今日はひどく暑くなるでしょうという予報を聞いて、まず兄さんが顔をしかめた。パイロットスーツは蒸れんだよなぁ、とため息をついた後、サラダボウルの底にあったトマトをさらった。ディスプレイから目を放さぬまま、トマトをティーの皿へと分けてやる。
 奇しくもティーのサラダボウルはトマトしか減っていなかった。そして兄さんがトマトを取り分けたせいで、ボウルの中身は振り出しに戻る。ティーもまた表示された気温に眉を寄せながら、当たり前のように取り分けられたトマトをかじった。妙なところに息の合っている二人に軽く感動を覚えながらも、オレは先ほどから別のことが気になって仕方がなかった。口を開くかどうかを少しばかり迷って、意を決してフォークを置いた。それがテーブルに当たるかつんという音は、では次のニュースです、というアナウンサーの通りのいい声にかき消される。
「…どっか悪いのか? ティー」
 しかし、オレの声はダイニングによく響いた。テレビを見入っていた二人が同時にこちらを向き、同時に目をまるくする。そのタイミングのよさになぜかこちらが恥ずかしくなりながら、少しうわずった声で付け加えた。
「さっきからトマトしか食ってねえだろ。なんかまずいもんでも入ってたか?」
「……今朝は食欲がでないだけだ。心配には及ばない」
「心配すんなったってなあ…風邪か何かか?」
 そのときのオレは心の底からティーを心配し、彼の紅茶色のひとみを真摯に見つめて問いかけた。ティーはオレのそんな気持ちを汲んでくれ、限りなく真剣にオレの問いかけへ的確な答えを与えようとしていた。おかげでオレは気づくことができなかった。ただ一人兄さんだけが頬を赤らめてぎこちなく視線を逸らしたことに。
 そして数十秒後、オレは自身の問いかけの愚かさに深い後悔を覚えることとなる。
「寝不足に加えて、下腹部に違和感はあるが、今に始まったことではない。心配しなくても…、」
「…ちょ、ティエリアっ!?」
 兄さんの声がひっくり返り、場の空気が凍り付く。オレも衝撃と羞恥のあまり、思わず握りしめていたフォークを取り落としてしまった。このむずがゆい恥ずかしさは、たとえるならば、年齢一桁の愛娘に赤ちゃんはどこからくるの?瞳を輝かせて問いかけられた瞬間のお父さん、といった感じだろうか。
「お前ほんっと何言ってンだよばか!」
「馬鹿とはなんだ! 本来ならば四時には眠れるはずだったのに、あなたの精液が入り込んだせいでかきだすのに時間がかかったんだ!!」
「朝からせーえきとか言うもんじゃありません!」
 目の前で繰り広げられる、微妙にかみ合わない口論に乾いた笑いしか浮かばない。一向に減らないサラダボウルを見て、体にいい食材や食欲のわくメニューをあれこれ考えていた自分がばかばかしくなった。言わんでいいことを口に出すティーのどうしようもないズレ方は日常茶飯事になりつつあっても、次の日に仕事があっても朝四時まで引っ張り、あげくに中出しまでやらかす我が兄のどうしようもなさに目眩がする。戸籍上は父親だというのに猿以下の態度には呆れるしかない。できれば知りたくなかった事実だ。
「…オレってかわいそー」
 まだ危険な単語が飛び交っている二人の会話を後目に、思わず小さくつぶやいてしまった。取り落としたフォークを握り直すが、とても食事を続ける気になれない。
 あんな猿のためにはるばるアイルランドからここまで来たのかと思うと悲しくなってくるので、強引に思考を切った。体調が悪いわけではないのだからよかった、と色々なことを無理矢理ダストボックスに突っ込んで、結論だけを出して自分を納得させる。
 つけっぱなしのテレビから時報が流れる。そろそろ悠長に飯を食っていられる時間ではなくなってしまった。オレは深くため息をついて、バカップルのばかばかしい口論を終わらせるべく口を開く。
「兄さん、時間」
「…え? もうこんな時間?」
「そうだよ。とっとと仕事行け、この万年発情期猿」
「おま…、兄貴に向かってそういうこと言うな!」
「言われたくなきゃ相応の行動をするんだな。ほら、蹴り出されてえのか?」
 言葉と同時に、蠅を追い払うように腕で追い立ててみせると、しぶしぶテーブルから立ち上がる。隣に座っていたティーがそれを視線で追いかけ、それから当たり前のように触れるだけのキスをしていた。もうこの程度では何も感じなくなっているから恐ろしい。
「じゃあな、いってくる」
 そう言った後に、大きな手のひらがティーのまるい頭をひと撫でして、それから離れていく。その触れ方は優しくみえて思わず口の端をつり上げた。
 呆れるほど仲がよくて、二人でいるのが当たり前のようで。幸せというのは、たぶん、こういうものを言うのだろうと思う。家族、故郷、名前―――色々なものを失い続けた男が、ようやくの思いをして手に入れたのだ。
 だから、少しくらい愚かに見えても見逃してやろうと思う。
 幸せなのだ、兄さんは。
「…いってらっしゃい、ニール」
 ティーが、ひどく穏やかな声で口にする。
 幸せなのだ。
 ―――ニール・ディランディは。






 最近のティーの昼食は、食事の前後で間違い探しをするのに苦労する。
 今日はニンジンが少しばかり減っているだけだった。昨日より更に食べる量が減っている気がする。ここのところの暑さで食欲が失せているのだろうか。他人の性生活に口出しをする趣味はないが、もうしばらく続くようなら自制するように言った方がいいかもしれない。というより、なぜティーは言わないのだろう。どんなに発情期の雄のような兄さんでも、体調に関わることならばさすがに控えるだろうに。
 彼氏がゴムをつけてくれない、と悩んでいた女友達を不意に思い出した。話を聞いた当時は、オレは最低にもこっそり彼氏の方に同意していたのものだが、今になってようやく女友達の気持ちを理解する。快楽も重要だが、それ以上に忘れてはいけないものだってあるのだ。
 昼過ぎには予報通りの容赦のない日差しが部屋の中にも差し込んできて、耐えきれなくなったティーが設定温度を下げようとする。極端な性格の彼はいきなり限界まで低くしようとするので、あわてて人並みの温度へと切り替えた。冷蔵庫のように冷えきった居間のソファにぐったりと横になって微動だにしない有様を見て、原因が原因とはいえさすがに心配になった。
 そうでなくとも、最近のティーは元気がないように思える。何か物思いにふけってぼうっとすることが多くなり、キッチンを何度も火の海にしかけたので、実践派のオレもさすがに料理を禁じている。そういった態度に反発をするでもなく、うすく笑って、すまない、と言うだけの反応にやはり違和感を覚えていた。
 ティー専用のマグカップにシナモンを利かせたホットミルクティーを注ぎ、横たわっている相手の側に置く。甘い匂いに誘われたのか、もぞもぞと猫のように身体をくねらせて身を起こした。コットンシャツの袖から伸びている腕はどこか頼りない。最近になって少し細まってしまったのかもしれない。
「…身体、大丈夫か?」
 なんとなく問いかけるのに照れくさくて、つい言わなくていいことまで付け加えてしまう。
「嫌なら嫌って言っていいんだぜ? あいつ猿だから言わねえと分かンねえだろ」
「…猿とはなんだ?」
 マグカップをもって首をかしげる姿に脱力を覚えた。ティーのこの疎さは一体なんなのだろうか。彼の育ちの話はそういえば聞いたことがないが、もしかしたらいいところのお坊っちゃんか何かなのかもしれない。そんな相手にこんな言葉を教えるのもためらわれたが、少しは世間に染まってもらわねばなるまい。
「……しつこいドスケベのことを巷では猿って言うんだよ。覚えとけ」
「ああ、今朝のことか」
 まるで他人事のようにくすくすと笑う。その喉元に赤い鬱血の痕が見える。彼の肌が白すぎるせいで痛々しさすら覚える。まるで虐待されたこどものようだと、ひどいことを思ってしまった。
「いいんだ。僕には、これしかできないから」
 ミルクティーの淡い色の水面を眺めながら、ため息をつくように言った。その諦めにも似た態度にオレは何もいえなくなって、しばらくの間、沈黙が続いた。部屋は冷えきっているはずなのに、肩口に差し込む日差しが着ていた黒いポロシャツを炙って暑い。そこだけ火がくゆっているようだ。
 ティーは口元から笑みを消して、不意に真面目な顔をした。その視線のまっすぐさに一瞬、たじろぐ。
「…僕は、きみの家族を幸せにできているだろうか」
 予想のしていない問いかけにまた反応しそこね、彼はすぐにつまらないことを聞いたな、と苦笑を浮かべる。セックスを匂わせられても子どもとしか思えなかった相手が、その仕草だけ急に大人びていた。
 初めてこの家に来たとき、このソファでシャツ一枚をまとって兄さんの膝に甘えていた少年が、迷いがちにしあわせを口にしている。それゆえに、オレはどういった態度をとればいいのかわからなかった。乾いていきそうな舌をなんとか動かして、ぎこちなく言葉にする。
「大丈夫」
 口にしたら、言葉を覚えたての子どものようなたどたどしい響きになってしまって焦った。
「オレは…ここで兄さんがどう生きてきたかなんて、わかんねえけどさ。こんな遠いとこで、名前も捨てて、人を殺して生きるってたぶんすげえキツかったと思う」
 オレが仕送りの金を使ってアイルランドでのうのうと生きている間にも、兄さんは見知らぬ土地でフラッグに乗って戦い続けていたのだ。何でも飲み込んでしまうような強さを持つ天使様とは違い、人並みの優しさと人並みの弱さしか持ち得ないオレの家族が、どうしてこんな生き方を選んだのかは分からない。
 それでも、何も感じないはずはないのだ。不条理に家族を奪われた人間が、今度は奪う側になるかもしれない。何も感じないでいられるような奴ではないことくらい、オレが一番知っている。
「でも、あいつは変わってなかった。ニール・ディランディのままだ。それって、お前のおかげなんじゃねえの?」
「ニール…」
 口の中でティーが、兄さんの名前を繰り返す。
 このところ、ティーは兄さんのことを新しい名前では呼ばなくなっていた。兄さんもそれを何も言うことはなく受け入れていたので、オレも何も言わなかった。言う必要もないと思った。
 実を言うとうれしかったのだ、オレは。彼が馴染んだ名前を呼んでくれることで、オレたち家族の中により深く入り込んでくれる気がして。まるで父さんと、母さんとエイミーがいた頃に戻れたかのようで。
 十年前のテロで何もかもを失ったと思っていた。けれど、いびつでも取り戻せるものはあるのだ。死んだ人間は生き返らないが、生きている人間がそれを反復することはできる。囲む食卓のあたたかさも、頭を撫でる手のやさしさも何も変わらない。
「……そうだろうか」
「そうそう。だからもっと自信持つこった。疲れてんだよ、お前は」
 うつむいている頭をそっと撫でてやると、そうかもしれないな、と言ってティーが口元をほころばせた。やはりもう様子を見るのはやめて、兄さんに自制するよう注意を促した方がいいかもしれない。せめてもう少し涼しくなるまでは。
 もしそんなことを言ったら涼しい場所に旅行に行こう、と言い出しかねない。かえって逆効果だろう―――そう思って、口元に苦笑をにじませた。
 そこでふと、ある思いつきが頭をよぎる。元気のないティーが少し元気になれるような、涼しい場所。ついでに兄さんも喜ぶだろう。
 一度思いついたら、ものすごい妙案のように思えた。今すぐ荷物をまとめさせて、チケットを手配して、仕事帰りの兄さんを拉致して飛行機に乗ってしまいたいくらいだ。
 しかし、現実にそううまくはいかないと分かっていたので、手始めに口に出すことから始めることにする。

「アイルランドに行こうぜ、ティー」

 ティーの赤いひとみがまるく見開かれる。唐突な提案に驚いているようだった。当たり前だ。いつものように、近所でやっているサッカーの試合を見に行こうだとか、兄さんを迎えに行こうというオレの気まぐれとは訳が違う。兄さん曰く、突然東の経済特区まで友人を連れていったこともあるようだから、案外抵抗は薄いのかもしれないが。
「今の時期、ここよりは涼しいと思うぜ。メシは全体的にまずいけど、オレがいい店教えてやるよ。ユニオンとは色々違って面白いし、何より―――、」
 オレが数年間で培った商社マンとしての営業力をフル活用しなくとも、ティーが食いつくような売り文句を考えつくのはたやすい。
 一緒の家に住んで、テーブルを囲んで食事をする家族なのだから。
「兄さんとオレの家、見たいだろ?」
 鼻先に指を突きだして笑ってみせる。そうすればティーは途端に目を輝かせて、何も言わずにこくんと頷く(彼は本当に興奮すると口数が極端に減るきらいがある。通販番組を見るときは一言もしゃべらないことがよくあるので)とばかり、思っていたのだけれど。
「…それもいいな」
 微笑を浮かべての妙に冷静な反応に、若干拍子抜けをした。疲れが抜けないのだろうか。どうやら今のところ、盛り上がっているのはオレだけらしい。明け方までティーの身体を酷使させた兄さんを改めて恨んだ。
 しかし、拒否されたわけではないのだと思い直して、この妙案を進めようと密かに決意する。
 オレと兄さんとティーの三人で、あの懐かしい家を見る。その風景はとてもいいもののように、思えたのだ。




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