新着メールのホップアップを注視すると、珍しい人物からのメールが届いていた。
 差出人のファーストネームは見慣れているものの、その後ろにくっついているラストネームは未だに違和感がある。結婚をしてどれほど経ったのかは思い出せないが、物心ついたときから彼女は僕の姉だったのだから、仕方のないことだ。
 その珍しい相手からの用件は、今度旅行に行くので猫を預かってもらえないかといった内容だった。姉は僕の仕事内容なぞ微塵も知らない筈だし(もしかしたら軍属ということすら分かっていないかも知れない)、普段自宅が最早眠るだけの場所になっているということも知らない。
 こうした日頃の生活習慣を鑑みると断りの返事をすべきなのだろう。しかし家族がわざとらしくも僕と接点を作りたがっていることも分かるから、無碍に断ることも憚られた。この歳になって独り身で、よくわからない仕事をしている弟がそれなりに心配なのだ。周りから心配も叱られもしなくなって久しいだけに、時折のこういうものは持てあましてしまう。
 幸か不幸かメールにある日程には仕事もそこそこ激しくはなく、生活の中に猫一匹くらいなら入れられなくもない。残るは猫と血縁への情のために妥協出来るか、という損得勘定だけなのだが。
(どうしたものかな…)
 頬杖をついて煮詰まった意識をモニターの外に逸らすと、本棚の傍に見覚えのない小さな袋が転がっているのに気づく。手の中に収まる程度の大きさで、夜色のビロードの素材でできていた。大方アクセサリーか何かを入れる物なのだろうが、それにしてもその袋は太りすぎていた。持ってみてもずっしりと重い。
 この場にいる人間の引き算をすれば、持ち主など分かり切っていた。大方部屋の蔵書を取る際に忘れていったのだろう。開けるべきか開けないべきか一瞬迷って、好奇心に負けて口を縛っていた紐に手を掛ける。
「いい加減にしろ!」
 絶妙なタイミングで持ち主の声が降ってきて、びくりと身体が跳ねた。ついでに眼鏡もずれた。緩めた袋の口からばらばらと中身がこぼれ落ちる。相当中身が詰まっていたらしい。
 ずれた眼鏡を直しながらそろそろと後ろを振り返るが、持ち主は現れる様子を見せない。こぼれ落ちたものを拾おうと手を伸ばすと、壁の向こうから更に言葉が続けられた。
「食事も三食摂っているし、睡眠も欠かしていない。貴方に言われたことはこなしていると言っているだろう!」
 どうやら電話の声のようで、ほっと安堵の息を吐く。声の荒さだけが穏やかではないが、その理由は推測がついた。大方彼の飼い主が、その過保護さを発揮して彼のプライドを著しく傷つけたのだろう。
 本来ならば機密上の問題で私的な連絡を取ることは許されない。つまりこの電話自体職権濫用なのだが、それを田舎の家族が息子の身を案じるような内容で使われるのも複雑だった。
 庇護欲も過剰すぎるのは良くないと言っているのに、派兵前のロックオンときたら、自分の身よりも置いていく恋人のことを案じていた。ティエリアは俺がいないと何も出来ないんですよ、という、本人が聞いたら一週間は拗ねそうな言葉を何度聞いたか分からない。今ティエリアがこの家にいるのは、彼なりの妥協した結果だった。
 散らばった物をひとつひとつ袋に戻していくうちに、その袋の中身が妙なものだと気づく。そこらで売っているような飲料水のキャップの蓋に、壊れたストラップ。紙製のしおりに底に僅かしか残っていない目薬なんてものもあった。色々なものがあったが、どれも共通するのは取るに足らないがらくたばかりということで。
「余計な心配をしている暇があったら仕事に戻れ!」
 至極尤もな正論を叫ぶ声をよそに、ほとんど容器だけの目薬を掲げてしばし考える。そして思い当たるものを見つけ、引き出しを探った。記憶は間違ってはおらず、引き出しの奥には笑えるほどの数の目薬が潜んでいる。眼精疲労は作業の大敵である。家に忘れるたびに基地内のショップで買っているせいで数が増えてばかりなのだ。
袋の中に入っていたものの横に並べると、中身を除いては寸分違わぬ作りになっている。ついでに言うと、この目薬は基地のオリジナルグッズと言ってもいいもので、外で売っているのをあまり見かけない。よってはじめから二つしかない選択肢は、消去法により簡単に絞ることが出来た。
「俺は貴方がいなくとも全く問題ない! 貴方など必要ない! 見くびるな!」
 段々声高になっていく声を聞きながら、キャップの蓋を眺める。そういえばこれもロックオンが愛飲していた商品だ。基地で飲んでいるのを何度も見かけたことがある。しおりやストラップまでは分からないが、恐らく同じようなものだろう。つまりこの袋は、ティエリア特製のお守りなのだ。
 壁の向こうから聞こえる台詞とのギャップがおかしくて、つい笑みが滲む。出会った頃は機械のように無機質な印象を受けた少年は、いつの間にか偶像崇拝すら覚えていたようだ。良い傾向なのだろう、きっと。

「ビリー、グラハム・エーカーが貴方と話を……、」

 しかし哀しいことに、僕の一方的な満足だけでは終わってくれそうにもなく。
 袋に中身を詰め終わって、口を縛ろうとしていた矢先にドアが開く。そして、僕の端末を片手に持ったティエリアが、未だ苛立ちの消えぬ面持ちで入ってきたのだ。こちらとしてはまさか突然振られるとは思ってもみなかったので、ごまかす術すらない。指先がぎこちなく固まった。
「……っっ!!」
 紅茶色の双眸が僕の手元を捉えた途端、表情が音もなく失せていく。僕の不器用な指先がもつれて袋がこぼれ落ち、同じくティエリアの手から端末が滑り落ちた。グラハムの大きすぎる声がそこから漏れて、空しく響く。
「……見ちゃった♪」
 にへら、と僕が力無く笑むと、ティエリアの顔が表情を取り戻す。白い肌が桜色に色づき、眉間に深く皺が刻まれた。猫ならば毛が逆立たんという勢いで激しく威嚇され、落ちたお守りをひったくられる。その拍子に緩んでいた口からぽとりとキャップが飛び出した。裸足のつま先が騒ぐ端末を蹴り上げ、転がったキャップと衝突して弾ける。
『カタギリ、応答しろカタギリ! カタギーリ!!!!』
 動揺したグラハムの言葉を大げさだと笑えない。平和主義で非戦論者の僕には哀しいくらい修羅場に対する耐性がない。正確には、第三者として場を諫めるのには慣れているが、当事者としてどのような反応をすればいいのか皆目検討がつかなかった。頬を紅潮させたティエリアを可愛いなどという余裕もない。無駄だと分かっていても、端末を拾ってグラハムに助けを求めてしまいたい。もしくは、この場を切り抜けられるなら猫でもなんでも世話をしてやろう。
 もしかしたら僕は、とんでもない存在を部屋に招いてしまったのかもしれない。






 出立も近いからかフラッグの格納庫は日々慌ただしい。あれが足りないこれが足りない時間が足りないと、発狂気味に叫ぶ整備班を後目に、僕もまた最終段階の調整に手をつけていた。
 本来ならばこんなことをしている場合でもなく、僕は僕で仕事もたまりきっているのだが、いい加減飽きてしまった。同じデータと向かい合うなら、実戦的なフラッグの方がまだ気分転換になる。意見のヒアリングと称して、パイロットという話し相手もできるわけだし。
 フラッグのデータを呼び出した横のウィンドウに、ロックオン・ストラトスの個人データを呼び出す。グラハムから聞く限り、彼の勤務態度に問題は見られないようだった。彼らのような実戦部隊が不得手とするようなレポートも、かなり詳細に、期日はきちんと守って(本来は当然なのだが、隊長があれなせいで賞賛の対象になってしまうのは実に遺憾だ)提出してくる。演習の成績もすこぶる良ければ、人当たりも良い。軍の命令を忠実にこなす実力のある、実に優秀な人物と言えた。
 アザディスタンへ派兵されるということは、それだけ彼の能力が評価されたということだ。それは即ち人殺しの能力ということであり、派兵の目的も端的に言えばそうなのだ。しかし彼は気にした様子も見せず、それより、と言って飲みかけの飲料水の蓋を締めた。そういえばあのときも、袋に入っていた蓋のついたものと同じものを飲んでいた。
「お願いがあるんですけど、いいですか? カタギリさん」
「聞けることならね」
 ホロモニターに映っている、調整中の彼のフラッグのデータから目を離さずに答える。彼のフラッグが隊の中で一番状態が安定しているのは、スナイパーという役割のおかげばかりではないだろう。引き際と決めどきをしっかりと心得ている彼の戦い方は、安全性の点で非常に好感が持てる。無茶ばかりするグラハムに見せてやりたい。
 だから、僕は彼の派兵が決まったと聞いてもさして動揺はしなかった。むしろ僕の代わりにグラハムのお守り役が出来て安心したくらいだ。無茶をしたら後ろから撃って足止めしても構わないと言おうとしていたところだ。
「仕事が忙しいことも分かってます。なるべく面倒はかけないように言い聞かせますから、だから、」
「ああ、ティエリアなら心配しなくて良いよ。僕が預かってあげる」
「…ッッ!」
 図星を指されたのが恥ずかしいのか、彼は雪のように白い頬を赤らめた。そのときだけタイミング悪くホロモニターから視線を外す僕は意地悪だ。にこりと笑みを浮かべ椅子ごと彼の方へ身体を向ける。そして続けた。
「その代わり、君んとこの隊長のお守りは頼んだから。勝手に死なないよう、見張っておいてね」
「心得ました」
 教科書通りの敬礼で了承の意を示す、その生真面目な態度がおかしい。お守りという言葉は成人男性に使う言葉ではないが、それでもよかった。派兵の目的と乖離したなまぬるい言葉で、僕らは互いに戦地へ赴くという事実の重みをはぐらかそうとしていた。そこでは確実に人は殺し、殺される。彼が如何に安全な戦い方をしようとも、やはり命の危険はゼロではないのだ。
「君、こういうのは初めて?」
「初めてというわけでは……ただ、ここまで長いのは、なかったですね」
 だから心配なんです、と彼はまた、彼の恋人の話をしようとする。納得させるのに時間がかかったこと、籠城した相手を説得するまでろくに食事すら摂れなかったこと、そのくせ派兵が近づくにつれ態度が淡泊になっていったこと。全て耳に飽きるくらい聞いたことだが、制止する気にもなれなかった。
 ばかばかしい幸せを垂れ流すふりをして、同じ時間をもう過ごせないかもしれないという、彼の不安が見てとれたから。食事を摂れやら六時間は眠れやら保護者のような心配はいくらでもしてみせる分、自分の身を案じることはない。彼はいつだって他人の心配ばかりだ。それが気にくわなくて、僕は意地悪く話を元に戻した。
「君が死んだら、僕はティエリアに恨まれるかな」
 縁起でもない仮定に、彼の顔から表情がなくなる。しかしそれも一瞬だけで、すぐにいつもの人当たりの良い笑顔に戻った。彼は自分の感情を巧妙に隠すから、えぐり出すのも容易ではない。彼の恋人ならもう少し上手くやるのだろうか。
「さぁ? 隊長が苦手みたいですから、むしろ隊長に行くんじゃないですか」
 さらりと笑いながら彼は、縁起でもない仮定ではなく僕が恨まれるという方を真っ先に否定する。死なない、と気軽に否定できる脳天気さすら、彼は持てなかった。突然、不条理に生命が奪われることを知ってしまっているから。そういう人間は大抵、長生きするか早死にするかの二択しかない。前者であることを強く願う。
「僕のために帰ってきて。グラハムの飼育責任が僕一人に押し付けられるなんて、死んでもごめんだから」
 勢いをつけて椅子から立ち上がり、ロックオンの手を握る。茶化した台詞に彼は呆れるかもしれないが、こういう状況ではあまり深刻になりすぎないのがちょうどいい。真剣な約束は大事な相手とでもすればいい。僕にはきっとこれくらいしかできない。
「……技術顧問って二言目には隊長ですよね。隊長に言ってあげた方が良いん、いだだっ!」
 激励のために握った手の、表面の薄い皮をきゅっと抓る。彼の言葉の終わりが紛れた。スナイパーの手を攻撃するなど本来は言語道断なのだが、人にはどうしても譲れないものがあるのだ。




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