ティエリア、来てませんか。
 突然自宅にきた彼の、祈るような言葉を聞いたとき、さして驚かなかった自分に驚いた。アイルランドに行く、とライルの口から聞いたとき、心のどこかでこうなるような気がしていたのだ。同時に、安堵にも似た胸のすく思いを自覚した。しかしそれは他人の不幸を祈るようでよくないことだと思ったけれど。
 いろいろな感情がないまぜになったまま、来ていないよ、とインターフォン越しに囁くと、ホロモニターに映った彼の顔がみるみるうちに青ざめていく。まるで母親に見放されたこどものように、ちっぽけで、弱々しい有様は、とても我が軍期待のスナイパーとは思えない。無理もない。ここ数日の間に、彼にはいろいろなことが起こりすぎた。
 さすがに気の毒になって、入りなよ、と誘ってからドアのロックを開ける。てっきり彼一人だとばかり思っていたので、玄関の向こう側に同じ顔がふたつあり、また驚かされた。病院でのやりとりがあって間もないため、視線が絡んだときに少しきまずい思いになる。
 冷静になってこうして眺めると双子とは奇妙なものだと思う。よく似た顔がふたつ並んでおり、ぱっと見るだけではどちらがどちらなのか区別が付かない。じっくりと行動パターンを観察すれば見分けることも可能だろうが、今は二人とも沈痛な面持ちをしているせいで、余計に混乱を誘った。少なくとも片方とは短くない付き合いの筈なのだが、迷ってしまう僕が薄情なのか、それとも彼らが、十年離れていたということを感じさせないくらい似た雰囲気をまとっているのか。おそらく両方なのだろう。
 以前、ちょっとしたイタズラ心から、ティエリアに毎日送る写真の中に弟のものを混ぜたことがある。飲み会の席でグラハムと写っているのを撮ったのだが、場所が薄暗く写真が鮮明でないのもあって、どちらなのか少なくとも僕には区別がつかなかった。
 しかし彼は即座に、悪趣味なことはやめろとメッセージを送ってきて驚かされた。試すような真似をした自分を少しだけ恥じて、おそらく彼はあの二人を間違えたことなどないのだろうな、と思った。そう考えるとなんだかおかしくて、画面の前で声を立てて笑った。突然笑いだした僕を見て、働きすぎて技術顧問がおかしくなったと騒がれ、しかもなぜか医者ではなくグラハムを呼ばれた。そしてより面倒な事態になったのだが、詳しくは思い出したくもない。
 ―――面倒な、日常だった。けれど今はひどく遠いもののように思える。いろいろなものをかけ違えてしまって、いろいろな人が少なからず傷ついている。僕の親友は空を失いかけ、目の前にいる兄弟は大切な家族を失いかけている。
 そして、ここにいないもうひとりの親友はいったい何を失ってしまったのだろう。当事者ではない僕に理解することはできないが、せめて言葉だけでも聞くことができていたらよかった。今はもうそれも詮無いことなのだろうか。
「とりあえず、座りなよ」
 立ち尽くしたままの二人に促してから、しまった、と思う。本やら雑誌やら論文やら端末やらで散らかった部屋には、残念ながら座るどころか足の踏み場もなかった。ひとまずベッドと端末の周辺が辛うじて使用できればよしとしているので、客人を招き入れるスペースなどどこにもない。
 仕方なしにローテーブルが埋まっている筈の端末の山を両手でワイパーのように払いのけ、人が二人辛うじて座れるくらいのスペースを作る。吹っ飛んだ端末がガッシャンと派手な音を立てたが、それほど必要なものではないのでよしとする。カフェオレとドーナツを用意しようと月に一度程度しか使用しないキッチンに向かう瞬間、双子が囁きあうのが聞こえた。
「…端末、吹っ飛ばしたぜ。すげえ」
「ティーだってもうちょっとマシに片づけるよな…」
「見ての通り、整理整頓は苦手なんだ」
 にこやかにそう告げると、二人が身をすくませる。家に招き入れたことをちょっとだけ後悔した。いっそカフェオレに砂糖を五本くらい突っ込んでやろうかと悩んだが、あまりにも大人げないのでやめておく。
 一般的な量の砂糖とミルクを入れたカフェオレと、チョコレートのたっぷりかかったドーナツを差し出すと、ライルが砂糖の味がする、と顔をしかめた。途端にロックオンが彼の頭をはたく。その息の合い方はまるでよくできた漫才を見ているようで、腹を立てるよりも先に感心してしまった。その、砂糖の味のするカフェオレを一口飲んでから、口火を切る。少し和らいだ空気を壊してしまうのに、ためらいがないわけではなかったのだけれど。
「いなくなったんだ?」
「…はい」
「それは心配だね」
 我ながら本気には聞こえない物言いで、しかしそれ以外の言い回しが思いつかなかった。そういう性格なのだと開き直ってはいるけれど、こういう場では後悔する。
 交友関係のあまり広くもないティエリアが、あの家を離れるとしたらまず僕のところに向かうだろうという彼らの読みはあながち間違っていないと思うが、残念ながら僕は彼を隠してなどいない。こういうときに必要とされなかったという事実は、友人を自負していた身としては多少傷つくが、この二人には見つけられたくなかったのだろう。彼が、そんな手の込んだ真似をしなければならない事実は、僕をやりきれない気持ちにさせ、それだけ二人との溝の深さを思い知らされる。
 彼らだって、ティエリアを傷つけたかったわけではない。むしろその逆で、幸せになれると信じて行ったのだ。それなのに一体どこを違えてしまったのか。重たい感情をにじませる二人の姿を眺めて、今更どうしようもない、後悔めいたことを改めて思う。
「まさか、いなくなるなんて思ってもみなくて……あいつ、やっぱ俺のこといやになっ、」
「これ以上ンなくだらねえこと言いやがったら口にドーナツ突っ込むからな」
 顔を青白くさせて言う兄の言葉を、乱暴な弟の言葉が遮る。しかしロックオンは俯いただけで、曇った表情が晴れることはなかった。それを一瞥してライルが舌打ちする。大仰なほどの仕草でどかりとソファに座り直し、ため息をつく。
「大げさなんだよ、兄さんは。案外、ふらっと出歩いてるだけかもしれねえぜ? 出てくみたいな素振りぜんぜん見せなかったし」
「…だったらいいけど」
「何だと?」
「ライル!」
 僕の揶揄するような言い回しに噛みついたライルを、ロックオンが咎める。どうも病院の一件からライルとは相性が悪い。きっとお互いに意識しすぎているのだろう。頭を落ち着かせるためにカフェオレに口を付ける。なまぬるいそれはやたらと甘く感じて、舌先がじんとしびれた。
「心当たりがあるから探しに来たんだろう?」
 なるべく静かな口調でそう問いかける。ライルはぱっと目を逸らし、ロックオンは黙って俯いた。どちらも唯沈黙を守っていたのが、今は十分な答えになり得た。それを深く追及し、抉りだし、責め立てるのもさほど難しいことではないが、それも今更なことだと思ったので黙っておく。
 かわりに俯いているロックオンを見据え、もうひとつ問いを投げかけた。僕の持ちうる少ない情報の中で、心当たりといえばひとつしか思い浮かばなかったが、それでも自信はあったのだ。
「アイルランドに行くのかい、ロックオン」
 呼ばれて、ぱっと顔をあげたときの不安げな顔はやはりこどものようで胸が痛い。しかし一方で、彼が今まで人当たりのいい笑顔で巧妙に隠していた薄暗がりをかいま見たような気がした。それを彼の弟はニール・ディランディと呼んだ。そして、もう一人の家族はそれに何を見いだしたのだろう。
 彼は少し視線をさまよわせた後、ため息をついて頭を振った。感情の抑えられた低い声で、ささやくように答える。すぐそばで、ライルが心配そうに眉を寄せているのもきっと目に入っていない。
「わかりません。どうすれば、いいのか」
「…兄さん」
 ロックオンの言葉の切れ端は涙で上擦っていた。それを紛らわせるように、苦々しくため息を吐き出して頭を抱える。憔悴しきった有様に何も言えなかった。彼を追いつめたくて、問いかけたわけではなかったのに。
「結局、昔と何も変わらないんです。過去から逃げて、誰も自分を知らない場所に行って、なかったことにして。そんなのはにせものなのに。にせものが幸せになったところで、にせものでしかないのに」
 絞り出すような声音での呟きの後、ライルが勢いよく立ち上がった。自嘲気味に笑う兄の襟首をつかみ、怒りに染まった面持ちで怒鳴りつける。
「オレが間違ってたっていうのかよ!?」
 僕に噛みついたときのような、強い意志やがむしゃらさはすっかり失せてしまっていた。語気が荒いだけで、拠りどころをなくし、途方にくれているのは彼も同じだった。
 ―――彼らはやはり、三人で生きていたのだと思う。
 ロックオンの家族と住むことになったと聞いて、二人の関係が変わってしまわないものかと心配したときもあったが、実際はロックオンののろけの内容に、弟の話が加わるようになったくらいだった。
 派兵で一時期不安定だったロックオンの精神状態も、ライルが来てからはすっかりもとの明るさを取り戻した。良い影響なんだ、とティエリアは言っていたし、端から見ていても、彼らの関係はほんとうの家族のように安定していた。まるで初めからそうであったかのように。出会ってまだ一年そこらしか経たない二人と、十年離れていた兄弟とはとても思えなかった。
 しかしティエリアは、その居心地の良い空間を捨てることを選んだ。その理由はわからない。当事者である彼らが分からないでいるのだから、僕など尚更だ。
「オレはただ、このままじゃダメんなるって…思って、それで、」
 握りしめられた拳がちいさく震えていた。ライルが苛立ちをあらわにしたのも最初だけで、すぐにうすい皮膜の下の不安げな表情をさらけだす。本当に、どうしていいのか分からないといった姿だった。まさか選ばれないとは思わなかったのだろう。その、甘えにも似た絶対的な信頼に、彼らはやはり家族だったのだ、と思った。
「なんでダメなんだ……ッ」
 悲痛な呟きにうなだれた頭を、ロックオンの手が不器用に撫でつける。やがて、低い嗚咽が漏れだし、シャツに包まれた肩が小刻みに震えた。その様を見て、なんとなく僕は、最後まで泣かなかった親友のことを思い出していた。
「…お前は悪くないよ。悪いのはぜんぶ、俺だ」
「違う!」
「違わない。俺のせいなんだ」
  ひどく穏やかで、確信に満ちた声で呟く。ポケットを探り、中から何かを取り出した。僕につきだしてきたそれが、指輪だったことに気づいて声を失う。ロックオンの隣にいたライルも、涙に濡れたひとみを見開いて、あわてたように名前を呼んだ。しかし、ロックオンは笑みを崩さないままに続ける。
「ここに来る直前、寝室で見つけました」
 ロックオンの左手にはめられているのと全く同じデザインのそれは、キイを打つのに邪魔だと言いながら、ティエリアが肌身離さずはめていたものだった。そこにはごまかしようのない相手の意志があった。ふらりと気まぐれで出かけたのでも、やむを得ない事情で帰れないわけでもない。ティエリアが、彼自身の意志でロックオンと離れることを選んだのだ。
「あいつは、逃げようとした俺に失望したんですよ。隊長とも全然、顔向けできないまんまで、責任もとらずに…全部捨てようとしたから」
 彼はそう言って自嘲気味に笑う。ライルは涙で顔を伏せたまま、何度も頭を振る。どちらを見るでもなく、照明を反射して光るちいさな指輪をじっと見ながら、相手の言葉を遮った。
「違うよ」
 同じ色の二対のひとみが、ほとんど同じタイミングで見開かれるのはなんだか奇妙だ。それを見て、自分の発言にまた驚いた。基本的に慎重に言葉を選んでいるつもりでいたので、ほとんど衝動でこぼれおちた言葉を、少し持て余す。
 あまり、人の言葉をえらそうに代弁などしたくはないのだ。本人の気持ちは本人にしか分からない。だからコミュニケーションツールとしての言葉というものがあるのだし、会話という手段がある。それらを怠って分かった振りをするのは危うい。だから、僕に言えることはひどく少ない。けれど。
「ティエリアが君を捨てるはずない」
「気休めはいいんです、カタギリさん。だって現に、」
「彼は、君の幸せをいつだって一番に、」
「……分かったようなこと言わないでください!」
 怒鳴りつけられて息をのむ。ロックオンもまた、僕の表情を見て唇に手を当てた。お互いに、感情にまかせた言葉を持て余している。もしかしたら、彼らと同じくらい僕も動揺しているのかもしれない。どうしようもなく感情的で、少しも冷静になれていない。何も知らない第三者は、客観的になれることだけが強みだろうに。ライルにしたようなことを、ロックオン相手にもやるところだった。仕事が詰まって仮眠すらとれず、五日間同じパンツを履き続けたような嫌な気分だった。
 頭をぐしゃぐしゃとかき回した後、深く息をつく。このままじゃ、ダメになる。さきほどのライルの言葉を頭の中で反復した。
「過度の自己否定はただのナルシズムだよ」
 本当は、人の気持ちを代弁なんてしたくないのだ。推測はできてもそれは真実ではないから。言葉にして規定してしまえば、それを聞いた相手は自分の感情をとりこぼす。
「自分が悪いって言いながら、置いていったティエリアを心のどこかで責めてる。グラハムの件だってそうだ。自分を責めない相手を内心では恨んでいる。自分が悪いんです。どうぞ責めてください。楽になりたいんですって。本当はそう言いたくて仕方ない」
 けれど、その「分かったようなこと」を敢えて口にした。ロックオンの顔がみるみるうちに青ざめていく。残酷な言葉を投げかけるかわりに、その姿をしっかり見ていようと思った。
「自分が原因で捨てられたんなら、そうやって諦めるような態度をとるなら、どうして僕のところに来たんだい? 今度は弟のせいにする? ライルに無理矢理連れてこられました、って」
「てめえ、いい加減に…!」
 立ち上がろうとするライルの腕をロックオンが黙って引き、強引に座らせる。俯いたままなのでその表情は分からなかったが、構わずに、続けた。
「甘えるのも大概にしなよ。君はもう選んだはずだ、ロックオン」
 こんなものは推測にすぎない。全くの見当違いで、彼の本音は別のところにあるのかもしれない。弱っている人間を強い言葉で誘導すれば大抵の場合流されてしまう。それは洗脳に近い。強いストレスで気づくことのできない、彼のなかの意志を押し流してしまう行為だ。
 ティエリアは自分の意志でロックオンのそばを離れたのだから、それを尊重すべきなのかもしれない。ロックオンが諦めるなら、それに納得すべきなのかもしれない。僕は第三者であり、本当は言えることなどなにもない。「分かったようなこと」を口にするべきではない。
 ―――それでも、僕はティエリアをひとりにしたくはなかった。
 とても冷静になれないくらい、僕は彼らがつくりだす共同体に肩入れしてしまっていた。
 この言葉が最善なのか、僕にはわからない。ただ、彼らは幸せになるべきだとは思う。
「……カタギリさん」
「なに?」
「シャワー、貸してください」
 そう言うなり、ロックオンは僕の返事を待たずに立ち上がった。居間を飛び出す彼の背中に、あわてて向かって右側だよ、と声をかける。まるきり予想外の行動に、ライルと二人で呆然としたあと、なんとなく顔を見合わせた。やがてシャワーの水音が聞こえ始めたとき、相手が口元をほころばせた。これまでの険しい顔に見慣れすぎていたため、少し驚いてしまった。
「…兄さんの言うとおりだ」
「え?」
「アンタ、口は悪いけど面倒見いいんですね」
 ―――不覚にも、返す言葉を失った。
 責められるとばかり思っていた。意図はともかくとして、彼の兄を追いつめたのは確かなのだ。しかしきちんと伝わっていた。最善かは分からないが、ライルの、かすかな笑顔を見られただけでよしとしようと思った。
 ようやく、こちらの口元も少しばかりゆるむ。床に転がっているがらくたの山からノート型の端末を拾い上げてから、シャワールームを一瞥した。まだ水音が途切れる様子はない。しばらく途切れないでいると祈りたい。これは親友との、最大の秘密なのだから。

「…おせっかいついでに、見せたいものがあるんだ」






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