どの名を呼んでも彼を傷つけてしまいそうだったから、敢えてなにも言わずにベッドの中に潜り込んだ。頭まですっぽりと隠している毛布をかき分けて、ふわふわした髪の毛を指で梳く。やさしく撫でるふりをしながら頭を固定して、口づけると舌先で応えられた。
 予想はしていたが反応が返ってくるとやはり心臓が跳ねる。思わず動きを止めてしまった僕に代わり、顎をとられて舌先が侵入してくる。彼の体温でなまぬるくなった毛布のなかで、ひときわ熱を持った粘膜をこすりあわせるとそれだけで頭がぼうっとした。わけもわからず泣きたい気分になるのは、きっと感情がむき出しになる感覚なのだろう。
「ん、ぅ…はぁ、」
 キスの切れ間に止めていた息を吐き出すと、一緒に涙も出そうになって堪えた。今の彼の前で涙を見せたら、ますます困らせてしまうだろう。どうすれば彼がこれ以上傷つかずに済み、安心して眠ることができるのか分からなかった。だからせめて笑っていようと思った。彼が不安がる僕に、いつもしてくれていたように。
「ティエリア…」
 低い声が名前を呼んでくれるけれど、今はそれに応えるべき名がわからなくてかなしいと思った。代わりに黙って身を寄せると、不格好に作った笑い顔ごと、彼の腕が胸に閉じこめてくれる。小さな毛布のなかでぴたりと密着する。包まれる体温に身をゆだねて目を閉じる。このままひとつになって距離などなくなってしまえばいい。僕の身体もこころもすべて彼のものになれたらいい。
 そうなれると信じていた。帰る家をもらって、指輪をもらって、同じ名字をもらって、僕たちは家族になったのだ。だから距離などもう、生まれるはずはないのだと。
 ―――そう、純粋に信じることができなくなったのはいつからだろう。
「アイルランドで暮らそう」
 僕の後頭部を撫でながら、ゆっくりと言葉を口にする。思わず身を固くすると、抱き込む腕の力が強まった。彼の体温も、においもいっそう強くなる。それはひどく心地よくて、僕のすべてを麻痺させる。僕の中身が彼で埋めつくされていく。
 僕自身のの輪郭が曖昧になっていくやさしさの裏で、胸の辺りにざわつくものがある。それをなんと呼ぶべきなのか、僕にはわからないままだ。
「俺と、ライルと、お前で。三人で幸せになるんだ。今度こそ」
 それがあなたの望みなのか、と口にしかけたが、それは音にはならなかった。深緑の瞳が無理に細められて、ぎこちない笑顔が与えられたから。それはまるで不格好で、今にも泣き出しそうに見えて、そんな彼が口にするしあわせ、という言葉はあまりに儚げだった。
 そんな彼を、守りたいと強く思った。あらゆる不幸から、彼を傷つけるものから。彼がまた躊躇うことなく、しあわせを求められる世界がどこかにあればいい。それが過去だというのなら、彼はそこに戻るべきなのだ。
 ―――しかし、そこに僕は行くことができない。
 僕のしあわせは、この、彼のいた小さな家以外にはない。彼が戻りたいと望んだ過去のなかに僕はいない。そこに強引に僕をはめこんだところで、いびつになるだけだ。なぜなら僕には、戻りたいと思う場所がない。ここがすべてで、失えない場所だから。
 彼とすれ違ってしまったことが悲しく、それをすり合わせる術も持たないのが悲しかった。彼のしあわせだけを望んでいたかった。彼のしあわせよりも自分の意志を優先させてしまう僕は、きっと彼のそばにはいられない。
 望んでいいのだと。欲しがっていいのだと。僕に意志を与えてくれたのは、他でもない彼なのに。そのせいで離れればならないことが唯、悲しかった。
 もし、彼が僕に一言、どうしたいかを聞いてくれれば違ったのかもしれないと思うが、それはもう詮無いことだ。
 彼のしあわせだけを望んでいたかった。彼の望む、やさしい世界に僕も行きたかった。居場所などいらなかった。彼さえいればよかった。
 ―――けれど僕は変わってしまった。彼はそれに気がつくことができなかった。僕自身も、こうして突きつけられるまで気がつかなかったのだ。当たり前だ。
「ニール、」
 にせものの、名前を呼んだ。
「あなたは、しあわせになるべきだ」
「…ああ」
 不安げに応える彼に少しでも大丈夫だと伝えたくて、そっと額にキスをした。いつも彼がしていてくれたことだ。僕の身体はすべて彼でできていて、それなのに彼の望むとおりになれない。それが不思議で仕方がない。
「愛している―――」
 そこに続く名前を口にできなかった。そのことがやはり悲しく、代わりにそっと口づけた。セックスの前にするような欲は感じない。神など信じたことはないが、そういったものにするような、神聖さを伴うキスだった。彼が僕の神様なのか、と悟ったのは指輪をもらったときだったろうか。今でもそれは変わらない。変わらないのに。
 変わってしまったのは、僕自身だけだ。








 今よりもっと近づくのだと言って彼は私にセックスを教えた。言葉を使うのはあまり得意ではない私と、大切なことばかりはぐらかす彼とでは、確かにそれは有効な手段だった。数を重ねるごとに、彼の触れ方の違いを感覚で理解するようになったし、彼もおそらく同じだったように思う。
 しかし私たちは、それを信じすぎてもいたのだ。大切なことは言葉にしなければ伝わらない。相手の言葉もさることながら、自分の感情を、与えられる体温でごまかしてしまっては、見失ってしまうばかりだ。
 ―――だからこんなものは、きっと嘘だ。
「あっ…あ、あぁ」
 ローションのぬめりとともに、三本目の指が侵入する感覚がはっきりと伝わる。圧迫感に歯噛みをして耐え、波をやりすごした。彼が指を動かせばまた激しい感覚に襲われるのだが、彼は決して性急ではなく、慎重にこちらの反応を伺っている。まるで壊れものを扱うような、やさしい触れ方だった。彼の不安が如実に伝わるようで、胸がちくりと痛む。最後までそれをちゃんと吐き出させることができなかった無力さに泣きたくなった。
「うご、かして…大丈夫、だから、ぁ」
 舌足らずな口調でそう強請ると、彼はようやく指で中を拡げようとする。ある一点を突かれると頭が白くなるような快感が走り、喉から女のような高い声が漏れて前が弾けた。何度も達せられたせいで前はもう己の吐き出したもので酷い有様になっている。こんなときばかり身体は浅ましく快感を求めていて、いっそなにも分からなくなってしまえばいいと思った。
「はやくいれて…ニール」
 彼の顔が見られるように向き直って、身体を引き寄せてからそう口にする。彼のひとみの色に欲の陰りがみえた。彼はこうして私に強請られることを好む。何度も名前を呼ばれるのを好む。そんな彼の姿は、私だけが知っている。
 もし彼が私のいないところでしあわせになって、誰かうつくしい女性と家庭を築くとき、その人の前でも彼は、そんな顔をするのだろうか。こんなときにふと、そんなことを思ってしまう自分がおかしい。なんて浅ましい。わたしは、
「ティエリア…?」
 怪訝そうに見下ろしてくる、彼の姿がぼやけていてようやく気づいた。今の彼の前で泣き顔は見せたくなかったのに、さっきのことを思い出させたくなかったのに、現実は自分の感情一つコントロールできない。
 しかし彼はそんな私を戸惑うことも、傷つくこともなく、優しい指先でそっと目尻を拭ってくれた。そしてぎこちなく笑ってみせる。大丈夫なのだと、言い聞かせる笑顔だ。それは見慣れたものだったが、普段ほどの余裕は見られない。それでもなお私に笑いかけてくれる彼を、いとおしいと思う。
「ロッ…、」
 喉まで出かけて、飲み込んだ。どうか彼の耳には届いていないように祈りながら、そっと身体に四肢を絡める。汗で湿った身体はぴたり吸いつき、もう距離などないのだと、錯覚してしまいたくなる。この温もりを狂おしいほどに愛していた。これがなければ呼吸さえできないときもあった。彼と血のつながりはないけれど、彼こそが今の私を形作ったのだ。
 私たちは、確かに家族だった。
 この小さな家の中で、身を寄せあって。小さな指輪で約束をして。
 できるならばそうあった頃に、戻りたかった。
 ―――戻りたい。戻りたい戻りたい戻りたい戻りたいもどりたい。
 ひどく強く願うけれど、口にしてしまってもきっと伝わらない。だから代わりになる言葉を選んだ。
「愛しているんだ、」
 左手を取り、指を絡めながら約束を探した。ぎこちなく指先で金属の輪を探り当てる前に、彼の指に強く引き寄せられ、手のひらが合わさる。熱を帯びた彼の指先は、はっきりと私を求めていて、それだけはうれしいと思った。
「…俺もだ」
 低くつぶやいて彼が足を絡めてきたので、こちらも腰を浮かせて応える。呼吸を合わせて侵入を許すと、じんと頭の奥が痺れた。このままなにも分からないままに揺さぶられたい、と思うけれど、理性が剥がされる分感情がむき出しになってうまくいかない。せっかく拭われたのにまたこぼれ落ちる涙を恨んだ。
「あ、やぁ、ぁっ…」
 奥まで侵入してくるそれの感覚をやり過ごそうして、相手の身体にしがみつく。思わず手の甲に爪をたてると彼は痛みに眉を寄せた。あわてて手を離そうとすると、縋るように指先でまたとらえられる。手のひらが再び重なったその瞬間が合図だった。
「あ、はぁ、あ……あッッ」
 彼が動き始めて私の中で暴れる。粘膜が擦れて何度も弱いところを刺激され、喉からは言葉にならない声ばかりが漏れる。頭の中がかき回されるような快感に前が弾け、精液が脚を伝ってだらだらとこぼれ落ちる。その生々しい感覚を感じながら、やはり涙も止められないままだった。
「ティエリア、ティエリア…ッ」
「あ、あ、あぁ…、ん、あっ」
 強烈な感覚に支配され、頭が真っ白になってなにもかもが分からなくなる。彼が呼ぶ声すら遠くに聞こえて、喉からでるのが訳の分からない音ばかりで、応えられないのをすまないと思う。
「…あ、あぁぁっっ」
 最奥の弱いところを抉られて、一際高い声があがる。もう終わりも近い。涙と汗と精液でぐちゃぐちゃになって、唯ただ楽になることばかりを求めている。
「も、やだ……やめ、あっっっ」
 何度も奥まで突かれ、びくりと身体が痙攣する。そのたびに私が彼のペニスを何度も締め付けるので、彼も辛いのか眉を寄せた。そろそろ限界なのだろう。
 こういうことは伝えられるのに、大切なことはわかりあえないままだ。浅ましい声は出せるのに、願うことは何一つ口にできない。
 私も、戻りたい。あなたの近くにいられた頃に。一つになれると純粋に信じられた頃に。ロックオン・ストラトスを唯、愛していられた私自身に。
「どうして…」
 達する直前に、彼の身体を引き寄せてそう囁いてしまった。どうか彼には聞こえていなければいいと願う。
「ティエリアッ…」
 彼もまた優しく抱き返して、何度か腰を揺さぶった。そして私たちは原始的な感覚を共有する。何度も繰り返してきたはずのその行為が、今はひどく悲しいものに、思えた。










 深く眠る彼の枕元に、夜色の袋を置く。懸命に、というより殆ど病的に集めた彼の断片は、もう僕には持つ資格がない。その上に彼のくれた指輪を乗せた。迷ったあげく、手紙は残さなかった。
 彼の柔らかい髪を軽く撫でると、彼は小さなうなり声をあげてから、口の端をつり上げる。その仕草を素直にかわいいと思い、いつまでも眺めていたいと思う。そんなこと、できるはずもないのだけれど。
「アイルランドのあなたの家族に、しあわせにすると約束したのに……すまない」
 この行為自体、唯の逃げなのかもしれない。しかし選択に後悔はなかった。彼はきっとしあわせになれるという、確信があったから。
「アイルランドは、きれいなところだった。きっと、あなたの傷を癒してくれるだろう」
 この場所はもう彼の傷でしかない。それを捨てるのも唯の逃げかもしれない。しかし、彼が心の底から笑ってくれるならそれもいいだろう。毛布からはみ出た、彼の指にある輪をなぞって、笑みを深めた。
「幸せになってくれ……ニール」
 呼び慣れない名前を口にすると、自然に涙がこぼれ落ちた。それは寂しさの名残だったのかもしれないし、彼に対する執着心の欠片だったのかもしれない。それでも、胸の底でくすぶる痛みに気づかない振りをして、僕は寝室のドアを閉めた。

 愛していた場所に、別れを告げるために。