みっともないから立て直してくる、と言ったライルを自宅に送り届けた後、隊長の家に向かった。ティエリアを探す前に、まず自分のしてしまったことにきちんと向き合わなければならない。謝って許してもらえることではないが、それでもこれで終わりにはしたくなかった。痛々しく巻かれた眼帯と、アイスグリーンの片目を思い出して胸が痛む。けれど決めたのだ。今度こそ、逃げないと。
 彼の派手な暮らしぶりからてっきり新築の高級マンションに住んでいるのとばかり思っていたのだが、住所をもとにたどり着いた建物は意外にも質素だった。ほどよく古くなった打ちっ放しのコンクリートが独特の雰囲気を感じさせるが、このご時世には珍しく共同玄関にオートロックもついていない。お陰であっさりと家の玄関の前にたどり着くことができた。
 深呼吸をした後、ベルを押す。一度目は応答がない。めげずに二度目、三度目と押してもやはり返事はなく、病院にでも行っているのだろうか、と半ば諦めがちに四度目のベルを押した。そのとき。
「……どちら様、ですか」
 ようやく拾えるような小さな声だったが、自分の耳を疑った。その声は聞き覚えのありすぎる、俺が捜し求めてやまなかった相手のものだったからだ。
 全くの予想外で、即座に返す言葉が見つからなかった。とにかく話をしようと思ってはいたものの、情けないことに何から話すかも考えていなかった。言葉があふれて、めちゃくちゃになりそうで、選びとるのに苦労する。けれどその一切をかなぐり捨てて、まず彼に言わなければならないことをようやく指先で探り当てた。ゆうに数十秒かかった後に。
 これは、俺の選択であり、覚悟だった。
「ロックオン・ストラトスだ」
 ニール・ディランディではなく、俺はこの名前を選んだ。口にした瞬間に、もう後戻りはできないのだと実感する。相手が息をのみ、沈黙する。それをいいことに言葉を重ねた。たとえ受け入れられなくても、拒まれ、相手が再び遠ざかることになったとしても、ごまかさず言葉にすると決めたから。
「隊長と、ティエリアと話をしに来た。開けてくれないか」
 また、しばしの沈黙が守られた。その後不意に通信が途切れる。拒まれた、と思った。傷つかなかったといえば嘘になるが、そこで引き下がる気はもうなかった。もう一度祈るような気持ちでベルを鳴らした。
 しかし意外にも、今度は一度鳴らしただけでつながった。こちらが目を開く間に、ドアの向こうから声が振る。さきほどの蚊の鳴くような小さな声とは裏腹の、ひどく通りのいいそれだった。この声にも嫌というほど覚えがあった。
「ティエリア・アーデは中にいる。今ロックを開けるから、しばし待ちたまえ。ロックオン」
「いやだ! あわせる顔がない…」
「今更怖じ気づいたのか? 闘うと決めたのだろう」
 部屋の中で二人が言い合っている会話がそのまま耳に届いた。あわせる顔がない、と言ったティエリアに内心で安堵する。俺はどうやら失望されたり、拒まれたというわけではなかったらしい。不安なのは、躊躇っているのは相手も同じなのだと、わかっただけでも嬉しかった。拒まれたらどうしようという不安が少しだけ薄らぎ、自分の現金な性格に苦笑する。笑み混じりに囁いた。
「このままでもいい。少し、話さないか」
 俺の言葉に返事はなかった。それでもいいと思った。たとえ届かなくても、口にしなければならない言葉があった。口にしたいと思った言葉があった。ここから始めなければきっと、俺はどこにも行けない。彼のおかげで前に進もうと思えたのだから、真っ先に伝えたかった。もし、それが結果として拒まれても構わない。
 ちいさく息をついてから、言葉にする。口にしてみるとひどく陳腐で、単純だった。
「お前が好きだ」
 世間知らずで、外に出たがらず、そのくせ気まぐれにいなくなったりする。料理も掃除も家事全般が不器用で、よくライルを呆れさせていた。様々なことに無頓着なのかと思えば些細なことですぐ泣くし、そのくせ甘いものを口にすればけろりと機嫌を直す。
 そのくせ何もわからないと高をくくっていると、思わぬところで見抜かれて胸が跳ねる。不器用ながらも、なんとか俺をわかろうとしてくれる。何度拒んでも、振り払っても、しつこく手をのばしてくる。こちらが諦めて握り返すまで、何度でも愚かにも繰り返すのだ。
 笑うとばかみたいにきれいで、もっと見ていたいと思わせる。そう思っていたのに、その笑みを曇らせてしまったのはほかでもない俺自身だ。気づかなかった、なんて言い訳にすぎず、自分のエゴを押し通すために、相手の言葉を封じていた。そんな俺が、今更になって口にする言葉ではないのかもしれない、けれど。
「お前が俺に失望してるなら、それでいい。嫌なら切ってくれて構わない。ただ最後に、伝えたかったんだ。ごまかさずに、お前のことが好きだって」
「…やめてくれ」
 消え入りそうな声で訴えられる。けれど通信は繋がったままだ。照れているのか、それとも拒まれているのかよくわからない。気の利いた言葉でごまかすこともできず、仕方なしに直球を投げた。
「迷惑か?」
「違う。僕は、あなたの言葉には値しない。僕はあなたの幸せを一番に願うことができない」
 感情でうわずった声で、畳みかけるようにそう言ったあと、まるで別人のような消え入りそうな声で相手が続けた。
「………僕は、アイルランドには行けない。あなたを幸せにはできない。だから離れたんだ。あなたが悪いことなんて何も、」
「悪いだろ」
「違う!」
「違わない。そうやって苦しんでるお前に、気づけなかった。……いや、たぶん、気づかない振り、してた。楽になりたかったから。自分のことばっかだ、俺」
 感情と感情をぶつけあい、喉元まですべてを晒す。こんなやりとりを、もっと前にできていれば、ティエリアが俺のもとを離れることなんてなかったのだろうか。そんな詮無いことを思いながら、できる限り優しい声で言葉を吹き込む。
「俺の幸せなんて、一番じゃなくていい。だから歪んで、見失っちまうんだ。誰かがエゴを押し通そうとすると、誰かが我慢しなきゃなんねえ。そういうのは、やめにしたいんだ、もう」
 まるで懺悔のようだと思った。取り返しがつくのかどうかもわからなかった。けれど、諦めて口をつぐむよりはましだと思ったのだ。たとえこの言葉が届かずに、ティエリアが遠ざかってしまったとしても。
「お前だって幸せになるべきなんだ、ティエリア」
 相手が息をのむ音が聞こえた。聞きたいことが、ひとつだけあった。
「お前は、どうしたい?」
 ―――もし俺に、この一言を口にする余裕さえあれば、きっとすべてがうまくいった。けれど現実には視界に入らないものが多すぎて、見えているものだけでがんじがらめになって、自由になれないでいる。
 それでもせめて、好きな相手の幸せくらいはかなえてやりたかった。今になってそれを願うのは遅すぎるのかもしれない、けれど。
「………たい」
 絞り出された相手の言葉に、俺の躊躇は吹き飛んだ。
「帰りたい! あなたと、あの家でまた一緒にッ……!」
 涙混じりのティエリアの声に、両眼を見開く。そんなことを願いながら家を出ていったのかと思うと悲しかった。いつの間にあの家は、彼が戻るに値しない場所になってしまったのだろう。アイルランド行きを決めてからだろうか。ニールという名が馴染んでしまってからだろうか。
 彼に、与えたいと思ったホームがあった。彼が安心してそこにいられるような、あたたかい居場所。ふたりでずっと、寄り添っていられるような場所。そんなものを夢見て彼を連れてきた、はずだ。
 そのときもう既に、幸せになりたいと望んでしまったのではないか。今更なのだ。いくら自分に禁じたところで。資格がないと躊躇ったところで言い訳にすぎない。
 そしてティエリアも今、同じことを求めている。ならば、迷ってはならない。
「…だったら」
 ―――覚悟はもう、できているから。
「そばにいろ。どこにも行くな。……一緒に帰ろう、ティエリア」
「ロックオン…!」
 涙混じりの呼び声とともに、カチリとロックが解除される音がした。そして、勢いよく飛び出してきたのは切れ長の瞳いっぱいに涙を浮かべた、覚えのある姿だ。その身体を思い切り抱きしめる。もう離さないというように、細い身体が壊れそうなくらいの力を込めて。
「ロックオン、ロックオン、ロックオン…!」
 まるでその言葉しか知らないかのように、何度も名前を呼ばれる。そのたびに、死んだ細胞が生き返るような新しい気持ちがわきおこった。俺は―――ロックオン・ストラトスは、この声に生かされていたのだ。名前など記号にすぎず、呼ばれなければ意味がない。しかし呼ばれ続ければその存在はかたちづくられてゆき、いびつなにせものでも生きていけるようになる。だから、俺はティエリアといる限りは、在り続けることができるのだ。ロックオン・ストラトスとして。
「ありがとう、ティエリア」
 そっと頭をひと撫でして、涙でぐちゃぐちゃになった彼の顔をのぞき込む。なぜお礼を言われるのかまるきり分かっていない相手は、紅茶の色をした両目を大きく見開いてこちらを見返した。そこに笑いかける。全力で。
「お前がいなきゃ、俺は何も気づけなかったよ。もう少しで、色々見失っちまうところだった」
「…僕は何も、」
 ふるふると頭を振るティエリアに、冗談ぽく言葉を続ける。口調は茶化してみたけれど、その言葉に嘘はない。
「しただろ。どうしようもねえロクデナシを好きでいてくれた」
 そう言うと、ティエリアはもう一度目を見開いて、それから涙も乾かぬまま、ぎこちなく笑みを浮かべた。そして俺の背中を強く引き寄せ、肩に顔を埋める。その拍子にさらりと長い髪がこぼれおちて、甘い匂いが鼻先をくすぐった。それと一緒にふっと空気だけで笑う音がして、小さな声でのささやきが耳たぶに絡む。
「自分でそういうことを言う、あなただから好きなんだ」
 ぎゅっと腕に力を込められ、引き寄せられる。顔をみるために少し作った距離は、その仕草であっさりと埋められて、服越しに体温と体温が触れ合う。ごまかすのではなく、こうして温もりをかわしあうのは悪くない。外気で冷やされた身体に、ティエリアの体温がじんと染みて心地よい。
「…そばにいても、いいだろうか」
「ああ」
 応えると、ティエリアは拘束を少し緩め、うれしそうに笑ってみせる。彼のこういう笑顔をこの先何度も見るために、俺は生きていこうと思った。この場所で、ずっと。
 ふと存在を思い出して、ポケットの中身を探った。そして彼が一度はずした指輪を細い薬指にはめてやる。ティエリアは照れくさそうにその指先を眺め、約束なんだな、とちいさく呟いたのだった。








 この家の主は、奥のダイニングテーブルでのんびりとコーヒーを啜っていた。玄関の前での俺たちのことなどまるで何もなかったような振る舞いが彼らしく、密かに安心するとともに感謝する。それでも、三人分用意されたマグカップと、中になみなみと満たされたコーヒーがうれしかった。包帯の巻かれていない方のアイスグリーンの瞳と視線が重なり、胸が跳ねる。しかし彼は、こんなときに限っていつものように笑うのだ。
「久しぶり…というわけでもないのか。長らく顔を見ていなかったように思うな」
「……すみません。合わせる顔が、なくて、」
 ぎこちなく席につくと、その隣にちょこんとティエリアも腰掛ける。たまらず目をそらしてしまった俺に、テーブルの下でそっと手を握ってくれていた。大丈夫だ、と伝えるように力強く握られたてのひらに、密かに勇気づけられる。もう俺は、逃げないと決めたのだ。この場所で生きていくのだと。
 指輪のある左手をぎゅっと握り返して、それから隊長の瞳をまっすぐに見据える。大きなまるい両眼が意外そうに軽く見開かれたのをみて、それから勢いよく頭を下げた。
「本当にすみませんでした。俺にできることがあれば、なんでもします。償いとか、罪悪感じゃなくて……あなたの力になりたいと、思っています」
 頭を下げたまま、高そうなテーブルの縁をにらみつける。自分のしでかしたことに比べれば、こんな言葉はひどく薄っぺらい。しかし、だからといって言葉は無力だとも思わない。何度伝えることを重ねれば、いつか変えられるものもあるのだと、信じたかった。少なくとも罪悪感に酔いしれてこの場を逃げ出すよりは幾分かましだ。
 また、きゅっと手を握る力が強くなる。何事かとテーブルの下に目を向けたとき、初めて自分の手が小刻みに震えていたことに気づいた。派兵先でブリキのコップを握っていた、後輩の手の震えを反射的に思い出していた。
 しかし、恐怖心もしっかりと見据えればそれほどのものでもない。そう思えるのは、隣にいてくれる存在のおかげだろう。そっとティエリアの方へ向き直ると、ひどく真摯な顔でこちらをじっと見つめている。握られた手のひらをほどき、その彼の肩をそっと引き寄せた。
「俺は、ここで生きていきます。こいつと一緒に」
 そう言ってまた、隊長の片目を見返した。自分の行動をしっかり見つめ直すのは、やはり勇気がいる。震えて、逃げ出したくなる。けれどなんとか押しとどまっていられるのは、きっとひとりではないからだ。
「そうか」
 俺の言葉を聞いた隊長は、片目だけでゆるりと笑ってみせた。演習場でみたときよりも包帯が減っているせいなのか、痛々しさはずいぶん薄らいでいた。彼の生来の笑い方もあるのだろうが。堂々とした、太陽のような笑顔だ。俺はずっとそれにあこがれていた。
「何でもすると言った。ならば、訊いてもらおうか」
「…はい」
 固唾をのんで彼の言葉を待つ。彼は口元から笑みを消し、真剣な顔をして、その続きを口にした。
「私が不在の間、隊をきみに預ける。嫌とは言わせん」
「あ……、え?」
 まるきり予想外の要求に、思わず目を見開いた。思わずティエリアを一瞥するが、彼もまた眉ひとつ動かさず、じっと隊長を見つめている。俺が来る前に、いったい何が話されていたのだろう。―――そもそも、ティエリアがなぜ隊長のところにいたのかという肝心なことを聞きそびれていた。ああ、だめだ。混乱していて思考があさっての方向に飛んでしまう。何でもするというのなら、すぐにでも頷くべきなのだろうが、思考が展開についてこれずに戸惑うばかりだった。説明を求めるべきか迷いながら、なにやら目と目で合図し合っているティエリアと隊長を見比べる。いつの間に、二人はこれほど仲良くなったのだろうか。
「やはり、行くのですか」
 しかも敬語とは恐れ入った。ティエリアが敬語を使うときは、よほど人見知りをしているときか、相手を真摯に尊敬しているかどちらかだ。後者の意図で用いられたのは、彼がひどく気に入っている「タケトンボ」という工芸品を作って彼にプレゼントをした、近所の公園に出没するというご老人(御歳82歳になるらしい)しか知らない。そのタケトンボ職人と隊長が同列に並ぶ日が来るとはまさか思わなかった。
「まさしく。私は日本で生まれ変わってくる。次に戻るときはブシドーを極め、真のサムライとなっていることを誓おう」
 ―――何か間違っているような気がするのは俺だけだろうか。
「サムライ…!」
 しかもティエリアは真剣に目を輝かせ、感動している。もしかしたら間違っているのは俺のほうなのかもしれない。すっかり隊長のペースに飲まれているのを自覚しながら、おずおずと口を開いた。
「日本、って?」
 そこでようやく俺の存在を思い出したというように、目を見開く。何でもします、と言ったことを、ほんの少しだけ後悔した。しかし隊長は子どもみたいに目を輝かせ、気にした様子もなく続けた。この切り替わりはひどく彼らしく、言及する気もなくしてしまう。まったく、隊長にはかなわない。
 そっと、隊長のゆびさきが包帯にくるまれた片目に重なった。その、いつくしむような触れ方にみとれる。
「日本に、この傷を、身体を、完璧なまでに治せる技術があると聞いた」
「……隊長」
「私はまだ空を諦める気など微塵もない。ならば、きみが諦める道理がどこにある?」
 彼はまた、口の端をつり上げた。そこにはもう、痛々しさは微塵も見えなかった。当たり前だ。翼をもがれてなお、彼はまだ空を、太陽を目指しているのだから。俺のように、罪や痛みに酔う暇もなく、一心不乱に立ち上がる術を探していたのだ。
 ―――本当に、隊長にはかなわない。
「ここで生きるというのなら、飛び続けたまえ。隊長命令だ」
「はい!」
 今度は、迷いなく頷くことができた。好き勝手なことをする分、自分の考えを他人に押しつけることのない彼が、珍しく「命令」などという言葉を使ったのは、きっと照れ隠しだろう。彼はさらに笑みを深め、言葉を続ける。その言葉の方が、ずっと彼らしくあった。
「また空で逢おう。ロックオン・ストラトス!」
 太陽のような笑顔で、透き通った青空に響くような声で、彼は俺に告げた。その言葉は、怪我をさせてしまった相手への償いでもない。上官から部下への命令でもない。
 指輪のような証明はどこにもないけれど、確かに、約束と呼べるものだった。






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