブロンドの女かな。ちょっと太めだけど、その分出るとこも出てたから楽しかったな。ナカの具合も良かったし」
「…ロックオン、いやだ」
 絞り出すような声に口の端をつり上げる。それとは裏腹に、刺激に反応して先端から溢れてくる液体を根元まで塗り込めてからくわえ込んだ。なまぬるい口腔に包まれて、また大きく身体が跳ねる。バランスを崩しかけた身体を腰の辺りで支えながら軽く吸うと、とくりと波打って自身が一気に質量を増したのがわかる。唾液と腺液をたっぷりと混ぜて、うすく引き延ばすように舌でなぞると、それだけで白い喉がそった。目が合わないとわかって初めて顔を上げられる。口から外して続けた。
「その前はスペイン系の若い子。家出したって言ってた。まだ10代だったと思うぜ。お前みたいに、いろんなとこ、薄くて、ちょっと痛がってて可愛かった」
「や、やだ…やめて」
「なんで? こんなぐちゅぐちゅなのに?」
 強く握りこんでやると、悲鳴のような嬌声が漏れる。尖った顎からぽとぽと雫が流れ出ているのを見て、彼が泣いているのだと知った。彼のことはなんでも分かっていたから、彼がどうすれば酷く傷つくのかも知っていた。そしてそれを望んだ。その先のことなんてもうどうでもよかった。
 手放さないと決めたのに。幸せになろうと決めたのに。簡単なことで揺らぎ、傷つく。俺の決意など所詮その程度だ。手に入れるのは難しいのに、手放すのはひどく容易い。縋り付く先の見つけられない彼の手に、指輪が光っていたのを見た。
「あ、あ、あぁ…っ」
 先端に爪を立ててやると、その刺激で自身がまた波打った。床を汚すのが嫌で、くわえ込んで吸う。やがて観念したようにあふれ出したそれを、強引に飲み込んだ。生臭さと苦みの伴うそれは、硬質な人形めいた美貌とはかけ離れていて、彼のなかに隠れた生々しさを実感させられる、気がした。
「はぁ、はぁ…は、」
 浅く繰り返す呼吸の音だけが響く。欲が冷めてようやく、苛立ちがなりを潜めた。自分のものが解放されたわけではないので、まだ下腹部には熱が滞るが、先ほどまでの切迫した激情は収まっている。
 ティエリアは、達した余韻でずるずると壁にもたれて座り込んでいる。その前にしゃがみこんで、整った輪郭を撫で上げた。さきほどとは異なる穏やかな触れ方に驚いたのか、快感でぼんやりとしていた目が見開かれる。そこに笑いかけた。まだざらつく舌先もそのままに口を開く。
「先に帰る?」
 逃げ場を用意した、といえば聞こえがいいかもしれない。婉曲な拒絶でもあった。
 謝るのも違う気がした。けれどこのまま傍に置いては、相手をいたずらに傷つけるだけだ。欲が冷めて、それを望んでしまっている自分を押しとどめる。相手にも傷を押しつけるのは単なるエゴに過ぎない。どうすれば優しくできるのかもわからなかったし、それが出来ないのなら遠ざけるべきだ。
 ティエリアは哀しげに目を眇めた。それを見て今更に罪悪感が疼く。感情のままに手ひどく荒らして、傷つけた。それだけが事実だった。いっそ捨てて欲しいと願ってそれをしたのに、実際にしてしまうと後悔する。どうしたいのか分からない。
「…いい」
 戸惑いがちに視線を逸らすと、不意に腕が伸びてきた。肩の辺りを包み込むように、不器用に抱きしめられた。お互いに座り込んでいるせいで、いい位置を探るように身体が動く。それをしながら、彼が囁く。
「ここにいる」
 胸が跳ねた。どういう顔をすればいいのか分からず、彼の肩越しの白い壁をぼんやりと眺めていることしか出来ない。こういうときの彼はとても従順で、俺の意思を尊重しようとする。俺が彼を遠ざけるなら、彼もまたそれに従うだろうと思っていた。回ってくる腕は全くの予想外のものだった。
「なんで、」
「あなたが私を傷つけるときは、あなたが、ひどく傷ついているときだ」
 しゃがんでいた下半身が落ちて、床に座り込む形になる。そこでようやく抱きしめる形を見つけたのか、彼の腕が全身を包み込んだ。形の良い指が頭を撫でてくる。その触れ方の穏やかさに泣きたくなった。
「そういう酷い男だと、知っている」
「なんだ、それっ…」
 強引に笑おうとし、声が上擦る。つんと痛んだ鼻の奥を慌てて抑え、目を逸らそうとする。しかし、逃すまいと手がのばされた手のせいでそれは適わず、やがて口づけが与えられた。触れるだけのそれは欲の匂いがない。ただ、感情だけが乗っていた。なだめるようなそれだった。
「ちゃんと、知っている。あなたのことくらい」
「…ごめんなさい」
 頬に、額に、鼻に、キスを受けながら、自然に言葉がこぼれ落ちた。まつげにふっと吐息がかかり、彼が笑っていることに気付く。距離が近すぎて焦点を合わせるだけで精一杯なのに、その表情から目を離すことが出来ないでいた。
 彼がこんな風に、落ち着いた笑みを浮かべると気付いたのはごく最近だ。全てを知り尽くすほどに時間を共有しているはずなのに、また新しいことに気付く。限りがないほどに。
「あなたは何も知らないと言うが、あなたも私のことを知らないだろう」
 頭を撫でていた手がぴたりと止まり、そのまま頭を固定する形になる。目を閉じないまま赤い瞳が近づいて、もう一度触れるだけのキスをされた。その穏やかさとは裏腹の言葉が、続けられる。
「……ブロンドを殴ってやりたい」
 唐突すぎて一瞬何を言っているのかわからなかった。物騒な台詞に言葉を詰まらせていると、更に重ねられる。
「家出女をあなたが拾わなくてよかった。私で、よかった」
 ティエリアの表情から笑みが消える。今までまっすぐに見つめられていた目がついと逸れて、その代わりに腕の力が強くなる。片手がシャツを強く掴んで、何本もの皺が刻まれた。ちぎれそうなほどの強さだった。
「あなたに言われながら、そういう、薄汚いことを考えていた。止められなかった」
 再び頭から背に手が回り、抱きしめられた。滲む体温は泣きたくなるくらいに優しいものなのに、肩口に降る声は痛みを伴う。その乖離に声を失う。ただ、彼の言葉を聞いている。
「私も、ひどいんだ。あなたと同じだ」
 ティエリアのその言葉が、俺を引き上げるための励ましだとはとても思えなかった。戸惑いと痛みの入り交じった力のない声は、彼が自身の感情を持てあましている証明になった。
 彼はひどく純粋だったから、こんな風に誰かへの嫌悪を表に出すことはあまりない。隊長へのあれは第一印象から起因するものであり、心から厭っているわけではないのだから。
 その理由にまで思い至り、背筋がぞくりとする。ティエリアの変化が手に取るように感じられる。それが嬉しかった。感情にまかせて抱きしめ返すと、腕の中の身体がびくりと震える。それをなだめるように言葉を重ねた。
「いいんだよ、それで」
「…いいのか?」
「ああ。ひどくて、いいんだ」
 背を撫でるとティエリアの身体から力が抜けていく。そこで拘束を緩め、身体を離すと視線が重なった。誘われるように自然に唇が重なる。今度は触れるだけでは終わらず、粘膜まで辿り着いた。
「んん、」
 熱く濡れたそこに舌を滑らせると、鼻にかかった息が漏れるのを聞いた。ティエリアとは違い、完全に熱を吐き出したわけではない俺のそこは簡単に高ぶってしまう。密着しているティエリアには恐らく感づかれているだろう。その証拠に、背中に回っていた彼の手が足の間を彷徨っている。
 危うさを覚えて、粘膜を貪る間もなく唇を離した。ティエリアは途中でおもちゃをとりあげられた子どものような顔をして、見開かれた目でこちらを見つめる。その顔を見ていると続きをしてやりたくなるが、これ以上すると止まらなくなりそうだ。
 もの言いたげな唇から唾液を拭ってやってから、唇をつり上げる。欲にけぶった表情を押しつぶすのに苦労した。
「続きは家で。帰ろう。な?」
「なぜ、」
 頼むから、そんなあからさまに傷ついた顔をしないで欲しい。可愛くて抱きしめたくなるから。もっと、それ以上のこともしてやりたくなるから。理性を総動員させて、その衝動を押しとどめる。ティエリアにとってはくだらないことなのかもしれない。それでも俺にとっては、譲れないことだったのだ。
「ここではしねえよ。お前は特別だから」
 我ながらしゃらくさい台詞だと思ったが、効果は絶大だったようだ。白い頬を染めてふいと視線を逸らすその仕草が可愛すぎて、危うく理性が負けそうになった。帰ったら覚悟してろよ、と胸中で呟き、容赦するつもりなどさらさらない俺は、やはり酷い男なのだろう。















 十四で家族を喪ってからもう十年になる。幸い大学を出たあとは自分の技能を活かす仕事に就き、年齢の割には良い収入を得ている。商社勤めなどとても向いているとは思わなかったのだが、この年齢この出自でそこそこ稼ぐことが出来たのだから、適性はあったのかもしれない。同僚や上司にも恵まれていて、本当に、素晴らしい環境でオレは生きていた。
 休職の届け出をしたのも、職場に不満があったわけではない。周囲は色々なことを口にしてオレを引き留めようとしてくれたが、どうしても譲れなかった。十年間探し求め、見つけることが出来ずに諦めていたものが、ようやく指先に引っかかったのだ。このチャンスを逃したら、一生後悔する。そう、思ったから。

「…やっと、会えるんだ」

 意図せず吐き出した呟きは、思った以上に低い響きをしていた。緊張しているのかもしれない。無理もない。十年も会えなかったのだ。正直、どんな顔をして会えばいいのかも分からない。
 国を発つ直前に引っ張り出した古い写真は、手帳の隙間に挟まっている。それは十三の誕生日に撮ったものだった。幼いオレと、同じ顔をした兄が幸福そうに笑っている。この頃は、その幸福がいつまでも続くと信じていた。
 胸に滲み出た疼痛を振り切るように手帳をとじて、使い慣れた鞄の中に放り込む。大丈夫。取り戻せる。そう自分に言い聞かせ、車のエンジンを掛けた。
 もうすぐ、会える。
 その事実は、少なからずオレを高揚させた。そのためだけにわざわざこの国まで来たのだから、なんとしても会わなくてはなるまい。
 ニール・ディランディ。
 双子の兄。
 オレの唯一の家族に。