コーヒーを飲もうとポケットの小銭を探ると、指先に当たる別の感触があった。不審に思ってそれを引き出すと、見覚えのあるデザインの煙草のソフトケースが現れる。それはティーに最近になって返してもらったもので、いつか吸おうと思ってポケットにねじこんだままにしていた。無性に煙草が吸いたい気分だったが、生憎ここは病院だ。無用の長物となったそれを眺め、ため息をついているとちょうど、間が悪く背後から声がかかる。
「病院内は禁煙だよ」
「わかってますって」
 自販機に隠れて吸えばバレないかも、と一瞬よぎった考えを見透かされたような気がして、慌ててソフトケースをポケットにしまい込む。しまってから本来の目的である小銭を取り出し忘れたことに気づいたが、今更引き出す気にもなれず、声をかけられた方に向き直った。
 考えることは同じだったのか、自販機でカフェオレを買ってからオレにも何か飲む?と問いかけてくる。コーヒーを、と答えると黙って差し出され、思わず小銭が浮いたと喜んでしまったオレはちょっとどうかと思う。
「…兄さんの件ではありがとうございました。運転しにくかったでしょう、ランチア」
「まぁね。事故を起こさなかったのは奇跡だと思うよ。僕も平常心ではなかったし」
 にへらと笑いながらとんでもないことを言う兄の上司に恐ろしさを覚えながらも、なんとかこちらも笑みを返す。だがしかし、彼の言っていることはたぶん、正しい。あの場では誰もが普通ではなく、その中でなんとか少しでもいい方向に向かうよう、あがいていた。天使様が笑い続けるのも、オレが頭を下げるのも、ティーが兄さんを抱きしめているのも。それがたとえ各人のエゴに過ぎないとしても。
「…ロックオンはどう?」
「相変わらずですね。抜け殻っつーか、オレの声も聞こえてないっつーか」
「それは心配だなぁ」
 まるきり表面上の物言いだったが、それはたぶん彼の癖なのだ。上辺だけの心配ならば、事故を起こさなかったのが奇跡というような車をわざわざ運転して、自宅に送り届けてくれやしない。一番文句は多いけれど、一番面倒見がいいんだ、と兄さんはいつも言っていた。あの面倒くさいティーの友人をやっているというのなら、確かにそれは正解だろう。
「あれはもうダメですね。肝心なときに打たれ弱いから」
「…ずいぶんと冷たいことを言うんだ」
「客観的、と言ってください」
「そういう立ち位置、嫌いじゃないけどね」
 はは、と笑い声をあげた後、持っていたカフェオレの紙コップをあおる。そしてそのコップを再び下ろしたときには、彼はもう真面目な顔に戻っていた。メタルフレーム越しの切れ長の瞳は、いつも穏やかに細められている分、真剣味を増すと妙な迫力が生まれる。オレはそこから目を逸らすこともできず、唯ただ凍り付いていた。
「だから、アイルランドに連れていくんだ?」
「……悪いですか」
「そういう聞き方をするのは、悪いって思っているからだよ」
 彼の人を食ったような物言いに、神経が軽く逆撫でられるのを自覚しながらも、なんとか浮かべた薄っぺらい笑みを貼り付け続ける。抉られそうな真剣さから、辛うじて自分を守るための防護壁だった。紙よりもやわな皮膜にしか過ぎないけれど。
 彼は無表情にも思える真剣さを保ったまま、スーツのポケットから二本の林檎の皮を取り出し、手渡される。高そうな上着にそのままねじ込んできたのかと思うと、彼の妙なずぼらさを感じないではいられないが、残念ながら今はそれをツッコんで笑えるような状況でもなさそうだった。みずみずしい林檎の汁はまだ乾いておらず、指先を汚す。甘い匂いがひどく場違いなものに思えた。
「悪いとは思わないけど、ずるいとは思うな。あんなの、勝っても負けてもグラハムの選択肢はひとつじゃないか」
「…相手の誇り高さにつけこんだ、とでも?」
「わかっててやってるからタチが悪い。好きになれないタイプだな」
「オレもですね。オレは負けたけど、天使様は譲ってくれた。それでいいじゃないですか。……どうせあれはもう使えませんよ。優しすぎるし、逃げたがってた」
「…あのさぁ」
 低くつぶやいた後、唐突に腕を取られ、自販機の陰に背中を押しつけられる。その拍子に持っていたコーヒーが飛び散り、白いスーツを汚したが、彼は少しも構うそぶりを見せなかった。
 オレよりも細いが、身長のある彼に追いつめられて思った以上に動揺していた。しかし、それを悟られたくなくて、見下ろしてくる褐色の瞳をきつく睨みつける。向こうも怒りを隠す気はないらしく、オレを両腕で閉じこめながらひどく冷たい目でこちらを観察していた。
「さっきから聞いていれば、どうして君はロックオンのことを、自分のことのように決めつけるの? 君と彼とは全く別の人間なのに」
「…そりゃあね。家族だから、わかりますよ。少なくともアンタ達よりは」
「十年も会っていなかったのに、今更? 彼がどんな思いでここで過ごしてきたか知ってるの?」
 一番痛いところを突かれた上に、は、と見下すように笑われて、かあっと頭に血が上る。とっさに拘束していた腕を振り払って拳を握り、頬を殴りつける。鈍い音がした後、メタルフレームの眼鏡が派手に吹っ飛んで、乾いた音を立てて転がった。
 罪悪感なんてなかった。オレ達家族を笑う人間など消えてしまえばいいと思った。この男こそ、オレ達がどんな思いをして別れ、そしてまた家族に戻っていったかなんて知らないくせに。
「…やれやれ」
 ため息をつき、やはり無表情で面倒そうに身を屈め、飛んでしまった眼鏡をのろのろと拾い上げる。日に焼けることを知らなそうな青白い肌は、目に見てわかるほどに腫れ上がっていて、しかしそれを微塵も気に留めた風もなく、元通り眼鏡をかけなおした。そして、今更になって諭すような穏やかさで言葉を口にする。
「僕の知っている、ロックオンのもう一人の家族はね。少なくとも、決めつけずにいつも分かろうとしていたよ。家族だから、じゃなくて、家族になろうとしていた」
「…………オレはあいつの家族です」
「そう思うなら思えばいい。勝手にすれば?」
 彼の突き放すような言葉を聞きながら、一番面倒見がいいんだ、という兄さんの言葉を思い出していた。わけもわからず腹立たしくなって、彼の代わりに自販機を蹴ると、思った以上に大きな音がした。看護師か誰かが様子を見に来る前に立ち去った方が正解だろうと、逃げるようにその場を後にする。
 気づけば煙草が吸いたくてたまらなくなっていた。胸にある重苦しさを煙ごと吐き出してしまいたかった。頭が痛くなるほどの強い煙草で、毒を吸い込んで、めいっぱい吐き出して。それができればどんなに気持ちが晴れるだろうと思いながらも、ポケットにあるのはティーが一度、持ち去っていった甘い香りのする古い煙草だけだ。
 いるのが当たり前なんだ、と言ってティーは笑った。オレ達は間違いなく、家族なのだ。こんな煙草をお守りにしなくたって、十年離れていたって、それは変わらない。三人で幸せになると決めた。
 幸せになるためには、この場所ではだめなのだ。ここはもう兄さんの傷でしかない。何もかもなかったことにして、やり直すことなんて無理だ。名前や故郷を捨てたところで、新たな家族を作ったところで、彼はニールにしかなれなかった。
 そのことは救いでもあり絶望だった。









 蹴りあげられた自販機の残響と、人の気配が休憩室から消えた途端、下半身からふっと力が抜ける。情けないことに、膝がちいさく震えていた。自販機の横に備え付けてあった長椅子に、崩れ落ちるように座り込む。
 いっそ横になりたいとすら思ったが、それをしたら間違いなく意識を手放すだろうことが容易に推測できたのでやめておいた。残念なことに、仕事場に戻ったらやらねばならないことが山ほどあった。事故の後始末や検証、損傷したフラッグの修理。上への報告―――今思い浮かべただけで、めまいを通り越して吐き気がしそうだ。
「…痛いなぁ」
 頬はぱんぱんに腫れていて、痛みというよりもほとんど感覚がなかった。しかし現状認識のために一応言葉にしてみると、なんだか痛いような気がしてくるから不思議だ。本当に痛むのはたぶん別の場所なのだろうけど、敢えて結論は出さないことにする。思考停止は僕の主義に反するのだが、今はとてもそんな気分になれなかった。
 深くため息をついてから天井を仰ぐ。白を基調とした病院の内装は基地のそれと似ているはずなのに、少しも親しみを覚えなかった。早く慣れ親しんだ仕事場に戻りたいという気持ちもあれば、もう少しだけ逃避していたいという気持ちもある。せめぎ合いの中でぼんやりと二杯目のカフェオレを飲むか、飲むまいかとも考えていたところで、背後から声をかけられる。
「派手にやられたな、カタギリ」
「…覗き見とは悪趣味だね」
「たまたま通りかかっただけだ」
 いつものパイロットスーツではなく、患者服を身にまとったグラハムは、それでもいつもと変わらぬ堂々としたそぶりで僕の隣に腰掛ける。しかしこちらから見える彼の横顔には、いつもの空色の瞳ではなく清潔な眼帯がみえた。失われてしまった右目のことを思う。地上は窮屈だ、と言い空を目指した子どものようなひとみを思う。いくら再生治療が可能だといえども、それは百パーセントではない。彼が一度、大切なものを失ってしまったことに代わりはない。
 これ以上、彼からなにも奪わないでほしいと、ままならない願いを抱いてしまうのは、いけないことなのだろうか。
 傷を負ってなお、失望に染まらない横顔を眺め、それでも祈らずにはいられないのだ。
「…どうして頷いたりしたんだい。君の勝ちだったんだろう」
「ロックオンのことか」
 無意識に責めるような声音になってしまう。そのほとんどは、彼に対してではなく、ずるい賭けを持ちかけてきたロックオンの弟に向けてものだったが。しかしそれでも、あっさりと頷いてしまった彼には疑問を感じずにはいられない。
「勝ち負けの問題ではない。それがロックオンにとって、一番いいことだと思った」
「…君の隊はどうなる」
「一人欠けた程度で我が隊の結束が揺らぐものか。舐めてもらっては困る」
 信頼できないのかね、と言って彼が大人びた笑い方をする。その笑みが気に食わなくて、つい言わなくてもいいことまで付け加えてしまった。
「…きみは、大丈夫なのかい」
「なんのことだ? カタギリ」
 そういって彼は笑いを貼り付けたまま、眉ひとつ動かさなかった。おかげで僕のいらだちはひとつとして解消されなかった。その完璧すぎる清廉な笑顔を僕がされたように殴って、めちゃくちゃにしたいとすら思った。無意識にきつく握った拳が、震えていた。
 しかし僕には、彼を殴ることができなかった。一介の研究者でしかない僕が、本職である彼に勝てるはずもなかった―――という当たり前の話ではなく。そもそも、その拳を出すことすらできなかった。
「…ッ、」
 気がつけば僕は、彼のやわらかい癖毛の金髪をくしゃりと撫でていた。ひどい苛立ちと、それ以上の憐れみを込めて。こんな険しい表情で他人の頭を撫でるのなんて初めてだった。そもそも、人の頭を撫でること自体久しぶりなせいで、頭髪をかき回すといった方が近い不器用さだ。
 相手も殴られることを予期していたのだろう。意外な僕の態度に目を丸くするばかりだった。それに少しだけ気が晴れて、苛立ちをあらわにしたまま口の端をつり上げるという妙な表情になった。穏やかさを信条にしているおかげで、笑うことだけは得意だったのに、今日ばかりはうまくいかない。不器用な指先も、力の抜けた脚も、どこもかしこもしまらない。
 それを見て、グラハムはまた笑った。今度は貼り付けたような完璧な笑い顔ではなかった。泣き笑いにも似た不安定な表情だった。それでも彼は、笑い続けていた。まるでそれしかできないというように。縋るように、笑っていた。
「ありがとう、と言うべきなのかな。ここは」
「…知らないよ、そんなこと」
 掠れた声の問いかけを、冷たく突き放す。これ以上を与える気はさらさらないけれど、その分僕は彼の頭を、ひたすら撫で続けていた。僕もまた、それ以外にとるべき手段を見つけることができなかったのだ。
 もしここで彼が泣くことでもできれば友人として少しは立つ瀬があったのだろうが、彼は絶対に泣かないだろうという確信があった。それが、グラハム・エーカーという男だ。
 だから、笑い続ける彼を茶化すように、撫でる。それくらいがちょうどいいのだ。





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