端末のアラームが23:00ちょうどを告げ、アナウンサーの教科書通りの発音をかき消した。イブニングニュースが本日のアザディスタン関連の報道をするのはしばらく後だろうが、予約録画のタイマーは既に設定してある。ニュースサイトに上がっている情報は既に閲覧済みで、恐らくそこから大きな変化はないだろう。現地で隊長の身分にある人間が脳天気な電話を出来るくらいなのだから。
 問題ない、と結論づけてソファの上の毛布を身体に巻き付ける。目蓋の裏からにじみ出す照明の明るさが気になりはしたが、じきに慣れるだろう。ビリーは消しても構わないと言ったが、どうせ電話が終われば、彼が居間に戻ってコーヒーを淹れに来ることは経験上分かっていた。それならば明るさに慣れる努力をした方が現実的だ。
 食事と睡眠を忘れずに摂ること。ビリー・カタギリの手を煩わせないこと。機密情報には決して触れないこと。
 出立前までに合計して42回も告げられたせいで、いい加減飽いてしまった彼との『契約』を思い出す。一つ目は今のところ問題なくこなしている。二つ目は、怪我をさせてしまったので減点だろうか。三つ目は――、
 耳に小型のイヤホンを差し込む。イヤホンの繋がれた端末にカードを差し込み、再生ボタンを押した。
『飯は済ませたか?』
 耳慣れた低い声が矢継ぎ早に問いを投げかける。アザディスタンの回線がしっかりしていないせいで、音質があまり良くない。343時間27分11秒ぶりだというのに、開口一番これだというのが気にくわない。イヤホンを更に押し込み、音量を上げる。じっと身を固くして、漏れる声に耳を傾けた。
『ちゃんと寝れてるか? 泣いてない? 大丈夫か?』
 先ほどの電話ではこの辺りで怒鳴りつけてしまった。そのせいで、彼とは会話らしい会話もろくに出来なかったことになる。それも、かような幼児のごとき扱いをされては仕方がなかった。彼は俺を一体なんだと思っているのだろう。ビリーも言っていたように、こちらはどう転んでもアザディスタンよりは安全なのだ。それなのに。
 本当は、聞きたかった。自分だって。聞きたいことはたくさんあった。
 けれど、残ったのはこの五分足らずの通信データだけだ。内容はともかくとしても、外部に持ち出すどころか録音すら禁じられているような立派な機密である。契約違反だと知ってはいたが、罪悪感よりも欲求が勝ってしまった。彼が関わることになると驚くほど自分を制御出来なくなる。
 貴方がいなくとも全く問題ない。貴方など必要ない。
 笑わせる言葉だ。以前のように日常生活に支障が出なくなっただけで、気がつけば相手の残滓を探している。使いさしの目薬、飲んでいた飲料水のキャップ、本に挟まっていたしおり、切れたストラップ。そんなものを集めて握りしめたって何もならない。分かっている。アザディスタン関連の報道を録画し編集するのだって、五分ばかりの音声データを繰り返し再生し続けるのだって。
 これを恋と呼ぶのならば、恋というものはどうしようもなく不可解で浅ましい感情だ。無意味なものを並べ立てて、僅かな安心を得ようとする。労力への対価があまりに少なすぎる。分かっていても止めることが出来ないから質が悪い。出来ることと言えば、せめて相手に悟られないようにするくらいだ。
『飯は――…』
 飽きるほど繰り返し聞き続けているうちに、部屋の隅のレコーダーが薄闇の中で赤いランプを灯した。もうこんな時間になっていたようだ。定刻通りに眠るはずだったのに、眠気が一向に訪れなかった。そういえば昨晩よりも心音の数が多い。頬に触れてみると、体温も多少高いようだ。体調でも崩したのだろうか。
「そんなもの聞いてたら、興奮して眠れなくなるんじゃない? ティエリア」
「……ぁ…ッッ!!!!」
 不意に耳許へクリアな音声が飛び込んだ。押し込んでいたイヤホンが外れた――というよりも、外されたといった方が恐らく正しい。反射的にソファから身を起こし、イヤホンを取り返そうとしたが遅かった。端末ごと奪われ、長いミルクティーの髪の奥の方へイヤホンがねじ込まれる。興奮のあまり声を失って空疎に動く唇の奥で、一万回死ねばいいのにと心底呪った。
「いつ録音したの? あんなに気をつけてたのにまんまと一杯食わされたなぁ、あっはは」
 高らかな笑い声。就寝準備をしていたせいで手元に武器がないのが憎い。仕方なく枕代わりにしていたクッションを投げつけるが、腹の立つ笑顔は少しも歪まない。百万回死ねばいいのに。
「………………何故気づいた」
 隠蔽は完璧だった。少しの痕跡も残さなかった筈だ。ビリーは耳からイヤホンを外しながら、とても嬉しそうに言った。
「そうだね、完璧だったよ。僕はとても気づかなかった」
「ふざけるな! 現にこうして…」
 反論の言葉を楽しくて仕方ないという口調で切り返す。一千万回死ねばいい。本当に死ねばいい。全身全霊をかけて呪った。
「でもね、グラハムが言ったんだ。君は絶対さっきの会話を録音してるはずだから、一度チェックしてみるといいって。そしたら当たっていたってわけさ。野生のカンって怖いね!」
ビリーが笑い出す横で、頭が真っ白になった。野生のカンなどという想定外のものを持ち出されては対抗策が取りようもない。思考回路があの野生動物にも劣るような男に見抜かれていたことも屈辱だ。あの男は今ロックオンと共にいる。もし。あの男がもし口を滑らせでもしたら――。
「死にたい……」
 想像が暴走し容量を超えた。力無くソファに再び倒れ込み、身体を丸める。天井を仰ぐと、ソファを覗き込んでにやにやと僕を観察しているビリーと目が合う。本当に、視線だけで人を殺せたらいいのに。むしろ自分自身を。
「あ、録画始まったみたいだよティエリア。テレビ点ける?」
 何事もなかったようにさらりとモニターのスイッチを入れる。報道番組を録画していたことにもとうに気づかれていたようだが、今更噛み付く気にもならなかった。毛布を中途半端に膝に掛けながら、のろのろと身体を起こす。ビリーはソファの後ろからテレビを覗き込む。アナウンサーが緻密な発音でニュースを読み上げる。その横で、フラッグが空を翔ている。
「残念。ロックオンの機体は映っていないようだ」
「それはもういい。黙っていろ」
 映っていたとしても一介の民間人に教えられるものでもあるまい。繰り返し流される、同じような映像の中から、あれこれと想像するしか術はないのだ。このテレビに映る風景と自分とは、どうしようもなく遠い。少しだけ繋がった彼の声がまるで奇跡に思えるくらいに。
「まるで、自分の息子の晴れ舞台を見てるようだよ」
 所詮兵器に過ぎないそれを、彼はとてもいとおしそうな目で見つめる。何も生み出せない僕にはその目の意味がよくわからない。それが大量にヒトを殺しに行く意味も、それをつくりあげる彼のいつくしみも。ロックオンなら、グラハムならそれが分かるのだろうか。そう思うと少し悔しい。自分だけが遠い場所にいる。
「あれは、唯の兵器だろう。兵器に感情移入をするよりも、グラハム・エーカーの要求通り、生身の女と然るべき手続きを踏む方が幾分か建設的だ」
「……君が、それを言うかな」
「あいにく俺は今、機嫌が悪い」
 意趣返しの皮肉は、思うより効果的だったようだ。腕と足を組んで軽く背を逸らす。ビリーを睨めつけるが、彼は相変わらず穏やかに笑うだけだった。その穏やかさを以てして、更に言葉を続ける。
「それは無理だねぇ。僕たたないから」
 笑顔で返された言葉の解釈をするのに少しの時間が要った。アザディスタン関連の報道が終わり、アナウンサーがでは次のニュースです、と話題を転換する。用済みになってしまったテレビのリモコンに触れることすら忘れていた。
 睨めつけるのをやめてそろそろと様子を伺うと、驚かせちゃったかな、と白々しい言葉で片付けられた。こちらの動揺を楽しそうに見つめる様は恐らく確信犯で、腹立たしいと思いながらも驚きの方が勝ってしまうので何も言えなかった。
「グラハムはフラッグと結婚してるようなものなんだから、それで満足してくれないかなって思うんだ」
「………グラハム・エーカーはそれを、」
「さすがに、知っていて言うほど無神経ではないだろうね、たぶん」
 優しげな口調にゆっくりと逃げ道を塞がれていく気がした。言葉が次第に重みを増していき、反応に困るばかりだ。にじみ出る困惑を隠せず、ビリーはそれを楽しんでいるようで、ますますどうしていいのかが分からなくなる。彼の最も親しい人物にも明かしていないことを、よりによって自分に明かすなんて思ってもみなかった。袋を握りしめてみたところで、縋るべき相手がいる筈もなく。
「…何を期待している」
「別に、何も? 君になら話してもいいって思っただけだよ」
 息を呑んだ。とどめを刺された気がした。相手が笑みを深くする。
「信頼しているってことさ」
 こちらがあからさまに当惑しているのを分かってそんなことを言うから、この男はずるいのだ。いっそイヤホンにロックオンの声を満たして、何も聞かなかったフリをしてしまいたい。初めて会ったときに、ロックオン以外はいらないと口にしたように。
 けれどもう、ロックオン以外の他者を知ってしまった。二人だけの世界に閉じこもることは出来ないのだと、諦めてしまった。それだけに相手の言葉がひどく重い。信頼されるのも秘密を明かされるのも初めてだった。
「貴方まで、よくわからないことを…」
 消えかけた語尾にすかさず言葉が重なる。逃さないという素早さで。
「本当に?」
「…っ!」
 咄嗟に言葉が出なかった。拳に尖った爪が突き刺さる。
 端末や読んだ論文、ニュースのトピックスの話していれば唯ただ楽しかった。こんなに言葉を探すこともない。こういうときに言葉が出ない自分はひどく無力で、空っぽなのだと思い知らされる。それを認めるのはどうしようもなく怖くて、わからないのだとごまかす。
「肝心なときにわからないふりをするなんて、君は随分とずるいことをしているね」
 優しい口調でゆっくりと心臓を貫かれた、気がした。また呼吸が出来なくなる。
「結論を先送りにして、相手が決めてくれるのを待ってるんだ。そうすれば、相手のせいにできるから」
「違う、僕は…!」
「へぇ、違うんだ。じゃあ、変わるのは君なのにどうしてロックオンの許可が必要なの? どうして好き嫌いすらはぐらかすの? そんな音声データまで作っておいて、今更」
 畳みかけるような問いかけに、何一つ答えられないでいる。それは図星を指されているからだ。本当は、わかっている。他者を受け入れる痛みが怖いだけだ。だから伝えることをやめて、密かに欠片を愛でてごまかそうとしている。何にもならないことを繰り返して、浅ましい想いを持てあまして。
 唇を噛みしめて俯く。縮まった肩に、穏やかな声がぽつぽつと降り積もった。先ほどまでの詰問するような口ぶりとは違った、まるい優しげな声で。
「……君はどうしたいの? たぶん、それが一番大事なことだよ」
 わからない、と返しそうになって口をつぐんだ。以前ならば迷わず口をついて出たというのに。彼を自分だけのものにしたい。ずっと閉じこめておきたい。あれほど切実に願ったというのに、今はどれも違う気がした。くだらないものを集めてみたり、会話を録音してみたり、欲求は限りなく存在するはずなのに、それをはっきりと言語化することが出来ないでいる。
 押し黙っていると、上からため息が落ちてきた。ごめんね、と今更に付け加えられて、苦微笑を浮かべた。
「たくさん考えて、君だけの答えを出すといい。難しいことを言うようだけど」
  ゆっくりと頷くと、彼の眉が寄せられた。どこか苦しそうで、痛みを堪えるような表情にも見えた。不意に顔が近づき、耳許に唇が寄せられる。あまり他人に近づきたがらない相手なので、少し驚いた。外耳に、低い声で囁きが落とされる。
「そうして君の力で、彼を支えてあげて。頼むよ」
 これは、君にしかできないんだ。力強い言葉がこそばゆかった。胸の奥がじんわりと温もった気がした。これが信頼されているということなのか。だとしたら、悪くはないと思った。
 けれど、そのときの僕にはそれだけしか分からないでいた。ビリーがどんな気持ちでそんなことを言ったのかも、支えるという言葉の意味も、考えることすらしなかった。何一つとして。
 わからないまま、頷いた。





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