猫を預かることを了承する。用件なんてたったの一行だった。それなのに先ほどから書いては消しを繰り返して、小一時間が経過している。素っ気なくストレートに用件のみを書くのも、言葉遊びを弄して長々と伝えるのも、何だか違う気がするのだ。読み手のことをあれこれと慮らねばならない分、報告書の何倍も難しい。というより、報告書以上に考えなければならないほど、相手と距離を置いていた僕自身に苦笑した。
 家に来ている友人はこういうときに助言を求めるには効果的な相手ではないし、そもそも彼自身の『契約』に従ってとうに眠ってしまっている。先ほど電話したばかりの友人も同様で、彼に相談でもしようものなら、家族へのメールが情熱的な恋文にすり替わってしまいそうだ。家族相手には態度がまた違うのかも知れないが、少なくとも、報告書に愛のべーゼ云々の語彙を用いる男を僕は信用しない。
「はぁ…」
 思いめぐらせ、私的な友人が殆どいない自分の交友関係の狭さに軽く絶望した。そうして彼の私的な方の端末に連絡を入れたのは、少ない選択肢を消去した結果だ。時計を見れば確実に眠っている時間だろうが、そうではないこともまた確信としてあった。彼が眠れない夜を過ごしていることを、酷く私的なことに利用するというのも狡いことなのだが、こういうときに話し相手が欲しいだろうと、一方的に邪推した。僕の都合の良いように。そんなことだから友人が少ないのかも知れない。
「どうしたんですか、カタギリさん」
 案の定、ワンコールで応答がある。音声のみの応答だったことに、なんとなく余計な想像を膨らませてしまった。社交辞令として、こんな時間にごめん、と付け加えると、疲れた声で、起きていましたから、と返される。彼の上官ならば関心のしないことだろうが、僕はそれに大いに安堵した。同じだけ心配にもなった。利己的にもなりきれないところがまた、狡いのだ。
「さっきは随分、ティエリアを怒らせてたようだけど?」
 少しの沈黙。ああ、これは地雷だったかもしれない。
「…嫌われちゃったみたいです」
 相手の力のない声に、ひどく素直に胸が痛んだ。自分で驚いてしまった。端末を録音したり、くだらない私物を集めてみたり、そういうことを彼は知らない。しかし第三者である僕がそれはありえないと言ったところで、幾ばくの効果があるかも心許ない。端から見てあれだけ想って合っているように見えても、その実相手のことを充分に理解しているとは言い難い。恋心は解析不能だと、二人を見ていると実感する。
「なんかもう、あいつにはいっつも過保護で。ダメですね。もう前のあいつじゃないのに」
「淋しいかい?」
「…まあ、少しだけ」
 変わってはいけなかったのか、と問いかけた様を思い出した。ティエリアは俺がいないと何も出来ないと言った彼の言葉を思い出した。それは彼の願望に過ぎず、今のティエリアは幼子のような依存状態から着実に解き放たれつつある。淋しいと思うのは、依存を愛情にすり替えただけだ。それでも、そういう彼を嗤ったり非難する気にはなれなかった。
 僕らはそれなりに彼が好きだったけれど、ある程度の時間を共に過ごしても、彼につきまとう過去の影を消すことが出来ずにいた。それを、一年も満たない期間過ごしただけの少年がいともあっさり消して見せたのは、ひとえにティエリアが依存するほど切実に彼を求めたからだ。依存やエゴと言われようと、必要とされることは、人間にとって幸福であることに間違いはない。
「隊長に慰めてもらいなよ。君のこと、心配してる」
「……………」
 その言葉自体は嘘でもなかった。矜持を重んじ、自分や他人の弱みや無様な部分を滅多に口にすることのない男が、僕にそれをこぼしてきたのだ。相当ロックオンのことを案じているのだろう。もしかしたら、とうに慰めるくらいはしたのかもしれない。少しの間の意味深な沈黙に耳を傾けて、思った。
「…ティエリアには内緒にしておくね」
「な、何もしてません! カタギリさんこそ、変なこと吹き込んでないでしょうね!?」
 ごまかすための問いに一瞬、言葉が詰まる。まさか君の恋人に自分の不能を明かしてきたとは言えまい。こちらとて明かす気はなかった。気づいたら口をついて出ていたのだ。しかし言ったこと自体に、後悔はしていない。はぐらかしながらも何処かで付きまとっていたべとべととしたコンプレックスが、少し軽くなった気がした。
 グラハムにも、ロックオンにも言えなかったことを言ってしまえたのは、ティエリアに性的なものを感じさせる要素が少ないせいかもしれない。更に下衆な内面を分析するなら、純粋そうな少年に少し汚れたことを吹き込んでみたかった。困惑にまみれた顔を見て、胸がすく思いがしたのは内緒だ。今思えば、あれは忘れかけている性的興奮の残滓だったのかもしれない。信頼だなんて、はぐらかしてみせただけで。
「僕は君を信頼してる、って言っただけ。いけなかった?」
「あーそれってやっぱ俺に比べてってことですよね別に信じてないわけじゃないんですよ心配なだけでちょっと言い過ぎて、」
 なんだかすごい勢いで言い訳をし始め、その声がどんどん沈んでいくのが分かった。これ以上この話を続けたところで、彼をますます落ち込ませるだけだと思ったので、本来の用件に戻ることにした。どうやら彼にもエスケープキーが必要なようだ。なんだかんだ言って、根が真面目なところもよく似ている。それなのに、どうしてお互いに分からないのだろう。好きだってことくらい。
「こういうとき、君だったら――しばらく会ってない家族にどうやって言葉を掛ける?」
 敢えて家族という言葉を選んでみせた。それは今の彼にとって残酷な言葉なのかもしれなかった。しかし、僕にはこれ以上のことは出来なかった。彼の過去に存在した家族だけでなく、現在にも存在するのだと示唆することくらいしか。
 抱きしめたり慰めの言葉もかけられない。知らないふりをして話し相手になることしか出来ない。メールの文面という言い訳をしながら、結局僕だってロックオンが心配だったのだ。僕もロックオンのことを過保護だと笑えないかもしれない。
「…思いつきません」
 沈黙の後、静かな声でロックオンが言った。図らずも僕と同じ回答であることに驚いた。彼ならば身内に対して、僕よりもいくらでも流暢な言葉が浮かんでくるものだと思ったから意外だった。目を見開いていると、相手が続ける。
「だから、電話します。直接声聴いて、口から出たことを言います」
「怒られても?」
「本音だったんだから、仕方ないです。それに、声聴けて、嬉しかったし」
 あのイヤホンの中から聴いた声を思い出した。やはり言っておくべきかもしれない、と一瞬思ったが、ティエリアに口止めされているので思いとどまる。友人の信頼を無碍にするようなことは出来ない。僕の秘密と同じく、あれはティエリアの秘密だ。
 それでも、いつかロックオンが自分で気づければいい。もしくは、ティエリアが打ち明ける勇気を持てるようになればいい。
 そのときは僕も、僕の親友に本当のことを口にして謝ってみようかと思う。フラッグで我慢して欲しいといったら彼はどんな顔をするだろう。きっと、何を今更、という顔をするだろう。

 その前に、まず朝になったら、姉の家の番号を探さなければならない。もし姪が電話を取ったら、猫の物真似でもしてやろうか。言うことなんて思いつかないから。

















 端末を切った後、沈黙が部屋に再び訪れる。この瞬間が何よりも苦手だ。
 待ち受けのデジタル時計が早く寝ろと急かすが、一向に眠りが訪れる気配はない。カタギリさんがこんな時間に電話をかけてくるとは思わなかったが、正直言って救われた。何も知らない相手と、何も関わりのない話をして、一瞬だけでも忘れたかった。目を閉じればまた付きまとわれる。すこし前に殺した相手のこと。家族のこと。どうしようもなく無力だった自分。――そして、いまだ無力感から解放されない今の自分。
 指先が、端末の番号を押す。指に馴染んだそれは、意識せずとも正しい羅列を並べる。最後の一桁を押して、耳に当てる。何度目か分からないアナウンスは少しも予想から外れない。

『この番号は、現在使われておりません――』

 電話が通じれば。声が聴ければ。何を言うというのだろう。父さんに、母さんに、エイミーに。そしてライルに。

 端末から鳴り響くアナウンスだけが空疎に部屋に響いていた。