とにかく頭を冷やしたかった。
 無造作にシャワーのコックをひねってから、なんと服を脱ぎ忘れていたことに気づく。しまった、と思ったが、濡れて身体にはりついていくシャツをみているうちにだんだんどうでもよくなってきた。
 傘を忘れたときのような気分で、前髪をかきあげたあとにシャワーの水をにらみつける。頬に勢いよく当たる水は痛いくらいで、磨耗した頭が冴えていくのを実感した。
 ―――甘えるのも大概にしなよ。
 先ほどの言葉が、ようやく活動を始めた頭に響きわたる。
 反論の余地もなかった。俺は、失敗をした自分が可愛くて、自分を責めるふりをしながら隊長に甘え、ライルに甘え、そしてティエリアに甘えていた。
「…まったく、最低だな」
 ニール、と呼ぶ彼が戸惑っていたことに気づかない振りをして、それが幸福なんだと押しつけ、耳を傾けるべき言葉を塞いでいた。ティエリアはそんな俺のエゴを懸命に受け止めようとし、翻弄され、耐えきれなくなったのだ。
 正直に言えば、俺はティエリアを見くびっていた。
 昔の彼ならば、素直にアイルランド行きに頷いただろう。
 ―――いらないと言われたら、どうしようかと思った。
 ティエリアが、俺に言った言葉だ。
 いつだって必要とするのはティエリアの方で、俺は与える役割だった。俺だけを求めていて、俺のいない世界などありえない。自分の感情や、自分がどうしたいかなど考えもしなかった。唯純粋なだけのこどもだった。俺が望むことならば、なんだってうなずいただろう。俺だけが、彼の世界のすべてだった。彼を暴君のごとく組み敷いて、さみしさや他者の体温を教え込んだのは他でもない俺だ。乾いた砂地のように彼はそれらを飲み込んでいき、もっともっとと強請る様を見て俺は、限りない愛情と同じだけ、ひとりの人間のすべてを握るような、醜い支配欲に満たされていた。
 けれど、そんなティエリアが俺を捨てたのだ。それは紛れもない、彼自身の選択だった。彼はもう俺に支配されてなどいない。ひとりの人間として意志を持ち、考えた末に俺のもとを離れた。
 大切な相手が離れていった喪失感やさみしさといったものは勿論あるが、一方で彼の成長に身震いがした。彼は彼自身のもので、俺の所有物ではない。当たり前のことを突きつけられ、今度こそ俺は、途方に暮れるしかできなかった。
「…情けねえ」
 頬に当たる冷水を浴びながら吐き捨てる。低いつぶやきは、水がタイルに当たる音にかき消された。
 俺はといえば、結局、楽になる方法ばかり探していたのだ。
 隊長の傷と向き合うこともせず、じっと身を固くして優しくしてくれる家族に縋って逃げようとした。幸福だった、けれど過ぎ去ってしまった過去にばかり目を向けて、現在の自分がこの先どうありたいのか―――未来を見ようとはしなかった。
 幸せになることと、幸せだった過去を反復することは、たぶん違うのだ。故郷の家に戻ったところで、母さんも、父さんも、エイミーも誰もいない。指先が覚えている番号を押したところで、無機質な音声案内が流れるだけだ。どんなに希ったところで、もうすべては終わったことであり、失ってしまった。
 あのころに戻ることがしあわせだと信じていた。だから今の自分はにせものなのだと。あたたかだった記憶に執着するあまり、今の自分の帰る場所を、待っていてくれた人を失いかけている。
「なーんもねえな、見事に」
 自嘲気味にそう口にした後、シャワーの水を止めた。毛先や顎、袖口からジーンズの裾。あらゆるところから水滴がしたたり落ちて、まるで俺の周りだけ雨が降っているようだった。間の抜けた有様だが、今の気分には合っている。まだ気は重いが、自分の姿を鏡でみて、笑うくらいの余裕はできた。シャツが水を吸って重たくなった腕を伸ばし、濡れた手で鏡にふれた。情けない顔が近づいてくるのを、じっと見つめる。
「どーすんだ、俺」
 無理矢理口の端をつり上げ、笑顔をつくる。それをみて、不意にアイルランドに行こうといったときのティエリアを思い出した。あいつもあのとき、こんな顔をしていた。途方に暮れて、それでも笑うしかないところまで追いつめられたときの。
 気がついたら俺は、ティエリアにこんな顔をさせていたのだ。
 幸せにしたかった、相手に。

 勢いで濡れてみたものの、いつまでもこのままというわけにもいかない。風邪を引いちまうな、と思った後、自分の思考に苦笑した。死にたいなんて思ってもみたけれど、結局そんな小さなことを気にしてしまう程度の奴なのだ、俺は。死ぬことも消えることもできない。名前を変えても故郷を捨ててもみっともなく生き続けている。だから、どんなに情けなくとも、無様でも、俺は存在し続けるのだろう。
 着替えを確保しようと濡れネズミのまま居間に戻ろうとして足を止める。この格好で現れて、何も聞かれずに済むとは思えない。どんな言い訳をすべきか考え、しかし何も思いつかず、とりあえず頭を冷やしたかったのだ、と素直に答えるしかないという結論に達した。ライルの驚いた顔を思い浮かべる。カタギリさんは精密機械が濡れるから入ってこないで、くらいは言うだろう。着替えを貸してもらえるだろうか。というか、あの人のサイズが俺に入るだろうか。むしろそっちの方が心配だ。
「まさか、君も知ってたなんてね」
 不意にカタギリさんの言葉が飛び込んできて、ドアを開けようとした手が止まる。
「兄さんには絶対言うなって言われたんですけどね。オレは犯人がアンタだってことに驚きました」
 穏やかではない台詞と、自分の話題が出てきて胸が跳ねる。この家のドアが我が家のように手動ではないことを悔やみながら、ロックを解除せず代わりに耳をつけた。様子は伺えなくとも、会話を拾うならこれで十分だ。
「犯人だなんて人聞きが悪いなぁ。僕はただ友人に頼まれて仕方なくこなしてるだけ」
「ほ、おおー! 仕方なく、で毎日加工済みの隠し撮り写真を大量に送りつけるくらい暇なんですね、アンタの仕事場は」
「友達思いだって言ってほしいな」
「…何なら訴えてもいいんですよ? 兄さんのかわりに」
 会話を拾うだけなら十分でも、流れにいまいちついていけず、外耳を強くドアに押しつける。隠し撮り写真やら、カタギリさんが犯人やら、訴えるやら、いったい彼らは何をしているのだろう。止めに入った方がいいのだろうか、と思うが、タイミングを逃してしまい途方に暮れる。
俺が迷っている間にも二人の会話は続いていた。
「でも、隠し撮りにしてはよく撮れてると思わないかい? 仕事場での君の兄は大体こんな感じ」
「天使様とじゃれあってるようにしか見えねえ……MSWADってやっぱ暇なんですか?」
「フランクなのが売りの職場でね。楽しそうだろう?」
 それは認めます、と低くつぶやくライルに、今すぐドアを開けて乗り込みたい衝動に駆られる。いつの間に隠し撮りなんてされていたのだろう。しかもそれをあろうことかティエリアに送りつけていたなんて。俺が隊長の熱いキスを受けているところなど見られたら弁解するのも簡単ではない。直ちに止めに入らないと―――、
「……あ、」
 蚊の鳴くような声が漏れた。
 ロックを解除しようとした手が止まる。あの写真を送りつける相手はもういないのだ。俺は弁解する必要もない。そんな当然のことをすっかり忘れていた。
 ティエリアは、もういない。
 動揺がようやく収まり、改めてその事実を飲み込んだとき、言いようもない空虚感が胸に去来した。
 途端、泣きたいような気分におそわれて、ドアを背にずるずると座り込む。肩を抱いてうずくまるが、涙は出なかった。泣いたら、二度と立ち上がれないような気がしたから。涙の代わりに、拭いきれなかった水滴が、ぽたりと毛先から落ちた。
「こんな表情ができる彼が、にせものだとか、不幸だとか、だめだとか…どうしても思えないんだよ、僕は」
 最悪な気分とは裏腹の穏やかな声に息をのむ。涙のでない両眼を見開き、肩を抱いている手のひらに力を込める。ドアの向こうに俺がいるなどとつゆ知らず、ドアの向こうの言葉は続けられる。
「この写真を毎日欲しがって、一向に飽きる様子を見せなかったティエリアが、彼を捨てるはずがないとも思う。わかる? この量を毎日だよ、毎日」
「なんで、こんなこと、」
「わかりたいんだってさ。ロックオンの全部を。……まぁ、そんなのは言い訳で、単純に、ロックオンが好きで好きでたまらないんだと思うよ? 可愛いよねえ」
「…ティーらしいな」
 ライルの笑い声が聞こえる。ぽたりとまた、水滴が落ちた。
 今度は涙だった。
 一度決壊してしまえば、みっともないくらいに涙は止めどなくあふれてくる。嗚咽が漏れればドアの向こうに悟られてしまうというのに、それでも止めることができなかった。
 ―――ティエリアが好きだ。
 純粋で、世間知らずで、俺だけを求めてくれるこどもだからじゃない。
 俺が傷ついたら不器用に抱きしめてくれて、いいことがあったら一緒に笑ってくれて。淋しさを埋め合うように一緒にいてくれた。そういうティエリアだから、好きになった。
 ティエリアを探そう。拒まれても、また逃げられても、追いかけてみよう。そしてちゃんと話がしたい。体温でごまかさず、きちんと、もう一度好きだと伝えたい。
 向こうが俺に失望しても、距離を置かれても、それでも諦められない。諦めることでずっと自分を守ってきたけれど、今度は傷ついても構わない。ここで諦めるよりはましだ。
 涙を乱暴に拭い、濡れた前髪をかきあげて立ち上がる。涙で熱を持った頬を両手でぱん、と叩いてから、前を見据えた。
 ティエリアを、迎えに行こう。覚悟は決まっていた。
「…っくし!」
 しかし、不意に漏れた大きなくしゃみともに、逆方向からロックが解除されてドアが開く。そして現れたカタギリさんは、廊下に立ち止まっていたずぶぬれの男を、珍しいものをみるようにじっと観察していた。
「あ、いたんだ」
「…すみません。着替え、貸してくれませんか」
 我に返り、居間まできた本来の用事を思い出す。覚悟が決まったにしても、いまいちしまらなくて笑えた。
 たぶん、これくらいが俺らしいのだろう。






 一人部屋に残されて、ホロモニターを眺める。そこに映るのは兄さんと天使様、そして同僚たちがパイロットスーツを着て、雑談の合間に笑い合っている写真だった。この写真一枚でも、仲の良さが伝わってくる。確かによく撮れていると思うし、機密らしき箇所は綿密にぼかされているのも細かい。さきほど触れたが、この枚数を毎日隠し撮りして加工までするなんて、一体どれだけ暇なのだろう。兄さんの話を聞く限り、かなり忙しくしているようだったが。
 ―――こんな表情ができる彼が、にせものだとか、不幸だとか、だめだとか…どうしても思えないんだよ、僕は。
 さきほどの彼の言葉を思い出す。
 名前を変えて、故郷を捨ててしまったロックオン・ストラトスは、不幸が重なった結果生まれたにせものなのだと思いこんでいた。―――というよりも、本当は、そう信じたかっただけかもしれない。オレのいないところで、兄さんひとりだけが別の幸せを見つけるのが許せなかったから。
 頼まれていたわけでもないのに勝手に金を返そうと必死になって、そうして兄さんを思い続け、過去に縛られ続けるのが正しいことだと思いこんだ。ロックオン・ストラトスを認めてしまったら、そんな自分の数年間が無駄だったように思えて、怖かった。
 テロで家族を失って、傷ついて、その傷と向き合いきれずに故郷から離れて―――そのくせ、たったひとりの家族とのつながりは切れずに送金だけ続けている、不器用でかわいそうなニール・ディランディのままでいてほしかった。そんなニールを、故郷に戻すことが幸せだと思いこみ、同じ傷や記憶、そしてオレ自身を一生刻みつけようとした。
 結局、さみしかったのだ。そして羨ましかった。別の幸せを見つけて、離れていこうとする家族が。
「……いい表情しやがって」
 わかっている、本当は。
 オレは幸せになりたいのではなく、過去に縋っているだけなのだと。
 ロックオン・ストラトスはにせものなんかじゃない。にせものがあんな幸せそうな顔をできるはずがない。彼はもう過去の反復ではなく、自分だけの新しい幸せを、未来を見つけたのだ。
「いいなぁ」
 口をついて出た言葉があまりにも正直すぎて苦笑した。昔から兄さんはオレの先を行くのだ。どんなにオレが羨ましかったか、知りもしないで、平気な顔をして振り向いて、ライルも来いよ、といって笑う。今だってそうだ。三人で家族だ、なんて言って、新居に引きずり込んで、変わった彼の恋人と暮らすはめになった。ティーと打ち解けるのにどれだけ苦労したかなんて、たぶん彼はわかっていない。そういう男だ。




「…うっわ、こんなんまで撮られてたのか」
 不意にドアが開く音がし、覚えのある声が聞こえる。あわてて画面を消したけれど、時はすでに遅かった。ばつの悪い思いがして振り返ったとき、色々消し飛んで、思わず吹き出しそうになったのを抑える。
 部屋に入ってきた兄さんはこの部屋から出たときと格好が違っていた。シャツとジーンズというごく普通の格好なのだが、問題はそのサイズだ。
「おっそろしく似合わねえ格好してるな」
「ほっとけ。サイズがなかったんだよ」
 恐らくここの家主の服を借りたのだろうが、それにしてもひどい。袖は半端に余っている割に、細身のシャツを無理矢理着ているせいで窮屈そうだ。筋肉はついているが、もともとそんなに太っている体型でもないはずなのに、胴回りのボタンがはずれそうで目も当てられない。いっそオレのシャツでも差し出してやりたかったが、自分があの格好で帰る勇気もないのでやめておいた。
「えっと、知ってるってことはティーに内緒に…」
 言いかけて、口をつぐんだ。そうだ、ティーはもうここにはいない。相手が苦微笑を浮かべたのをみて、罪悪感がにじみだす。
「……悪ィ」
 ゆっくりと頭を振り、そして兄さんは静かに口を開いた。
「ティエリアを迎えに行くよ」
 はっきりした意志の宿った言葉に、息をのんだ。自分を責めて、遠ざかるのも仕方ないと諦めるような口振りだった、先ほどまでの姿はもうここにはなかった。
「何ヶ月かかっても、何年かかってもいい。必ず見つけだして、今度こそちゃんと、話をしようと、思う。その結果また離れることになってもいいから」
「兄さん…」
「あいつが好きなんだ、ライル」
「……知ってる」
「だから、ニールには戻れない……ごめんな」
 ひどく優しい笑顔で、彼はそう口にした。
 目を見開きながらも、心のどこかで分かっていた。オレは彼の弱さにつけ込んだだけで、彼は心の底からニールに戻りたいと願っていたわけではなかった。知っていながら、引き込んだ。彼の上司に揶揄されたように、オレはずるいことをしていた。
 泣きそうになるのを奥歯を噛みしめてこらえ、端末へと向き直った。フォルダの中の画像ファイルをクリックし、ホロモニターに写真を写す。それは兄さんの同僚の結婚パーティのときの写真だと教えられたものだ。
 手前の新郎新婦を写すふりをして、写真のピントは、その奥にいる兄さんとティーにぴたりと合っていた。僕のベストショットなんだ、と撮った本人は笑んでみせた。
 写真の中で二人はとても幸せそうに笑っていた。これ以上の笑顔なんて、オレは知らなかった。
 それをみて、オレは兄さんを連れていけないと悟った。
 ―――彼はここで幸せになるべきなのだ。ロックオン・ストラトスとして。
「いい写真だな」
 写真を見上げて、ぽつりとつぶやいた。
 兄さんは未来を生きようとしている。そんな人間を過去に引き戻すことなどできない。
「…ああ」
 兄さんが笑み混じりに答える。ひどくなつかしいものを見るような目をしていた。それはオレの知らない顔で、少しだけ胸が痛んだ。
 オレは兄さんに幸せになって欲しかった。オレ自身のエゴにまみれてはいたけれど、ずるい方法しかとれなかったけれど、それだけは嘘ではないのだ。
「アンタはティーを手放しちゃダメだ。ロックオン・ストラトス」
「ああ」
 呼べなかった名前を呼んだとき、胸が張り裂けそうな気持ちになった。けれど今度は彼も訂正しなかった。その迷いのないいらえに、こちらの覚悟もようやく決まった。
 そっと彼のそばに歩み寄り、できるだけ優しく兄さんの背中に腕を回した。予想外だったのか、一瞬、兄さんの身体がこわばったけれど、ためらいがちに抱き返される。二人が幸せそうに笑う写真の前でこんなことをするのに、一抹の罪悪感がないわけではなかった。けれど。
「幸せになれよ、兄さん」
 抱きしめるくらいは許して欲しい。たぶん、これで最後だから。
「なんか他人行儀だな」
「すぐ帰るつもりでいたのに、つい長居しちまった。あんまり居心地がよすぎて。……やっぱ、家族っていいな」
「ライル?」
 気づいてしまった兄さんが、オレの名を呼ぶ。抱きしめる腕に力を込めた。知らない家のにおいに混じり、首筋から慣れた家のにおいがした。家族のにおいに泣きたくなった。ずっといられたら、と思うけれど。
 けれど、それではダメなのだ。
「アイルランドに帰るよ、兄さん。そんで、オレだけの幸せを見つけにいく」
 涙の気配の色濃い、うわずった声だったけれど、兄さんは黙ってオレの頭を撫でてくれた。そして、優しい声で囁いたのだ。
「……いってらっしゃい」
 ―――その言葉で今度こそ、オレの涙腺は決壊した。







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