―――どれくらい、眠り続けていたのだろう。
 食事も、呼吸すら億劫で、ひたすら眠り続けていた。処方された眠剤を初めて飲んだときの、あの身体が重くなる泥のような眠りに似ていた。不幸か幸いか、夢は何も見なかった。もしかしたら忘れてしまっただけかもしれない。
 壁にかかった時計を確認すれば、まだ日付も変わっていない。眠っていたのはせいぜい10時間弱といったところか。
 ティエリアがそろそろこの部屋にくるかもしれない、と頭をよぎったところで、眠りにつく前のやりとりが鮮明に蘇ってくる。優しさに甘えて強引に犯そうとしたことや、ソファの上でぼろぼろと泣いている彼の姿を思い出すと、本気で自分を殺したくなった。しかし現実にはその勇気も持てず、だらだらと生きながらえている。
 そもそも、この俺が何故五体満足で、隊長が怪我をしなければならないのか。今右目を差し出せば何もかもなかったことにできるなら、喜んで抉ってでも差し出したいと思った。二度とフラッグに乗れなくなったとしても構わなかった。生き延びる手段でしかない俺とは違い、隊長にとって空を飛ぶことは誇りでありすべてだ。あの軍に隊長は欠かすことができない。ユニオン軍のエースであるグラハム・エーカーが飛べなくなってはならないのだから。俺などよりもずっと必要な存在なのだ。
 何度目かわからない重いため息を吐き出して、寝返りを打つ。長く眠りすぎたせいですぐには寝られそうになかった。早く意識とともに落ちるばかりの思考を手放してしまいたいのに、それすらもままならない。
 派兵から戻ってすぐの夜も、こんな感じだったと思い出す。今はそれよりも遙かに状態は悪化しているのだけれど。長い夜を懸命に慰撫してくれるティエリアもいなければ、朝を迎えれば大丈夫だ笑いかけてくれる隊長もいない。すべてが俺のせいで。
「………ッッ!!!!」
 気が狂いそうな衝動にかられて唇を噛みしめ、頭をかき回す。思い切り叫びたいのに喉から声を絞り出す気力もない。頭皮に立てる爪の痛みだけが鮮明で、それが余計に逃げ道をなくす。やさしい眠りは、訪れないままで。
「兄さん、」
 ―――重苦しい空気が滞った寝室に、ノックの音が響く。びくりと身体を震わせ、身を固くした。何も応えない俺に構わず、寝室のドアが開いて外の灯りが差し込んだ。ともに伸びる長い影はきっと、入ってきた男のものだ。そこでようやく寝室にロックをかけ忘れていたことに気がつく。
 すぐに後ろ手でドアが閉められ、再び部屋に闇が戻った。そして近づいてくる気配に怯えた。俺が起きていることに気づいているのかいないのか、相手はベッドの縁に乱暴に腰掛ける。二人分の体重を支えてベッドが弾んだ。その動きすら追ってしまう。
「起きろよ。話、しようぜ」
 無遠慮に肩を揺さぶられ、身を転がされる。その拍子に視線が絡み、起きていることを悟られてしまった。この適当さでは最初から分かっていたのかもしれないが、なんとなくばつが悪い。薄闇の中で自分と同じ色の瞳を軽くにらみつけ、たった今覚醒したという風にけだるそうに瞬きをしてみせた。
「…話って何だよ」
「大事な話だ。第一回ディランディ家・家族会議」
 それにティエリアも含まれているのか、と問いかけようとしてやめた。どちらにせよ、今は彼に合わせる顔がない。彼の泣きはらした顔を見ても、気丈に笑おうとする顔を見ても、罪悪感にかられることは分かりきっているから。
 寝返りを打って、ライルに背を向ける。大人げないと分かっていたけれどもう、今更だ。
「イヤだね。そんな気分じゃない」
「そう言うなって」
 薄く笑うときの声音で彼は応えて、次の瞬間、またスプリングが軋む。何かと思えば、ライルがベッドの中にまで入り込んできたのだった。セミダブルのベッドとはいえ、比較的華奢な体型のティエリアとは違い、ライルが入ると少し手狭だ。他人と距離をとりたい今の気分ではなおさらそう思えた。思わずベッドの縁に逃げを打とうとしたら、腕が伸びてきて頭をとられる。食器洗い用洗剤のにおいのする冷たい手が、俺のまぶたをふさいで、もう一方の手に優しく後頭部を撫でられた。そのやさしい手つきに鼻の奥が痛んだけれど、今泣いてしまったらすぐに悟られてしまうので堪えるのに必死だった。
「…さわんな。気持ち悪ィ」
「こうしたら近づけるって、ティーが言ってたから」
 わしゃわしゃと乱暴に頭をかき回し続ける手は、深く沈んでいくばかりのこころに直接触れて俺を揺さぶる。そうしてわき起こる感情の名前を、俺はたぶん、知っている。
「…なんだか、ガキの頃みてえだな」
 俺が答えにする前に、ライルが先に口をした。母親に追い立てられてベッドに入り、それでもまだ眠りたくなくて、隣にいるライルとくだらないことをずっと話していた。夜が長いのも朝が訪れるのも少しも怖くなかった。となりにライルの体温や声があったから。俺たち二人の間には距離なんてない、と本気で信じていた。ずっとずっと、昔の話だ。
「なつかしい、」
「…ああ」
 頭を撫でる手を止めて、ライルがそっと俺の耳をふさいだ。片耳はシーツによってふさがれて、視界もふさがれてしまっている。俺の耳を押さえつけるライルの、血の流れる音しか聞こえない。しかしそれは不思議と、心地よいと思えた。
 しばらくその心地よさに身を任せ、穏やかな静寂に甘えていた。しかし、耳をふさぐ指に少し力が入り、ライルが言葉を続ける。何度も迷った末に、ようやく、といった風に彼は告げた。

「オレたちの家に帰ろう、兄さん。ティーも一緒に」

 ふさがれた手の下で、目を見開いた。まつげの動きでおそらく相手にも悟られただろう。ライルも緊張しているのか、心なし距離が近づいた。肌がほとんど触れそうな近さで、消え入りそうな声で、ライルが続ける。
「アイルランドで、三人で暮らそうぜ。あっちでホワイトカラーっていうのも悪くねえだろ。ティーを学校なんかに行かせたりしてさ。そういう、ふつうの。昔みたいな」
「何、言って…、」
「言っておくが本気だぜ。最初から、できたら兄さんとあっちで暮らせればって思ってた。ティーがいたし、こっちの暮らしが性に合ってるみたいだったから一回は諦めたけど、」
 は、と短く息を吐いてから、ライルがまた勢いよく続ける。今までため込んできた感情をいっぺんに吐き出すような所作だった。
「でも、こうなっちまったら話は別だ。オレは兄さんたちを連れていく。天使様に恨まれても、ユニオン軍の戦力がガタ落ちしても知ったこっちゃねえ」
 逃げようとしていた単語を出されて反射的に身をすくめると、耳を覆っていたてのひらがまた、頭を撫でてくれた。恐怖をすべてぬぐい去ってくれるような、力強い手のひらだった。覚悟はもう、できているのだと分かった。幸せの甘さに酔うだけの俺とは違っていた。だって俺はまだ揺らいでしまっている。
「だからって、逃げるわけにはいかねえだろ。違う国で、俺たちだけ幸せってわけには…」
「オレは、兄さんとティーがよけりゃいいよ」
 それはお前が部外者だから言えるんだ、とはねつけるべきなのかもしれなかった。自らの淋しさに耐えられず、俺をこの家に閉じこめたがっていたティエリアにはそうやって教え込んだ。狭い世界を愛すあまり、周りを見ようとしなくなってしまうのは、何かが違うと思っていたからだ。
 けれどライルのそれは単純で幼い欲求ではない。周りを見渡して、その優しさあたたかさを理解してなお、切り捨てて狭い世界を選び出した。彼にはきっと、相応の覚悟はできている。だから何も、言えなかった。
「幸せになるんだよ、今度こそ」
「……ライル」
 意志のこもった声音を聞き、もう引き返せないのかもしれないと思った。俺が望んで作り出した流れは、ティエリアやライルを巻き込んで飲み込んでいった。それがどこに流れ着くのか、少し考えればすぐに分かることだったのに、俺は敢えて考えないでいた。俺にはきっと、ロックオンとニール、どちらを選ぶかの覚悟すらできていなかった。
 流れのままにニールでいようとして、壊れて。それでもまだ選択をする覚悟はあるのか。この俺に。
「とりあえず、明日の朝ティーには話すから。ちゃんと起きてこいよ」
 そう言ってライルはベッドから這い出る。ひとり分の体温が消えたベッドは少し淋しく、結局は誰かにいてほしかったのだ、と気づいて呆れた。やはりロックのかかっていないドアが開いて、また部屋が一瞬だけ明るくなる。それが閉まる一瞬前に、ライルがこちらを振り返った。逆光で見えにくかったが、彼は珍しく真剣な顔で一言だけ言い残した。
「朝メシ作って待ってる」
 その言葉が真剣な面持ちと噛み合わず、つい口の端をつり上げる。そこでようやく自身の空腹感に気づかされた。そういえば昨日から何も口にしていない。きっと明日の朝食は、おいしく食べられるに違いない。








 寝室のドアが開く音がして、慌てて様子を見にソファから立ち上がる。ドアを閉めたライルがこちらに気づいて笑い、やっと聞き取れるくらいのボリュームで、もう大丈夫だから、と口にした。そうはいっても彼を怒らせてしまったことには変わりないが、とりあえず安堵の息を吐く。同時に、やはりライルにはかなわないのかもしれない、と思い少し淋しくなった。
 彼にきちんと眠れるように、当たり前に笑えるようになって欲しかった。それだけのことが僕にはできない。彼は大丈夫だと嘘をついて笑みをかたどるばかりで、パスケースには密かに眠剤を隠していた。そんな彼を本当の家族はあっさりと癒してみせ、幸せになりたいと前向きに望むようにまでなった。
 好ましい変化だと思う。彼はとても優しく、温かいひとだから、望みさえすれば幸せになれるだろう。彼はそこに僕も招き入れようとしてくれる。ライルと、自分と、三人で幸せになろうと言ってくれている。
 それなのに、どうして僕はこんなにも不安なのだろう。ニール、と呼ぶたびにどこかがすり減っていく気がして、振り返って笑いかけてくれる彼を遠く感じる。彼に幸せになって欲しいと願っていたはずなのに、彼がありたいと願う幸せに同意できない。そんなことだから、彼が本当に傷ついているときにはいつも無力なのだろうか。
「ちぃとばかし早いけどオレも寝るわ。おやすみ、ティー」
 ぱたぱたと手を振りながら、寝室から離れて居間の方へ向かおうとするライルの背を引き留めた。シャツの生地をつかんで額を押しつけ、見えるはずもないのに反射的に紅潮していく頬を隠そうとする。こんなことを直球で告げるのには躊躇いがあったが、ほかに言い方がわからなかった。彼ならばもっとうまく言うのかもしれないし、こんな風に言わなくともライルは察してくれるのかもしれない。けれど、自分の言葉で伝えるしかできなかった。
「み、みみ…」
「み?」
 緊張で舌がもつれてうまく言葉にならない。ライルに怪訝そうな声で聞き返され、更に頭が白くなっていく。慌てて深呼吸をした後、縋るようにシャツの生地が伸びそうなほどに強く握りしめる。窮屈だろうに、相手は何も言わずに辛抱強く待っていてくれた。そのおかげで、なんとか一度は凍り付いた唇を動かすことができた。
「耳、を…塞いでいて、くれないか。きみに、きっと、迷惑を…その、」
 しかし、途中から言葉がぼろぼろと崩れ落ちていく。頬の熱が耳や首筋にぽわぽわと広がって少しも冷静になれない。こんな言葉では伝わらない。わかっているのに、うまくいかない。しまいには泣き出したい心地になって、シャツをつかんだまま俯いた。
 羞恥心と混乱の結果に生まれた奇妙な間の後に、彼がたまらずに吹き出す。予想外の反応にびくりと身体を震わせると、悪い悪ィ、といって背中から僕を引き離し、強引に顔を上げさせられた。まだそこかしこに赤みが残っていたが、それを見られて恥ずかしいと思う余裕すらなかった。
「あーあ、耳まで真っ赤。可愛いな、ティーは」
「…す、すまない」
「可愛いっつってんのに、謝るなよ。で、何? オレは耳栓でいいの? 外出てった方がいい?」
 相手の察しの良さに安堵する一方で、憔悴の激しい兄の代わりに方々へ頭を下げに行ったり、手続きをしてくれていたライルを、追い出して外泊させる罪悪感に胸が痛む。迷いのあまり沈黙を守っていると、ライルはぽんぽんと僕の頭を撫でた後、ダイニングテーブルに置いてあったランチアのキーをつかんで玄関に向かった。その動きの素早さに、引き留めるタイミングが遅れた。
「あ、ライル…!」
「めんどくせえ兄貴の相手して疲れたから、ちょっくらドライブしてすっきりしてくるわ。二時間くらいで戻ってくっから、その間兄さんのことよろしくな」
 よろしく、の辺りの語調が強く、含みを持っていたような気がするのは気にし過ぎだろうか。羞恥心で頭がうまく回っていない上に、自意識過剰になっている。
 ―――きみの兄とこれからセックスをするので聞かないでいて欲しい、なんて。言えるはずもない。
 初めて会ったときは事後の姿を見られても何とも思わなかったのに、今は声を聞かれるだけでも死にたくなる。どうでもいい相手のままだったなら、別にどう思われようが構わない。しかし今は違う。ライルは大切な家族だった。
 だからことを始めるときには、いつも必ずライルに話を通しているかを確認してきた。けれど僕がそれをするのは初めてだ。彼がするようにさりげなくライルに悟らせるといった芸当などはできるはずもなく、結果的にこうして相手の理解力に期待するような話し方しかできない。
 そんな自分を情けなく思うが、今は手段を選んでいられなかった。本当の家族でもなく、共有した過去もない僕には、不格好でもこれくらいしかできないのだから。
 玄関のドアが開閉されたのを音で確かめてから、寝室のドアへと向き直る。そこにロックがかかっていないことだけは安心できた。




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