右目の再生治療を行うのだと彼が当然のように口にしたので、オレは林檎を剥く手すら止めることができなかった。なんでもないことのように口にできるのはそれだけで強さだと思った。オレなんて、顔を見るだけで勇気が要ったのに。
 そして多分、それ以上にオレは彼に残酷なことを言わなければならない。包帯まみれになってなお気丈に笑みを浮かべている彼に向かってそれを言うのは、極悪人にでもなったようでひどく居心地が悪い。だが、いつまでも林檎を剥いて口をつぐんでいるわけにもいかなかった。
 薄い皮が何本か落ちて、白い身がむき出しになる。それよりももっと血の気の失せた天使様の肌は、いつも酒気を帯びてほのかに赤くなったそれを見慣れた身としてはやはり胸が痛んだ。
 同じように真っ青になって深夜自宅に戻ってきた兄さんを、ティーはなにも言わずに強く抱きしめていた。オレも混乱しきった頭でティーに充分状況を説明できた自信はなかったが、そんな理屈ではなく、唯、彼は彼のすべきことを為したのだろうと思った。
 一晩経った今でも二人は何も口にせず、唯ただ寄り添うばかりで、オレは夏日でもしんと冷えきった自宅にも居づらくて逃げるように家を出た。そして足を向けたのが、天使様のいる病室、というのも大概マゾかもしれない。相手だって、自分を傷つけた男と同じ顔を見るのはあまり精神的によくないはずだ、と思うが、言わずにはいられなかった。たぶん、自己満足なのだ。
 手みやげに持参した林檎を剥き終えて、皿に乗せて突き出す。見舞いならば花でも持っていくべきかと迷ったが、口に出す内容とあまりにかけ離れていて、ためらわれたので。
「こんなんじゃ、詫びになんねえって分かってるけど…」
「詫び?」
「兄さんのこと、本当に申し訳ねえと思ってる。まだ混乱して顔、見らんねえみたいだから、先に頭、下げさせてくれ。いつかきちんと二人で謝りにくるから…今は、」
「…なんだ、そのことか」
 そう言って屈託のない笑みを浮かべる男を、オレは密かにずるいと思った。いっそ烈火のごとく責めてくれればまだ気が楽なのに。多分、兄さんも同じ気持ちなのだろう。
 彼が誰よりも空を、ユニオンフラッグを愛していることをオレは聞いている。そんな彼が、パイロットの命である目を奪われてなお、こんな風に笑っていられるのがにわかには信じがたかった。
「私ならば大丈夫だ。医者もほぼ失敗はないだろうと言っている。傷は残るようだが、心配はいらない」
 包帯に覆われた右半分に指先で軽く触れて、左半分で笑ってみせる。こんな状況になってもなぜ変わらずに強く在ることができるのか、正直言ってオレにはさっぱり理解できない。
「そう、ロックオンにも伝えてくれ。あまり気に病むなと」
「…ああ」
 曖昧に笑って、応えるだけで精一杯だった。彼の強さや優しさは、今の兄さんを余計に傷つけるのだと、たぶん彼は分かっていない。真っ直ぐな純粋さや強さは、時折誰かの背を押して、時折誰かを傷つける。ままならないことは多い。けれどそれでも、オレは天使様の変わらない真っ直ぐさを、羨ましいと思った。こんな人がそばにいてくれたから、兄さんも故郷を捨ててなお変わらずにいられたのだ。家族として、いくら感謝してもし足りない。
 ―――そんな彼に、オレは、残酷なことを言わねばならない。
 まだ手をつけていない赤い林檎を手に取り、変わらずに透き通った空色の瞳を見ないようにして口を開いた。
「あと、これはオレの個人的な謝罪っつーか…お願いなんだけど、」
「…なんだね?」
 こんなときばかり穏やかに問いかけてくる相手に、ある種の覚悟を感じて、その先を口にすべきか少し迷う。果物ナイフを握りしめる手はいつの間にかふるえていて、情けねえな、と胸中で独りごちる。目の前の天使様は、片目を失ってなお少しも揺らいだ様子を見せないのに、オレは大切なことすら冗談のオブラートに包まなければ言葉にできない。
「もし、この林檎の皮を切らずに剥けたら…あんたんとこの部下、一人貰ってっていい?」
 手と一緒にふるえだした唇が、上擦った声音を絞り出す。空色の片目が大きく見開かれたのをこらえきれずに見てしまって、一瞬だけ撤回したい気持ちにかられ、飲み込んだ。ふるえる指先が、ゆっくりと赤い皮をはがしていく。それはまるで祈るような早さだと思った。





 耳がうずくほどの静寂のなかだと、自分が起きているのかも寝ているのかもよくわからなくなる。今日は暑くなるのだろうか。それとも涼しいのだろうか。確か天気予報も流れていたはずなのだが、よく思い出せない。
 唯、時折握り返してくる手のひらのやわらかさや肩に触れる温度を感じて、辛うじて自分の意識をつないでいる。二人掛けのソファでティエリアと身を寄せあって、いったいどれだけの時間が経ったのだろうか。ぼうっとしている思考回路ではよくわからないままだ。
 あれからどうやってこの家までたどり着いたのかはよく覚えていない。唯、カタギリさんが慣れないランチアの運転をしてくれたことと、玄関を開けたとたんに黙ってティエリアが俺を抱きしめてくれたこと。それだけは記憶にある。
 ライルからどれだけの事情を聞いているのかも分からないが、帰ってからずっとティエリアは何も口にせず、俺のそばにいてくれている。それはちょうど、この家にきて間もない頃に、不安がってしがみついてくる彼をなだめるため、ずっとそばにいたのと似ていた。
 そうやって距離を縮めてきたからだろうか。俺たちはこういうときほど言葉少なになり、体温を与え合う。雄弁でない彼と、大切なことばかりはぐらかしてしまう俺では、それ以外にうまいやり方がわからなかったから。
 ぼんやりとソファに座っている間にいつの間にかライルもいなくなっていて、テーブルの上には冷えた食事が並べられている。これについて何かを言っていたような気もしたが、相づちはティエリアが打ってくれたのでさして記憶にはなかった。
 重たくなった指先を少し動かして彼の手を握ろうとすると、さらりとかわされて、かわりにライルが買い与えたデジタル時計を一瞥した。とたんにティエリアは眉間のしわを一本増やして、俺の頭をいたわるように優しく撫でた。まるきりいつもと逆の態度だったが、かまわずに首のあたりに鼻を埋めて甘える。喉の辺りから甘い肌のにおいがした。
「あなたはそろそろ何か、食べた方がいい。13時間23分11秒も何も口に…、」
「いらない」
 すんすんと匂いをかぎながら、俺が与えた、やわらかい生地のシャツに包まれた背を撫でる。わずかにある距離を埋めるように引き寄せると、びくりと細い体躯が身じろぎをした。それに構わず体重をかけると、ティエリアの身体がソファに押し倒される。見上げてくる紅茶色のひとみは相変わらず真っ直ぐだ。
「なぁ、セックスしようぜ。ティエリア」
 俺のふざけた誘いにティエリアはゆっくり頭を振り、俺の背を撫でながら身を起こそうとする。逃すまいと、駄々をこねるような心地で乱暴に、浮きかけた背をソファへ押し戻した。ギチリとスプリングが軋み、薄い唇からため息が漏れる。その呆れたような態度に軽く苛立った。しかし何も言葉にはせず、無言で薄い色のシャツの第二ボタンに手をかける。
「だめだ、」
「だめじゃねえだろ? いつも好きそうに俺をくわえこんでたくせに」
「それは…」
 ティエリアの目が一瞬、迷いを見せた。それをいいことに乱暴にシャツをはだけさせると、ボタンがはじけ飛んでフローリングに転がる。その乾いた音がやけに遠く聞こえた。
 鬱血の痕が残る肌は痛々しく、けれど構わずにそこに口づけると相手が息をのんだ。そこにあるのは快楽ではなくおそらく恐怖なのだろうが、どうでもいいと思ってしまった。感覚を強引に引き出して何も分からなくなってしまいたい。そうやって酷く後悔したのは一度や二度ではなかったが、今はそれ以外に術を知らなかった。
「んっ…、ふ、ぅ」
 それ以上の言葉を聞きたくなくて、噛みつくようにキスをする。歯列をなぞり、舌で粘膜を荒らす。要点だけをつまんだ雑な口づけでも、鼻にかかった甘い声が漏れてくらくらした。
 どれだけ酷い触れ方をしても、彼はいつだって俺にあらがうことはない。あなたに私を傷つけることなんてできない、と言って頭を撫でてくれたけれど、今こうしていることをどう思っているのだろう。俺はティエリアが思うより、簡単に残酷になれる。酷いことだってできる。自分のことしか、考えられなくて、
「きいて、ロックオ…」
 酸素を求めて唇をはなすと、飢えた獣のようにぼとりと唾液が滴になって、薄い唇の上に垂れ落ちた。その隙に漏れた制止の言葉は、途中で途切れる。ティエリアの息をのむ音が、静寂に悪目立ちした。
 ぎこちなく視線を逸らそうとし、しかし身体を押さえつけられたこの体勢では無駄だと悟り、こわごわとまた視線を合わせる。叱られた子どものような表情で、おずおずとティエリアはまた、俺の名を呼んだ。
「…ニール」
 まるでその名以外が間違いだというように。
 かなしいくらい、罪悪感をはらんだ呼び方だった。彼は俺の名を呼ぶとき、こんな顔をしていたのだろうか。わからなくなる。
 目を見開いたまま思わず手をとめると、ティエリアが窮屈そうに身を起こす。服も荒らされたまま俺の前にちょこんと座り、ぎこちなく、無理矢理笑い顔を作ってみせた。鬱血の痕と同じく痛々しさすら覚える笑顔で。
「本当はあなたが望むなら、僕の身体くらい、いくらでも好きにしていい。でも、感情をそれでごまかすのは……できないんだ。何度セックスをしても、わからなくなるばかりで、わたし、は、」
 微笑が少しずつゆがんでいき、やがて涙がこぼれ落ちる。それでも気丈に笑顔を作ろうとしては失敗し、それを何度か繰り返したあとに小さな手が顔を覆った。絞り出すように嗚咽を漏らす喉には、まだ新しい赤い痕が残ってる。まだ唾液が乾ききらずうっすらと光っていて、生々しい傷跡のようだ。
 ―――いったい何をやっているのだろう、俺は。
 俺をずっと見ていてくれた大切な人から、空を飛ぶ術を奪ってしまった。俺を救ってくれた恋人をひどく傷つけようとし、今、目の前で泣いている。どうして間違ってしまったのだろう。しあわせに、なりたかっただけなのに。
「今度こそ、うまくいくと思ったのに…なんでなんだろうなぁ」
 低くつぶやくと、ティエリアが涙もそのままにそっと顔をあげた。涙に濡れた透き通った瞳がきれいで、けれど胸が痛んだ。
「幸せになりたいなんて、思っちまったのがそもそもの間違いだったのかもな」
「違う! そんなことは…」
「……もう、わかんねえや。俺も」
 またぼろぼろと流れ出す涙を乱暴に指で拭ってやってから、ソファから立ち上がる。これ以上近くにいて、また彼を傷つけてしまうのはごめんだった。
「ロックオン、あなたは、しあわせに…ッ!」
「その名前で呼ぶんじゃねえ!!」
 ひきつった叫びをかき消したくて、反射的に怒鳴りつけた途端、しん、と部屋の空気が凍り付く。慌てて口を押さえても言葉が撤回できるわけもなく、ざらついた重苦しい感情が場に漂うばかりだった。
「………ごめん」
 振り返る勇気すらなく、短くそれだけ口にするので精一杯だった。逃げるように寝室に駆け込み、頭から毛布をかぶる。このまま眠り続けていっそ死ぬことができたらと思う。そうでなければ、目覚めたら母さんが起こしにきて、食卓にライルとエイミーがいて、ソファで父さんが新聞を読んでいればいい。
 こんな歳になってもあの家に戻りたいなんてどうかしている。それは憧れてやまない過去や記憶にすぎず、たぶんそこに本当の幸せなどなく、戻ることなんてできやしない。すべては終わったことなのだと。新しい恋人に昔の名を呼ばせたところで、昔と同じ関係が築けるわけではない。あのティエリアの表情を作り出したのは俺だ。
 けれど、それ以外に幸せの形なんてわからなかった。
 今となっては、もうどうでもいいことなのだけれど。





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