「アイルランド?」
 いつものようにセミダブルのベッドに入ったあと、ライルの発案を伝えると、彼は予想通り顔をほころばせた。彼のそんな表情を見られるのは素直に嬉しい。なので、こちらも笑ってみせた。
 ライルがチケットやホテルの手配をしてくれること、おいしいお店を紹介してくれること、休んでいた職場で色々と手続きがあるので、少し長めの滞在になることなどを一通り伝えて、きちんと言い淀まずに口に出来たことに安堵する。この旅行に関して、彼らが感じている以外の、よけいな感情を交えてはいけない気がしたので、笑っていようと決めていた。
「いいかもな。楽しそうだ」
「ライルはずいぶん乗り気のようだから、早めに休暇の日程を伝えてやってくれ」
「伝えとく。ちょうど派兵の後で長めの休暇がとれそうだし」
 さりげなく交えられた単語に、思わず毛布を握る手を強くした。先日中東地域に派遣されたばかりだというのに、また行かなくてはならないらしい。彼ができるだけなんでもないことのように口にしたので、こちらもとりたてて拾い上げることはせず、軽く頷くだけで終わる。

 ―――こんな遠いとこで、名前も捨てて、人を殺して生きるってたぶんすげえキツかったと思う。

 ライルの言葉が不意に蘇る。僕やライルには理解することができないが、つらい、のだろう。きっと。
 派兵から戻ると彼は少し痩せてきて、夜の眠りも浅くなる。隣で、何度もうなされているのを見た。憔悴した彼にひどく当たられたこともあった。彼の上官である男や職場の友人は彼にとって信頼に足る人物であるようだが、それでも、彼はいつも深く傷ついて帰ってくる。
 震えのとまらない彼の手のひらを一晩中握っていたこともあった。
 深夜に嘔吐を繰り返し、吐くものが残っておらず胃液を吐き出す彼の背中をずっと撫でていたこともあった。
 睡眠導入剤をパスケースの中に隠し持っていることを知っている。僕に悟られないよう、こっそりバスルームで飲んでいたことも。
 うなされる彼が夢でいったいなにを見ているのか、僕にはわからない。彼も決して口にしようとはしない。彼の優しさは、時折僕を遠ざける。僕は彼のことをわかりたいと、いつだって思っているのだけれど。
「…そんな顔、すんなよ」
 彼が望むように、なんでもないことのようすることはできなかったようだ。
 当然なのだ。なんでもないフリをしたところで、手のひらの震えも胃液の臭気も導入剤の白さも変わりはせずにここにある。
 毛布から伸びた手に、優しく頭を撫でられてそっと目を伏せた。引き寄せられて額に口づけられる。彼がいるのだと思った。
「大丈夫」
 低く穏やかな声が耳をかすめる。その言葉はきっと、僕に向けられているようで本当はそうではない。彼もまた不安で、だからこそ言わずにはいられないのだ。
「大丈夫だから」
 背中に腕が回り、引き寄せられたので彼の表情を伺うことはできなかった。背を撫でる手のひらは穏やかで、もう震えることなどない。
 前回の派兵から一時期はすっかり憔悴してしまった彼も、ライルが来てから過ごす穏やかな日々の中で少しずついつもの姿を取り戻していた。ライルが何も変わっていないと言うのだから、これがきっと彼の本質なのだ。アイルランドで、幸福に過ごしていた頃の。
 ―――だから、私が彼を遠く感じていたとしても、きっと「大丈夫」なのだ。



 アイルランドで、二人の家を見に行こう。二人の幸福な思い出と、深い傷の詰まった場所を。記憶を。本当のライルを、そしてニールを理解するために。
 私たちは家族で、幸せになるべきで、そのためには、この家だけでは足りない。ロックオン・ストラトスは名を捨てざるを得なかった彼の不幸な記号に過ぎないのだから、本当の彼に戻るべきなのだ。彼は戻りたがっている。帰りたがっている。なんの傷も負わなかった、あのころに。
 ―――ここで暮らそう。勝手に決めて悪いけど。
 ―――ここでなら、好きっていうこと教えてやれると思うから。
 この家に連れてこられたとき、私は確かに嬉しかったのだ。何度も言われた好きという言葉の意味はしっかりとつかめなくとも、言われるたびに胸の底があたたかくなるのは分かった。もう彼のもとから、この家から離れられないのだという確信があった。泣きたくなるほどに。
 ―――いいなぁ。
 初めて名前を呼んだとき、嬉しそうに抱きしめてくれた。突然与えられた体温にどうしたらいいのか分からなかった。その温もりに、ゆるく胸が締め付けられる心地がした。一度与えられたらどんどん足りなくなって、自分の中の空洞を持て余して、どうしていいのかが分からず何度も彼を困らせた。
 それでも彼が私を見捨てなかったのは、彼もまた空洞を抱えていたからだ。子どものように欲しがるばかりの私に、何でも与えようとしてくれたのは、彼の優しさだけではなく、家族の喪失で負った傷や、深い孤独を癒すためでもあったのだろう。
 そうして、埋めあっていたのだ。私たちは。
「ティエリア?」
 ―――深い傷を負って、淋しげに、けれど優しく笑うロックオンを愛していたのだ。
 偽物などではない。かわいそうな彼の記号でもない。いびつで優しい彼の一部だ。十年という時間で、彼が培った姿だ。それを切り捨てて、過去へ戻ろうとしている。それこそが彼らの求める幸せなのであり、
「どうしたんだよ…大丈夫か?」
 私はきっと、それを心から求められない。確信があった。
 ロックオンを、愛しているから。
「…ああ、大丈夫だ」
 低く呟いて手のひらを目元に押し当てる。指先がじっとりと濡れ、押さえきれなかったものがこめかみへと次々流れ落ちていく。大丈夫なはずなのに、嗚咽すら漏れてくる。抑えきれずこぼれおちてくるその感情はただの寂寥であり、きっとすぐに感じなくなるだろう。彼が腕に背を回して、優しく撫でてくれるから。今だけのことだ。
 結局、私はこの体温を手放すことなどできない。幸せにすると言ってはみても、自分のことしか考えられない。
「愛している、ニール」
 自分のことばかりだから、嘘をつくことだっていとわない。けれどきっと、それでいいのだ。彼らは幸せなのだろう。
「…俺もだよ」
 そう言って目尻の涙をそっと拭ってくれる。嘘のない穏やかな声音にゆるく胸が締め付けられる。これが罪悪感というものかと、今になって理解した。
 引き寄せられて、肌が重なる。にじむ体温に距離など感じられない。それなのに、こちらを見つめる深い緑の瞳に、あなたは誰だ、と問いかけたくなる衝動がこみ上げてきて、飲み込んだ。
 今は嘘でも、いつか重ねていくうちに、本当になることを祈った。そうすれば罪悪感も淋しさも消えるだろうか。本当の意味で「大丈夫」になるだろうか。
 私も、幸せだと心から笑えるように、なるだろうか。






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