「…ックオン、ロックオン!」
 語調を強めに呼ばれて、ようやく我に返る。最近は別の名前で呼ばれることも多いせいか、ふとしたときに戸惑ってしまうことがあった。ユニオンに来たばかりの頃を思い出す。あの頃とは少し違うけれど。
「はいはい、聞いてますよっと」
 フラッグに搭乗するとき、いつも填める皮手袋を指先まで通した後、おざなりに口にする。この瞬間ばかりはできることなら誰にも邪魔をされたくない。狙撃手の命ともいうべき、手指を守るという以上意味を気がつけば伴うようになっていた。
 入隊したときの初任給で、験担ぎも兼ねてなるべくいいものを買ったはずなのだが、手の甲や指先に細かい傷がいくつも散らばっている。
 気がつけば俺も、この隊では古株になりつつあった。隊長の人格が個性的すぎることもあり、特に人の入れ替わりが激しい隊であることもさることながら、最前線で戦うことも多いために命を落とした隊員も少なくない。
 隊長が、すれ違いざまに部下殺しと揶揄されたのを目の当たりにしたことがあった。隊長はなにも言わず、表情も変えずそのまま通り過ぎていった。しかし、外野はそれぞれ好き勝手に言うけれど、グラハム・エーカーが隊長だからこそ、この程度の被害で済んでいるのだと思う。部下の贔屓目でみなくとも、彼はこの軍のエースと呼ばれるにふさわしい優秀な軍人だった。
「どうしたロックオン? 昨日の夜のことが忘れられないのか?」
 ―――こうした言動がなければもう少し素直に尊敬できるのだが。しかもこの場合、あまり嘘でもないから反論もしづらい。
 ライルが長期旅行の手配のために外出することが増えたおかげで、二人きりで夜を過ごすことが多くなった。それはいいのだが、最たる原因はティエリアだ。
 明日の仕事にも響くし、そういうことは週末にしようとなんとなく自分の中で決めていたのだが、最近のティエリアはそんなことはお構いなしといった風に誘いをかけてくる。まだ鬱血の痕もろくに消えない肌を晒して、しどけない仕草で俺の中心を握り込んで、
 ―――やべ。
 不意に蘇った昨日のティエリアの姿に、少しだるい下半身がうずく。昨日も結局、誘惑に負けて彼を抱いてしまった。
 ライルからそれとなく、ティエリアの体調があまりよくないのだからと釘を刺されてしまったというのに、俺の理性はどうしようもなく脆い。今のところ頑張っても勝率は50%といったところだ。
 敵も敗北した日はその要因を研究し、あの手この手を試してくるからいっそうタチが悪い。以前はくわえこむだけで精一杯だったフェラが最近になって上手くなってきているのには驚かされた。喜んでいいのかわからない。
 それにしてもティエリアは、あんなにセックスが好きだっただろうか。どちらかというと疲れるから嫌だとか気持ち悪いから嫌だとか言っていた方で、あまり向こうから誘われるということはなかった、気がする。
 むしろ、何かに追い立てられているような勢いで―――。
「…図星のようだな」
「うわッ!」
 気がつけば童顔の隊長がすぐそばまで来ていて、思わず声を上げた。考えごとをしすぎるのはよくない。あの存在感抜群のうちの隊長に忍び寄られるなど、狙撃手の風上にもおけない。
 隊長は猫のように目を眇めて、いたずらっぽい表情を浮かべながら、唇が触れそうな勢いで顔を近づけてささやく。
「勃起しているぞ、ロックオン」
「…嘘!?」
 すでにパイロットスーツを着てしまったせいで、身体の線はあからさまに悟られてしまう。あわてて股間に手をやると、すぐに真顔で隊長が重ねた。
「冗談だ」
「………ッッ!!」
 こみあげてくる怒りと脱力感をどうすべきか扱いかねて、振りあげそうになった拳をきつく握り締めた。この人は時折、こういう類の冗談を口にする。卑猥なことを考えていた俺のことを見抜いたうえで言うからなおタチが悪い。
 しかし隊長はそんなことをまるきり自覚しないような、晴天のごとき笑いを浮かべていた。つかみ所のない言動ばかりのくせに、こういう笑い方をするからずるいのだ、この人は。
「しかし、だ。ここでの女神は誰だ? ロックオン・ストラトス」
「…ユニオンフラッグです! 隊長!!」
「その通りだ。戦場では、このフラッグを誰よりも信頼し、愛し抜き、分かりあえた者のみが生き残る。それまではこのフラッグを君のパートナーだと思え。何なら自慰までなら許可する!」
「しませんよ!!」
 ―――っていうか無理です、隊長。
 周りにいた隊員がすかさずツッコみ、場が笑いに包まれる。全く、演習直前とは思えないくらいの緊張感のなさだ。しかしそれくらいがちょうどいいのだろうと思う。この隊はもうひとつの家族のようで、ひどく居心地がいい。
 だから、ティエリアに責められても、片目を失っても、仇をこの手で倒しても―――やめようという気に、なれなかった。タイミングを失った、といった方が正しいかもしれない。
 手の震えがとまらなくても。胃液を夜通し吐き続けても。悪夢にうなされても。この場だけは嘘みたいに、優しい。だから俺は今まで、ロックオン・ストラトスとして何とか生きてこられたのだ。





 それだけに数日前、隊長の口から言われた言葉に、俺は迷いを覚えていた。
「……俺を、隊長に?」
「ああ。先日の派兵で、隊長格の人間にも何人か欠員が出たからな。そろそろだと思っていた」
 本来は上から許可が出てから明かすべきなのだが、と彼は付け加えて、上からのものらしい文書を指し示す。機密と書かれてはいるが、確かにこの軍のものだった。吹っ飛んだ言動をする相手だが、嘘や適当なことは決して言わない。泥のようなコーヒーをすすった後に、まるで演劇のようにもったいぶって彼はまた、口を開いた。
「若すぎる、という反対意見もあったようだが、私はきみを推薦したよ。きみの周りには人が集まる。変わり者の多いこの軍の人間をまとめるのは適任だろう」
「買いかぶりですよ。俺、そんな器じゃ…」
「器には、なっていくものだ。私とて最初からエースの名にふさわしい人間だったわけではない」
 期待しているんだ、きみには。
 そう付け加えて、隊長はいつものあの、晴天のような笑いを浮かべた。眺めていると、なぜか根拠もなく「大丈夫」と呼ばれるような笑い方だった。俺はこの笑顔に何度も背中を押されて戦ってきたのだ、と今になって思い出した。
 そんな筈はないのに、ずっとこの隊でやっていけると思っていたのだ。隊長の素っ頓狂な言動を諫めて、ダリルやハワードの熱狂に苦笑して、ジョシュアをからかって、たまにカタギリさんに愚痴る。そういう形が、ずっと俺にとって当たり前だったから。
「次の派兵が終わる頃、正式に命が下るだろう。無論、受けるかどうかはきみの自由だ」
「……軍の命令は絶対、でしょう」
「己の覚悟がないものに部下の命を預かる資格はない。少なくとも私は、そう思っているよ」
 そう言って、隊長はあろうことか俺の頭を撫でてみせた。まるで出来の悪い子どもをあやすような触れ方に、俺はどうしていいのかわからなくなった。それが隊長なりの励ましなのだと気づいたのは、操縦幹のタコで固くなった指が離れた後だ。
「色々あったようだが、2号が来てからのきみは本当にいい表情をするようになった」
 2号、というのが一瞬誰のことかわからず、しかしすぐに思い至った。俺と比べられるのをなによりも嫌うライルがよく許したものだと笑う。隊長の、何のてらいのない物言いに弱いのだろう、ライルも。こういうところだけ双子はよく似ている。
「もう、大丈夫だろう?」
 そう問いかけた彼は笑わなかった。空色の透き通ったひとみがまっすぐに俺を居抜き、息が止まりそうになる。
 今になって気づいた。彼はずっと、見ていてくれたのだ。故郷を捨て、名前を捨てた俺を。一丁前に買った新しい手袋の、その下にある手の震えを。どんなに笑っていても拭えなかった淋しさを。それを埋めようと必死になって足掻く様を。仇を討った瞬間の空洞を。幸せになりたいという、おこがましい願いを。全部。
 見ていてくれる相手がいたから、俺はなんとかここまでやってこれたのだ。ひとりでなくなった今でも、それはきっと変わらない。
 ―――隊長の前で泣くのは、三度目だった。





 演習はジョシュアと組んで、隊長と模擬戦をするいつものパターンだった。戦績は2勝23敗という燦々たる結果だったが、なぜだか俺は、とんでもないことを相手に持ちかけていた。
「…もし勝てたら、受けようと思います」
 じっと自分のフラッグを見上げていた横顔が、ゆっくりとこちらに向き直る。それから優しく笑ってくれるまでの、微細な仕草のすべてを見つめていた。まるで惜しむように。
「全力で相手をしよう」
 そう言って、隊長が手を差し出してきたので、あわてて手袋を外して握り返す。その指先にはいくつものたこができていて、彼の積み重ねてきた年月を思い知った。
 こういう存在になりたい、と思う。太陽に似て、誰かをずっと暖めていけるように。泣いたり迷ったりせず、大切な人を守り包み込んでいけるように。
 いつか、俺もそういう人間になれるだろうか。
 この手袋が捨てるしかないくらい、ボロボロに使い込まれる頃には。













 旅行の準備もあるし、休んでいた仕事関係の手続きもしなければならないし、もとより大した戦力でもないがティーの体調はまだ優れない。おかげでしばらくの気ままな生活が嘘みたいに忙しく、合間を縫って三人分の料理を作るのも一苦労だった。
 その貴重な時間のなか携帯端末に呼び出され、たまらず軽く舌打ちをする。忙しくて充電もしないまま放置されたせいで、場所もよく覚えていない。この部屋で鳴っているから、たぶんどこかにあるのだろうが。
「はいはーい、今、出ますよっと」
 いっそ無視してやりたかったが、早く出なければソファでまどろんでいるティーが目覚めてしまう。加熱していた電気コンロを止めて、昨日脱ぎ捨てて転がしておいたジーンズのポケットを探る。案の定指先に覚えのある感触が引っかかったので、強引に引き出すと一緒に小銭が床に転がった。面倒になって転がしたまま、携帯端末を耳に当てる。当ててから、誰宛かを確認し忘れたことに気がついた。予約していた旅行会社からだろうか。



 アイルランドの辺境に足を向けること自体が珍しいらしく、ルートの確保に苦労していたようだ。それでも運が良かったのか、気さくで親身な担当者のおかげか、問題なくチケットをとることができた。
「こんな遠いところまで何をしに?」
 暗に田舎、と言いたかったのだろう。それは間違っていないので、苦笑しながら答えた。本当は誰にも打ち明けていない秘密だったが、旅行会社の社員ならば誰に露呈することもないだろうと思ったのだ。
「…結婚式。故郷で挙げたいと思ってさ」
「それは、おめでとうございます」
 自分よりも年のいったスーツの男に、深々と頭を下げられて慌てる。しかしこの物言いでは誤解されるのも当然だろう。苦笑をにじませたまま、頭を振って更に付け加える。
「オレじゃなくて家族の。色々迷惑かけたからさ、恩返し、したくて」
 有り金はほとんど兄さんに預けてしまったため、大したことはできない。男同士ということで祝福してくれる教会もないだろう。
 それでも、俺たちの育った小さな家で、二人が本当の意味で家族になれればいいと思う。ロックオン・ストラトスではなくニール・ディランディとして。今度こそ幸せになれれば。家族になれれば。
「とても素晴らしいですね。成功をお祈りしています」
 そう言って担当者の男は、オレたちの家からそれほど離れておらず、居心地のいいホテルを探すと約束してくれた。一応三人で家に泊まるつもりでいるが、一日ぐらい夫婦水入らずで過ごすのもいいだろう。もちろんそれはオレのおごりだ。ささやかすぎて、新婚旅行にもなりはしないだろうが、きっと二人は喜んでくれるだろう。
 兄さんが、故郷においてきた辛い思い出や傷を全部上書きしてしまうくらい、楽しい旅行にしたかった。
 今ならそれができると思った。すべてが上手くいくと、信じていた。



 ホテルが見つかったのだろうか。ずいぶん仕事が早いな―――そんな、軽い気持ちで通話ボタンを押す。しかし、端末は何も言葉を発しない。映像も切られているおかげでさっぱり要領を得なかった。
「…もしもし?」
 おそるおそる問いかける。ひっ、と息をのむ音がする。まるで何かに怯えているようで、不安がかきたてられた。心臓がざわめく。嫌な予感がする。
「兄さん、なのか?」
「…ライル」
 低い声音で答えがあり、安堵の息を吐いた。しかしそれは長くは続かない。抑揚のない声音で、淡々と言葉が発せられた。ニュースを読み上げるキャスターの方がまだ感情的で、それが余計に彼の衝撃と動揺を伝えた、気がした。
「俺のミスで、隊長がひどい怪我を負っちまって…今、治療ポッドに入ってる。目が覚めるまでいようと思うから、今日は帰れない。ごめん」
 息をのむのはこちらの方だった。何も言えなかった。それどころか、端末を握っているだけで精一杯だった。足下が震える。酒の席での、屈託のない笑顔がよみがえる。とても信じられなかった。しんじたくなかった。
「…隊長、死んじまったらどうしよう」
「……やめろ」
「俺のせいだ。俺が、隊長を…ッ」
「やめろっつってンだよクソ兄貴!!!」
 端末に向かって怒鳴りつけると、ソファに眠っていたティーが身じろぎする。それに気を取られている間に端末の回線は切られ、それ以上何も言うことはなかった。かけ直しても、電源が切られていると告げるアナウンスが流れるばかりだ。
「あの野郎…!」
 怒りがこみ上げてきて、たまらず小銭の散らばる床に端末を投げつけると、びくりとティーが肩を震わせる。その様にようやく我に返ると同時に、足下から崩れ落ちた。気がつけば、両手足がみっともないくらい震えていた。



 オレと兄さんの故郷に行って、家に戻って、なつかしい場所で二人の結婚式を挙げる。
 ニール・ディランディとティエリア・ディランディが愛を誓って、二人は本当の意味で夫婦になって、兄さんも、ティエリアも、オレも笑っていて。幸せで。
 幸せになれると思っていた。今度こそ。
 何もかも取り戻せると、思っていたのに。

 ―――どうして。