家に帰ると、目の下を腫らしたライルがテーブルいっぱいの食事を作って待っていた。家にある大皿にぎりぎりまで盛られたパスタや、ボウル山盛りのサラダ。分厚い肉を贅沢に使ったローストビーフに加え、大きな宅配ピザまであって、三人で食べるにしても量が多い。
 いったいどうしたんだ、と問いかけたのだが、ひとりで暇だったんだよ、としか言わなかった。それ以上の言及を避けるような笑い方に、何も言えなくなる。テーブル越しのライルは、大量の料理を摘みながら、ずっと、ずっと笑っていた。
 山盛りのパスタに呆然としているティエリアに、ライルが黙って一人分を盛ってやる。いつもは俺の役割で、ライルはそれを過保護だと笑っていた。彼らしからぬ振る舞いも、受け取る手つきも少しぎこちなく、けれど必要なことだった。おずおずと黙って差し出された取り皿を受け取ってから、ティエリアの呟きが料理に埋もれたテーブルに転がった。
「黙って出ていって、すまない」
「オレも。色々勝手して…悪かった」
 視線とともにそれだけを交わした。少しの沈黙の後、がつがつとパスタを二人で食べる。珍しくティエリアの皿が先に空になり、それを再びライルに差し出したので、差し出されたライルは少し困ったように笑って、そこにピザを乗せた。ピーマンだのトマトだの、好き嫌いにうるさいティエリアが、黙って今度はピザをほおばっているのをみて、これでいいのかもしれない、と思った。 
 ティエリアに笑いかけると、チーズの糸をのばしながら、赤いひとみを見開いて怪訝そうな顔をする。黙って頭を撫でてやった。その有様を見てライルがまた笑みを深める。いつもの冷やかすような笑い方ではなく、安堵したような穏やかなそれをみて、何かを言おうとしたけれど、うまい言葉にならなかった。

 しかし、互いに何も口にはださないまま、普段通りに見える夜は更けていき、日付が変わる頃、おやすみ、と言い合ってライルと別れた。
 瞼を閉じてしまえば、やはり、同じような朝がくるのだろうか。ライルとティエリアが作った朝食。朝の冷えた外気。ホロモニターにうつるアナウンサーの、平坦な発声。いつも通りの朝を思い浮かべ―――そして、目を開けた。
 俺の気配に気づいたティエリアがゆるりと目を開け、わずかに身を寄せて顔をのぞき込む。預けられたまるい頭を撫でながら、このわずかな違和感に名前をつけようとして、し損じるということを何度も繰り返していた。
「…なぁ、ティエリア」
 頭を撫でた後、指通りのいい濃い色の髪を梳く。そのまますんなりとした輪郭の顎に触れ、薄い唇へと指先がたどり着いた。やわらかい粘膜をぷにぷにと弄びながら、その先を言葉にしようか迷う。それはあまりにも感覚的で、相手を納得させることは難しいと思ったからだ。しかし、先回りしてティエリアは俺に笑ってみせる。顔を包み込んでいる俺の手のひらに、そっと自分の手を重ねてひとみを閉じた。
「あなたの、したいようにすればいい」
 彼は何も聞かずにそれだけ言って、笑った。彼がどこまでわかって言っているのか、それともわからずに唯許してくれるのかは知らないが、彼の言葉が俺のぼんやりとした迷いを払ってくれたことだけは確かだ。
 ティエリアを、失わなくて本当によかった。このちっぽけな少年がきてから、大げさでなく俺は変わったのだ。過去にとらわれ続けていたニール・ディランディを明日へと歩かせてくれたのは、ほかでもない彼なのだから。
 半身に預けられた体温をもう少しだけ引き寄せて、背を撫でる。耳元でありがとう、と小さく呟くと、やはり相手は怪訝そうな顔をするだけで。俺は彼のそういうところが好きだった。







 持ってきた荷物はそれほど多くはないと思っていた。しかし、予想外に長居をしてしまったせいなのか、パッキングした荷物は意外に量があって驚く。全て手で持ち帰るのはおそらく無理だろうから、いくつか送ってもらわねばならない。いつの間にこんなに荷物が増えたのだろう。
 最初は一週間くらいで帰るつもりでいたのに、気がついたら季節が変わっていた。あまりにも居心地がよすぎて、ずっとこのままでいたいと望んでしまった。二人をアイルランドに連れていこうとしたのは、本当はきっと、兄さんのためではかった。単なるオレのエゴに過ぎない。過去を反復することでしか、幸せになれないと思いこんでいた。けれど兄さんたちは違った。
 本音を言えば、たぶん、羨ましいのだ。同じ顔をした双子で、同じ傷を持った彼だけが、新しい幸せを持ち得たのが。無意識にそれを許せず、思いやるふりをしてアイルランド行きを持ちかけた。膝をついた兄さんを立ち上がらせるのではなく、諦めさせて過去へと引きずり込んでしまった。今ならわかる。家族だからと理解したそぶりで、自分自身の感情すらきちんと捉えられていなかったのだから笑える。
 だから、今度こそは。過去の反復ではなく、兄さんのまねごとでもなく、オレだけの力で幸せになろうと思った。そのためにはこの、居心地のいい場所にいてはだめなのだ。家族といるのはあたたかいけれど、いつかは離れなければならない。わかっている。
「…ありがとう」
 本当は戻ってくる前に姿を消すつもりでいたが、帰宅した兄さんが独りではあまりに気の毒に思え、朝まで待とうと思っていた。しかし戻った兄さんはひとりではなかった。ようやく、この家はあるべき姿を取り戻したのだと知って、思い残すことはなくなった。
 ティーがパソコンケースと勘違いをして買った大きなトランクを掴み、立ち上がる。就寝時用のロックを解除して玄関先へと向かった。目が覚めたら二人は驚くかもしれないが、向こうで落ち着いてから謝ろうと思う。顔を合わせて別れを告げるのは少し、つらいから。
 ―――しかし、感傷的な気分に浸っていられるのもそう長くはなかった。
「よぉ、ライル。こんな夜中にどこ行くんだ?」
「明日の朝食の準備は終わったのか」
 声も出なかった。玄関には、セミダブルのベッドで眠っているはずのふたりがしっかりオレを待ち伏せていたのだ。やはり戻ってくる前にこの家を出ていくべきだったと悔やむ。できることなら顔を合わせたくなどなかった、のに。
「な、見逃してくれねえ?」
「断る」
 トランクの取っ手を握り直し、薄っぺらい笑みを浮かべて兄に伺いをたててみるが、眉尻を鋭くつり上げた相手に、きっぱりと切り捨てられた。それだけならまだ、よかった。けれど、
「ティエリア、」
「わかった!」
「…へ?」
 二人はアイコンタクトを交わした後にぱっと二手に分かれ、見事なコンビネーションでオレの逃げ道をふさいでしまった。ティーが素早くオレからトランクを奪い、たじろいだ隙に兄さんに抱えあげられる。まるで荷物を運ぶような乱暴な所作で肩に担がれて戸惑う。ティーをベッドに運ぶときくらい優しく、とはいわなくても、バランスをとるのすら難しい、この危うい姿勢はないだろう。抵抗をしたら本当にオレも兄さんもバランスを崩して転びそうだったため、暴れることも忘れてしまった。もしかしたら、それも二人の作戦だったのかもしれないが。
 ガラガラと音を立てて、トランクごと二人の寝室に運び込まれる。途端、セミダブルのベッドに投げつけるように放られた。背中にスプリングの弾力を感じながら、意味も分からず呆然とする。そんなオレを後目に、両側に二人が倒れ込んできた。ティーと二人で見た地元のベースボールチームの試合で、選手が点を取るために必死でホームベースへスライディングしていたときの動きを、思い出していた。
 思わず身をすくませると、兄さんが身体を強く引き寄せて拘束する。抱きしめる相手が違うだろ、と抵抗しようとしたとき、息がかかりそうな近さで、ばかみたいな音量で吹き込まれ、鼓膜が破れるかと思った。
「家族は川の字で寝るもんだ。おとなしくしやがれ!」
「な…んだよ、それ!?」
「観念しろライル。トランクは僕が預かっている。君はおとなしく夜明けまでここで眠るんだな」
 オレを拘束する兄さんの腕に、ティーの腕まで重なって身動きがとれなくなる。逃げるどころか、腕を少し動かすのも困難な窮屈さに思わず息を吐き、観念したように全身の力を抜いた。洗い立てのシーツの、清潔な香りと二人分の体温が鼻先をかすめる。二人の耳元にようやく届くか届かないかという音量で、ちいさく呟いた。
「悪かったよ。黙って、出ていこうとして」
「……ホントにな。万死だ。ばんし」
 兄さんがティーの口癖を真似ながら、そっとこどもにするように、ぽんぽんとオレの頭を撫でてみせる。兄さんに頭を撫でられるなんてそうあるものではないが、今日だけで二度もされてしまった。なんだか気恥ずかしくなって押し黙っていると、ティーの手のひらもそこに重なった。先ほどから兄さんの所作を反復するティーはまるで、親鳥の真似をするひな鳥だ。血のつながりなどなくても、こういうところで似てくるのだろうな、となんとなく思う。
「…帰るんだな、ライル」
 夜の闇に染まってガーネットのようになった赤いひとみが、真っ直ぐオレを見据えながら、そう問いかけてきた。ゆっくりと頷くと、ティーは少し悲しそうな顔をしてうつむいた。そして胸のあたりを軽く叩かれる。痛みなどほとんどない、じゃれ合うような強さだった。
 とん、とん、と何度も叩かれ、それを黙って受け入れる。彼は何もいわず、オレを優しく責めていた。叩かれている間中、ティーの作る薄いスープのことや、しなびたサンドイッチのことを思い出していた。
「スープがふきこぼれたくらいで慌てンなよ。溢れたくらいで味は変わんねえんだ。まず、弱火にすること」
 胸を叩きながら、何もいわず黙って頷く。まるい頭に更に重ねた。
「サラダのレタスは水にさらすのを忘れないこと。トマトがよく切れないときは、ナイフを火であぶれ。あ、火傷に気をつけろよ」
 また頷いた。ほかに言い残すことはないだろうか。こんなことなら、ちゃんとレシピや何やらまとめて置いておけばよかった。夜明けまでの数時間ではとうてい無理なので、これも向こうに着いて落ち着くまでの宿題にしておくことにする。
「買い物ンときは上目づかいで迷う素振りを見せとけ。年のいった親父が狙い目だ」
「…待て。お前ティエリアに何教えてんだ」
「正しい買い物の方法だよ。な?」
 オレの言葉にティーはこっくりと頷き、兄さんが焦る素振りを見せた。素直な教え子を持つと非常に教えがいがあっていい。たまに冗談も丸飲みしてしまうときがあるが、それも愛嬌といっていいだろう。不器用だが、少しずつ、一つずつ、身につけていった。
 ティーの成長を見るにつけこちらまで嬉しくなった。初めて食べられる朝食をひとりで作れたとき。不格好で糸の色も違うボタンをつけてもらったとき。どれもが楽しかった。もっと色々なものを教えたかったし、見ていたかった。帰ることに迷いはないが、それだけは少し、心残りだ。
「オレがいなくても、頑張れよ」
「……不安になったら?」
 てっきり、当然だ、と返されると思ったから少し驚く。そして、オレに問いかけてくる赤いひとみが本当に不安そうで胸が痛んだ。兄さんに会いに来て、彼と出会って、喧嘩をして打ち解けて。思いの外近づいてしまった距離に苦笑する。
「上目遣いで、迷う素振りを見せとけ。たぶん、オレと同じ顔の男が慰めてくれるから」
「…わかった」
 冗談めかした言葉に、初めてティーが笑ってみせた。精一杯のつよがりの笑みだったが、それでも確かに笑顔だった。こういうときに笑えるのは強さだと思う。きっと彼ならば、大丈夫だ。
「兄さんを頼むな。どうしようもねえロクデナシだけど」
「知っている」
「おいコラ、ちょっと待て……ッ!?」
 抗議をしようと身を起こした兄さんの唇を、ほぼ同時に身を起こしたティーの唇がふさぐ。真ん中に挟まれたオレの上で交わされたキスは一瞬だったが、特等席でばっちりと見せつけられてしまった。
 呆れるとか恥ずかしいとか、それ以上におかしくなって、つい吹き出した。声をたてて笑う。こんな二人が、つい先ほどまで本気で離れようとしていたなんてとても信じられない。
 突然笑いだしたオレを、怪訝そうに見下ろす二人を見返しながら、冗談めかして口にした。
 きっと、彼らならば大丈夫だ。
「幸せになれよ、ふたりで」
 それは口にするとあまりに陳腐なせりふだったが、それ以上にうまい表現が見つからなかった。
 オレの言葉に彼らがどんな反応を示したのかはよく覚えていない。言いたいことを言い尽くして、ここのところ続いた緊張状態が解かれたのもあって、糸が切れたように眠ってしまったからだ。











 目が覚めたときにはすっかり日が昇っていて、両隣にはオレの家族がふたり、すうすうと寝息をたてていた。しかもオレの身体の上でしっかりと手を繋いでいるおかげで、身動きがとりづらい。これが単なるバカップルの日常なのか、それとも眠っている間にオレが勝手に帰らないように対策をとったのかは定かではない。どちらにせよ、オレは二人が目覚める前に、三人分の朝食を作らねばなるまい。
 しなびていないサンドイッチと、ちゃんと味の付いたスープ。みずみずしい野菜のサラダ。たぶん兄さんは、ティーが腕を上げるまで当分食べられないだろうから、腕によりをかけて作ってやろう。
 ―――三人で食べる、最後の朝食だ。








.....The End