人の吐息を肌で感じたのは初めての経験と感覚だった。刺激的な要素など欠片も無い、丸い匂いが鼻腔をくすぐり、それが人の放つ匂いなのだと知る。今まで嗅いだどんな匂いとも違う、曖昧で不確かで、温かいものだった。
 少し硬くなった指先が前髪を掻き分け、露出させられた額に唇が触れる。ちゅ、と短く音を立てられるそれだけの時間なのに、皮膚の感覚は恐ろしく鋭敏に触れてきた指を追った。触れられた箇所の皮膚の下で血液が慌しく流れ、体温が移るように熱を帯びる。その熱はいつも、すとんと胸の辺りに落ちて留まった。
「可愛いな」
 舌の先だけを使って囁くような声で睫毛が揺れる。また、吐息を感じた。生き物の感触なんて気持ちが悪いとばかり思っていたのに、この男の指先も唇も吐息も声も、不快に感じたことは一度もない。代わりに胸に灯る緩い熱があったが、それが何なのか理解することはできなかった。
 後ろ髪を撫で、掬い上げた手が耳の後ろをくすぐる。避けるように首を傾げたが、そんなことでは避けきれないことを自分でわかっていた。なのにそれ以上の抵抗もしない。指先が耳の後ろから顎を伝い、咽喉の一番柔らかいところに触れた。人体の急所だ。彼がその気になれば、その見かけに反して強靭な手は、この細い首などへし折ってしまえるだろう。
 けれども、その手を払おうという気は少しも起きなかった。顎の下で手が返され、甲のなめらかな感触が咽喉を滑っていく。目を細めて他の感覚を断ち切るように、その感触に集中する自分は不可解だったが、不愉快ではなかった。


「やっぱり服、買いに行かないか」
 戸惑いがちの声でそう言われたのは何度目だろう。
「いつまでも俺のじゃ、不便だろ? サイズも合わないし、好みとかもあるし」
「出かける用がないから不便はない。好みもない。貴方が拒否しない限り、俺はこのままで構わない」
「いや、俺は構わないんだけど、」
 ごにょごにょと不明瞭な呟きを続けるロックオンはあえて無視して、パソコンに向き直った。一般家庭に普及している中では比較的マシな機種で、なにより大したデータが入っていないから容量に余裕がある。秒刻みで更新されていく情報に目を通していると、肩に厚手のシャツがかけられた。ウールの触感を肩で直に感じ、そこが露出していたのだと気付く。ロックオンのTシャツは肩幅が合わないのですぐにどちらかの肩がずれ落ちてしまうのだ。もっともゆとりが十分にあるので動きに支障はない。露出による体温の低下はこうして即座に予防もされる。
「ほら、な。ティエリアの服、買いに行こう。身体を冷やすのは良くない」
「これで何も問題はないだろう」
 顔をホロモニターに向けたまま答えると、背後で盛大な溜息が聞えた。そんなに言うのなら、彼が勝手に調達してくればいい。わざわざ自分が行く必要を少しも感じない。
 モニターに羅列される数字が著しい変化を見せた時点で雑多な思考は終わり、意識はモニターに集中した。
 その日も偽名で開設した口座の金額が倍になったところで、トレードは強制終了を余儀なくされる。あと数時間粘ればもう倍にできる自信はあったが、そこまで執着する必要もない。ただ、絶え間なくやり取りされる情報の奔流に触れたくて始めたことだった。
「おやすみ」
 狭いワンルームのアパートには、まだ夕食のコンソメやコーヒーの匂いが漂っている。シャワーも浴びたし口内の洗浄も済ませたが、空気に味がついていて肌にぺったりとへばりつくような感触には中々慣れなかった。そうして毛羽立つ肌をなでるのは、彼の短い言葉一つ。その言葉をかけられると瞼が急に重くなり、被った毛布越しに肩を撫でられ前髪を掻き上げられると意識は下降した。それは急激な変化であるはずなのに、酷く穏やかな落下で、抗う気力を簡単に奪う。閉ざされようとする瞼の隙間から、横臥した彼と目があった。
 この時の目の色を、何と表現したら良いのだろう。暗がりの中、色彩自体はいつもと変わりないように見えるのに、視線を外すことが出来ない深みと鋭さがある。じっと見つめられ、身体が竦むのを感じた。見られることには慣れているのに。
 咽喉が急激に渇きを訴えた。声が枯れたのか、声帯が麻痺したのか分からないが、咽喉が息を呑むためにごとりと音を立てるのは分かる。胸の辺りが苦しいのは不整脈の兆候なのだろうか。ぎゅっと締め付けられるような感覚に、自分の手をそこへあてがいたかったが、指の一本すら動かせる気がしなかった。
 その緊迫を破ったのは、ふっと空気の抜ける音。瞬きをする間にロックオンは瞳の色をいつものそれに戻し、口元は緩い弧を描いていた。そこが綻びる。
「おやすみ」
 その言葉に、身体を苛んでいた緊縛は一瞬で溶けて消えた。毛布の下から手が伸ばされて髪を撫でられる。長い吐息が安堵を伝えていた。ロックオンの掌の下で全身の力が抜け、瞼が再び重くなる。毛布越しに掌の温度を、瞼の隙間から微笑をとらえながら眠りに身を任せた。




 そうやって慣れない他者の体温を受け入れ始めた頃、唐突にその供給が止んだ。いつも通りに古いアパートのドアから外へ出て行ったロックオンが、外出先―――おそらく職場である基地からだろう、一通のメールを寄越したのだ。
 ―――三週間ほど帰れない、と。
 他には、いつもの場所に金が置いてあるから食費はそこから出すようにだの、足りない場合のための口座の暗証番号だのがホロモニターに浮かぶが、それは意味を持って認識できない。情報の取捨選択は得意分野だが、それはいつもしんと冷え切った思考が意識的に選別している。今は、一つの情報以外がどうしても意識に残らない。関連する情報、たとえば理由を探したが、短い文面にはそれきりだった。彼の携帯端末を呼び出しても応答はない。
 メールを閉じて作業を再開し、ずっとモニターを凝視していたら腹がぎゅうと鳴った。空腹を訴えているのだと気付き、同時に周囲が暗くなっていることにも少し驚く。モニターの端に表示されている時刻はメールから8時間近く過ぎていた。ここまで長時間集中して作業したのはいつ以来だろう。ここで暮らしていると、すぐに食事だの就寝だのと急かされて作業はぶつ切りにされていた。
 軍からの支給品らしいカロリービスケットは、狭い部屋の一隅を占領して山積している。横領でもしたのかと疑いたくなる量だったが、支給に対して消費が追いつかない上に、押しつけて来る上官がいて困るのだと彼は笑った。なのに俺がそればかり食べているとすぐに取り上げてしまう。
 パッケージを破ってビスケットを齧る。空腹を感じていたはずなのに、一口飲み下せば満足してしまった。それ以上口に運ぶ気が起きないのだ。舌の上で細かく砕けたそれは酷く淡白な味で、正しくその点を俺は気に入っていたはずなのに。
 狭い部屋から匂いが消えた。コンソメの匂い、ローションやシェービングクリームの匂い、コーヒーの匂い。室温は適度に保たれているはずなのに、何の味もしない空気は酷く寒々しい。羽織ろうと思って手近に放り出されていた上着を手に取ると、それには微かに匂いが残っていた。刺激的な要素など欠片も無い、丸い匂い。ロックオンの匂いだ。
 時間が経つにつれ、部屋に染み込んだはずの彼の匂いは薄れていった。それを厭って僕はクローゼットから彼の衣服を引きずり出す。それらを纏い、鼻先を埋め、潜るように匂いを求めた。それがなければビスケットを飲み下すのにも苦労したし、モニターを眺める間も集中できない。
 寝袋に毛布を重ねた寝床に身を埋めても睡魔は一向にやってこなかった。ロックオンが寝間着に使っているスウェットを彼のベッドに広げ、そこに身体を重ねてやっと微かな匂いを見つけて、それを逃さないように浅い眠りを繰り返す。
 今、部屋には衣服が散らばり、ビスケットのパッケージや零れた破片が散乱している。なのに空気はいつまでたっても冷淡なままだ。早く彼が帰ってくればいい。苦笑しながら服やゴミを片付け、その手で私を撫でてくれればいい。こんな冷たい空気に触れさせないくらい、隙間無く私を抱きしめてくれればいい。




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