こうしてティエリアと僕の奇妙な同居生活が始まったわけだが、ロックオンの心配とは裏腹に、ティエリアは意外にも普通だった。彼がいつのまにか僕の本棚にある蔵書の内容と、書かれているページ数までそらんじてみせたときは流石に驚いたが、変わったことなんてそれくらいだ。
 食事は僕よりもきちんと摂るし、毎日23:00きっかりになるとソファで丸くなって眠る。それ以外の時間は持参したラップトップと向かい合ったり、テレビを見ていたりする。猫よりも遙かに手の掛からない大人しさだ。ロックオン曰くの、恋しがって泣いたり絶食したり名残を求めてクローゼットを開けたりということもない。というより、この家に来てからティエリアの口から彼の名前を殆ど聞かなかった。
 そんなことだから、消耗型の映像記録媒体を拝借してアザディスタン派兵関連のニュースを録画・編集したり、あんなお守りを作るような彼の態度を可愛らしいと思いこそすれ、笑う気は毛頭ない。一途な恋は美しいと思う。それなのに。
 何故彼はあれほどまでに怒り狂い、暴れたのか。
 書棚から零れだした大量の蔵書、ひっくり返ったキーボード、散乱した資料、投げ捨てられたクッション、衣服。その中心で僕は自分の傷に絆創膏を貼り、ティエリアは袋をきゅっと抱きしめて俯いている。
 一途な恋は美しい。しかし時に人を狂わすのだと実感した。貴方など必要ない、と豪語していた人物と、袋を抱えて丸くなっている人物が同一人物だとは到底思えない。この因果関係が理解できないから僕には恋人ができないのだろうか。だとしたら、僕は一生童貞だろう。ちっとも嬉しくない結論を得てしまって軽く落ち込んだ。
「怪我は、痛むか」
 丸いかたまりが突如声をかけてきて、絆創膏を貼る手が止まった。細くて白い手が貼りかけの絆創膏に伸びてきて、すっとその続きを貼る。手のつめたさが心地よく肌に滲んだ。同時に、肌に触れてくる無防備さに身を固くした。そうと悟られないように笑みを作る。
「たいしたことはないよ。驚いただけさ」
「すまない。取り乱してしまった。まさか誰かに見られるとは……」
「勝手に見た僕も悪かったから、ウン」
 眼鏡のレンズ越しに切実な視線を向け、にじりよってくる相手にたじろぐ。ティエリアは恋人以外の他者とあまり接触がないせいで、過剰に他者を警戒する一方でひどく無防備な一面も見せる。その危うさに対して自覚がないのがまた性質が悪い。本来、教育すべき相手と恋人関係にあるせいで、彼のこの危うさに気づかないのだ。
「このことは誰にも言うな、ビリー・カタギリ」
「……ロックオンにも?」
「当たり前だ!」
 叫んだ拍子に唇が触れそうなほど顔を近づけられ、反射的に後退する。至近距離の端正な顔は結構な迫力があったが、一方でどことなく慣れのようなものも感じて冷静だった。すぐに顔を近づけたがる友人がいるせいかもしれない。
「あの男に知られでもしたら…俺は、僕は…」
 そっぽを向いて何やら口の中でぶつぶつ言っているティエリアをよそに、教えたときのロックオンを想像してみる。普段の惚気っぷりを考えるとかなり腹の立つ光景のような気がしてきたので、黙っていることに決める。何より、切るべきカードはタイミングを見計らわなくては面白くない。いたいけな少年の弱みを握ってどうこうする気はあまりないけれど。
「わかった、言わないよ」
 そう言うと、安心したように顔を上げる。無表情で整った人形のようだった少年は、気がつけばこんなにも表情豊かになっていた。それが誰のお陰なのかは言うまでもないだろうが、彼はその相手に知られたくないという。そんなことをしても今更なのに、何が嫌なのだろう。本当に、恋心というのは分からないものだ。自分のものも、他人のものも。
「彼のことが好き?」
 問いかけると、少しの沈黙があった。考えたそぶりを見せた後に口を開く。
「……あなたは、自分の手が好きか」
 唐突な質問に面食らい、思わず両手をまじまじと見つめる。ペンだこが出来ていびつな手だ。僕と共に30年以上良く頑張ってくれたとは思うが、特に美しいかたちでもないので、好きともはっきり言えなかった。しかし嫌いになる理由も見あたらない。というより、
「考えたこともないな」
 その向こうでティエリアが膝を抱え、顔だけこちらに向けていた。寝るときといい、彼は身体を丸めるのが癖のようで、その所作は幼い印象を与える。胎内回帰だなんて、使い古された言葉を思い出す。彼の母胎というものがいまいち想像できないのは、浮世離れした雰囲気のせいだろうか。
「僕にとって、あの男はそういう存在だった。好悪など考える隙もなく、唯必要だった。彼が不在だと呼吸もままならなかった。必要だから所有したいと思った。あなたも知っているだろう」
 執着の塊のような袋を握りしめながら、彼が続ける。僕の前では、彼はとても素直な良い子だった。カウンセリングの真似事は得意ではないが、彼が僕にとって興味深い存在であることは変わらなかったから、苦痛にも感じなかった。
 類い希な外見や知性を持つ一方で、驚くほど常識やヒトの機敏に疎い。ひどくアンバランスな側面はそれだけで魅力的だった。唯、ロックオンのような庇護欲や愛情というよりは、僕の場合、シャーレの上で眺めるそれに近いのだが。それを友情と呼んで良いのかたまに分からなくなるが、長年の友人もそうして眺めているのだから恐らく許してもらえるだろう。
「…おそらく、ロックオンもそういう私を望んでいるんだろう」
 時折見える一人称のブレは、そのまま彼の揺らぎを示しているのか。僕が目を見開くと、彼は眉を寄せて微笑った。
「僕の同意も得ず、あなたのところへ押し込んだのもそういうことだ。電話をするたび以前のような僕を期待して、身を案じているのも。ひとりでも大丈夫だと言うと、ひどく不安そうな顔をする。置いて行かれる僕よりも」
「……ロックオンは、君をとても大切に思っているんじゃないか、なぁ」
 口から出た台詞は、自分でも驚くほど陳腐な台詞だった。これでは気休めにもなりそうにない。案の定、彼は小さく頭を振った。微かな動作だったが強い意思を感じた。
「そうかもしれない。だが、それだけではない」
 強い確信を秘めた紅茶色の瞳が、無遠慮なほどまっすぐにこちらを覗き込む。膝を解いて、またこちらに近づいてきた。よその家の匂いがこぼれる。ロックオンと同じ匂いだ。そのことに彼は気づいているのだろうか。
「僕は、変わってはいけなかったのか?」
 問いかけられて、押し黙る。彼は素直すぎて、時折ものすごく難しいことを聞いてくるので何も言えなくなってしまう。彼がそんなことを思っているなんて知らなかったし、ロックオンがそんな態度を取っていることも知らなかった。ティエリアは俺がいないと何も出来ないんですよ。呆れるほど過保護な言葉は、実はあまり笑えない。
 そのとき、重苦しい沈黙を追いやるような脳天気なメロディが鳴る。グラハムが勝手に設定したオーバーフラッグスの隊歌だった。団結力が高まるようにと隊長直々に作詞作曲をしたという曰く付きの歌だが、隊員は健やかなるときも病めるときも死の淵に立たされたときもこの歌を歌わされるせいで、半ば呪いの歌と化しているようだった。音質を落とした安っぽい端末のものでさえ、鳴るたびにロックオンは身を硬直させる。しかしそんな呪いの歌に、僕はとても安堵してしまった。僕はずるい人間なので。
 失礼、と軽く断ってから通話ボタンを押す。
「…どうしたの? グラハ、」
『心配したぞカタギリッッッッッッ!!!!!』
 途端、端末のカメラとマイクの限界に挑戦するようなどアップと大声に吹き飛ばされる。そんなに食い入るようにして話さなくとも、端末は彼をこちらに連れて行ってはくれないというのに、まるで今にもこちらに落ちてきそうな勢いだ。隣でティエリアも毛を逆立てて驚いているが、彼には見えていないようだ。どうやら僕は相当心配されていたらしい。
「すまなかったよ。突然切ってしまって」
『全くだ。我が隊の大切な技術顧問に何かがあったらと気が気ではなかった。さきほどは一体何が?』
 機密保持のために、ロックオン以外の相手のときには遠くに行ってもらうようにしているのだが、さすがに当事者となってはティエリアも反応したようだった。軽く目配せをして、首を振ってから続ける。まさかこの男に真実を話すほど、僕はばかでも残酷でもない。
「大丈夫。こっちはどう転んでも君たちよりは安全だよ。そっちは?」
『心配は無用だ。このグラハム・エーカー、きみの娘を娶るまでは死ぬまいと決めている』
「だーめ。死んでもあげない」
『何を言う! きみの頭脳と私の肉体を掛け合わせたら最強のフラッグファイターが生まれるというのに! 百年計画だ!』
 いつの間にか彼は僕の孫の代までシミュレーションを済ませているらしい。気の長いことだ。こんな夢を抱き始めたので、僕としてもいい迷惑だった。望みが薄いだけ彼が生き残る確率が増えるのかもしれないが、それとこれとは話が別だ。優秀な遺伝子を掛け合わせたいならよそでやって欲しい。男としては知らないが、結婚相手としては最低だろう男に、僕の大切な遺伝子をやる気はなかった。そもそも後天的素質は遺伝しないと何度言ったら分かるのだろう。
「思ったんだけどさ、もし息子だったらどうするの?」
『その場合は私の娘をやろう。私に似て素晴らしい娘に育つに違いない』
「…あ、そ」
 どうあっても彼は僕と親戚になりたいようだった。僕は死んでも御免なのだけれど。ただでさえ腐れ縁なのに、血縁関係まで生まれてしまったらそれこそ救いようがない。これがグラハムの気まぐれであることを祈るばかりだ。
「それより、さっきメールで届いたの、見たんだけど」
 動くタイミングを失い、ぼんやりと僕らのやりとりを見ていたティエリアに視線で促す。ティエリアは我に返り、弾かれたように部屋を出て行った。せわしない様に申し訳なさを覚えながら、ドアが閉まるのを待つ。信用していないわけではないが、念には念を入れ、通信傍受の類の仕掛けがないかを一通り調べてから、再び口を開いた。
「驚いたよ。まさかそんな因縁があったなんてね。…………彼は、大丈夫なのかい?」
 喋りながら、手元のホロモニターに添付ファイルを開く。そこに映った赤毛の男は、もうこの世にはいないという。
 彼が――ロックオン・ストラトスが亡き者にした。ユニオンの軍人として。そして、10年前のテロの生き残りとして。




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