それは彼の蔵書のひとつから見つけたものだった。
 電子化が普及した今でも、彼はいまだに紙媒体の書物にこだわり続けている。場所も取れば劣化もするし不便だろうと言ってはみたが、紙の匂いやページをめくる音が好きなのだそうだ。彼のそんな骨董趣味はよく理解できない。
 古典とも言うべき時代の小説を暇つぶしにめくっていると、ページの隙間から紙がこぼれ落ちた。分厚くしっかりとした作りの紙だったが、それでも劣化は隠せない。だから電子化しておけと軽く呆れていたのだが、拾い上げた紙につい目を奪われた。
 それは唯の紙ではなく、写真だった。十代前半の少年と少女が並んで映っている、それだけの写真だ。あどけない笑顔を浮かべている二人の顔立ちは良く似ていて、血縁関係にあるのだと容易に推測できる。このご時世にデータでも電子ペーパーでもなくわざわざ出力してあったことに彼の骨董趣味を感じ、本と同様に隅が劣化し変色していたことに呆れた。
 だから、ほんの気まぐれだったのだ。ちょうど以前読んだ雑誌の内容が頭に蘇ったせいもあった。うろ覚えの知識だったが、詰まればビリーがヒントをくれた。毎日こちらへ送る写真を加工しているだけあり、いつの間にか、彼の技術は僕どころか雑誌のそれよりも熟達していた。客観的に見ても多彩な友人だと感心させられる。
 ならば、最初からその友人に依頼すれば良かったのかも知れないが――何故だか、自分でしようと思ってしまった。写真の加工など専門外であり、思うよりも長い時間を要した。しかしデイトレードやプログラミングの時間がすり替わっただけだと思えばそれほどでもなかった。本当に気まぐれに、暇を潰す手段として用いただけだ。時間は有り余るほどあった。何より、すっかり綺麗になった写真を見て、彼が目を見開く。その有様は何故だかとても僕をいい気分にさせた。
 そうして、自分の手で修復した写真は良い出来だと言えた。気に入らなければ密かに破棄するつもりだったが、今回は出力してやることにした。これならば、窓際に飾ってある僕の写真の隣に置いてやってもいいと思った。幸い、出力紙はロックオンがこれを出すときに使った余りが残っていたし、色も鮮やかに出る最高級のものだった。僕の努力の結果を突きつけるには最適だ。
 これを見て、あの青緑の双眸が見開かれる。予想だにしない完璧な仕事に驚愕した後、穏やかに目が細められる。それを想像すると胸の辺りが変にざわついた。早く見せてやりたくて無駄に気が急いた。彼と居るようになってから、時間の経過すら上手くコントロール出来ないでいた。たかだかプリントするための時間すら惜しく、堪えきれずに雑誌を読んでいた彼を呼んだ。
 予想通り、彼は目を見開いた。写真の出来というよりは、予想だにしなかった画像に驚いているようだった。どこでこれを、と訊かれたので蔵書名を答えると、ひどく動揺したように視線をうろつかせた。
「お前が、どうして…」
 しかし、待てども彼の目が穏やかに細められることはなかった。いつまでも動揺しているままで、むしろその双眸には困惑すら浮かんでいた。彼がホロモニターを少しも見ようとしないのに気がついたとき、初めて僕が望んだような反応は与えられないのだと気づいた。
「ロックオン、これは、」
 写真にかけた長い時間も、完璧な仕事が無駄になったこともどうでも良くなった。唯ただ僕は、彼の反応に困惑していた。胸が困惑に満ちて初めて、僕は彼を喜ばせたかったのだと気づいた。それが与えられないのだと知って、どうしたらいいのか分からなくなった。理由のひとつすら口にすることが出来ず、唯ロックオンがいなくなってしまわぬよう服の裾を掴んでいた。
「違うんだ」
 口にしたものの、何を言いたいのかも分からなかった。額を抱えてため息を吐き出す、彼を見ていたくなかった。けれど黙っていなくなられるのはもっと嫌だった。だから目をそらしながら、裾を握る指の力を強くした。柔らかくこなれた麻のシャツに皺が出来る。しかし、どれだけ強く握っても彼の双眸には既に僕は映ってはいなかった。






 誰かの気配を感じて意識が浮上した。背中や首筋が汗で濡れていた。何か悪い夢でも見ていたのだろうか。毛布も掛けずソファで眠っていたせいで、すっかり身体が冷えている。誰の匂いもしない冷たいベッドに戻るのはなんとなく億劫で、ソファの上で横になっているうちにそのまま眠っていたようだった。
 ぼんやりとした意識で気配のもとを探すと、手のひらが強く握られる感触がした。冷えた身体の中で唯一そこだけが熱を感じ、浸み入って心地よい。首だけをもたげてそこを見やると、青緑の双眸があった。
 じっとこちらを見つめるだけで、何も言おうとしない。そのせいで、まだ自分は夢を見ているのだろうかと思った。そうしているうちに、くちづけられる。まどろみにたゆたったままそれを受け入れた。首筋に手を回すと、柔らかい彼の髪に触れる。馴染んだ匂いと知らない匂いが入り交じって零れる。触れるたび他人の高い体温が滲んでいく。
 これだけ存在を誇示されても、はっきりと現実だという確信が持てなかった。だって50日以上も離れていたのだ。何度か電話で話をしたが、それでもここまで会わないでいたのは初めてだった。暮らした家にひとりでいると、二人でいた頃の生活が全て夢だったのではないかと思えてくる。彼の匂いや気配の薄れた家は、しばらく離れていたこともあって、酷くよそよそしかったから。
 だから、声を聴きたかった。名前を呼んで欲しいと思った。そうすれば眠っている部分も全て目覚め、現実だと認められる気がした。しかしはっきりとそうせがむのは憚られて、手を握る力を強くする。しかし、いつもは口にしなくとも意図を汲み取ってくれる筈の彼は、唯口付けを深くするだけだった。
「…ん」
 柔らかい舌が歯列をなぞり、逃げがちな舌を引き出される。粘膜を浸食されるような感覚と、皮膚越しとは違う熱さに反応して、無意識に腰を寄せた。半分眠っている意識が理性の膜を剥いだせいで、身体がいつもより素直に反応してしまう。ぼんやりとした頭に快感だけを与えられると、何も考えられなくなった。それが恐い。
 唾液の絡む生々しい音も、濡れていく唇も確かに彼がそこに在ると示している。それでも沈黙を恐ろしいと感じるのは我が儘なのだろうか。目覚めてから抱えている得体の知れない不安を、僕はいつまでも引きずっていた。
 唇が離れ、口の端から唾液がこぼれる。そうして濡れた唇を舌先で軽く拭うのは、キスのときの彼の癖だった。やはりそこに彼はいるのだ。確信を得た途端に、感情が溢れて息が詰まる。言いたいことは沢山あった。聞きたいことも沢山あった。けれど首や鎖骨を辿る唇が、感覚が、それを奪っていく。
 彼の頭から指を抜き、覆い被さる胸を軽く押した。そこでようやく彼の動きが止まる。出来た隙間の分だけ冷静になれればいい、と思うのに、どんな表情を選び取っていいのかすら分からない。
「…帰って、きてたのか」
「ああ、ついさっきな」
 そう言いながらシャツのボタンに手をかける。ぷつりと三つ目のボタンまで外されたところで身を固くした。彼は少しもこちらを見ようとせず、その代わりに指ばかりが身体を這い回った。はだけた胸を軽く吸われると、赤い鬱血の痕が残る。やはり夢ではないのだと思った。それを確かめるための手段が彼とは少し違うのが哀しい。肌を這い回る指から、滲んでくるじれったい感覚に耐える。快楽でますます麻痺していく頭で、なんとか声を紡ぎ出した。
「ロックオン、」
「どうした? ソファじゃ嫌か」
「違う、あなたに…言いたいこと、が…ぁっ」
 胸の先端をしつこく刺激されて、言葉が上手く言葉にならない。優しく撫でられたかと思えば痛いくらいに抓まれて、与えられる感覚に翻弄された。
「ごめん、後にして」
「や…ぁ」
 ふるふると頭を振って訴えても、ロックオンは胸から顔を上げなかった。その代わり、途切れることなく甘い感覚に襲われる。優しいなら優しいままで、痛いなら痛いままでいてくれればいいのに、そうすればいつか慣れるのに、意地の悪い刺激が腰の辺りを熱く重たくさせる。意図しない声に言葉が遮られる。こんなことがしたいのではないのに。
「ひぁっ、うぅ、」
 不意に舌で片方を吸われて腰が跳ねた。その隙を狙って下着ごとパンツを下ろされる。何度繰り返しても、充血した下肢を露出させられるのはたまらなく恥ずかしい。彼はそんな僕のことなどおかまいなしに好きなだけ弱い部分を蹂躙しようとする。いつもはさして気にならないことが、今は何故だかたまらなく淋しいと思った。目尻から涙がこぼれて耳の辺りを濡らす。彼に縋り付きたくて手を伸ばしても、下半身に顔を伏せているせいで届かなかった。身を起こして触れようと思った瞬間に、先端の割れ目を舌先でなぞられる。脳髄が焼き切れてしまいそうな、強い刺激に身悶えするしか出来ない。動物的な啼き声がひっきりなしに喉から漏れる。彼とのセックスが久しぶりなせいで、身体がいつもより過敏なのだ。
「や、あっ、あぁ」
 生ぬるい口腔に強く吸われると、それだけで達しそうになった。快楽に押しつぶされて、何も考えられなくなる。言葉が奪われる。思考が奪われる。何もかもが奪われて、彼でいっぱいになる。以前はそれを望み、彼を求めた筈なのに、今は恐くて仕方がない。僕が僕でなくなるのが恐い。一方的に奪われるのが恐い。こちらを見て欲しい。名前を呼んで欲しい。言葉をもっと聞かせて欲しい。


あふれ出てくる欲求は伝わらないまま、彼は私を蹂躙して侵入してその中に吐き出した。伝えなければならないことは一つとして伝わらないくせに、与えられる刺激に飢えて悦ぶ浅ましい身体に憎悪すら感じた。




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