失敗だった。歪んだコクピットから引きずり出され、運ばれた病院で三週間のカプセル治療を言い渡されたのは、既にそれが決定した後だった。眼球の損傷は可及的速やかに治療しなければ明暗が分かれる。そう言われれば反論ができるはずもない。
 俺の立場も上官もそれを許しはしなかったが、懇願するようにストレッチャーの上で数分の猶予を貰い、気を遣ってカタギリさんが届けてくれた携帯端末でメールを打った。彼らは不審がったかもしれない。俺は常々、気楽な独り身―――正真正銘の独り身であることをほのめかし続けていたのだ。経歴と雑談以上のプライベートの事情を詳しく告げた覚えはないが、特定の相手を匂わせたことはない。事実いなかったのだ、つい最近までは。三週間という長さは、ティエリアと過ごした期間に匹敵する。
「犬は三日飼えば恩を忘れないって言いますよね」
 俺の手から端末を奪った上官は悠然と答えた。
「忘れられても、また口説きなおせば良いだけだ」
 ストレッチャーに並走する必要もないのに、わざわざ治療室の直前までついてきた上官には申し訳ないが、俺は戦績もフラッグの破損状況も、自身の負傷すらも大して心配はしていない。その容量は全てあの美しい同居人に捧げられていたのだ。
「では良い夢を。夢精くらいはドクターも笑って許してくれるさ」
 カプセルが閉じる瞬間に言われた言葉は、正直あまり笑えなかった。


 最初はペットか子どもができたような感覚だと、言ってしまえば高を括っていた。ペットに玩具やエサを買うのが楽しいように、与えたい食事を与えて着せたい服を着せようとする。それはどう取り繕おうとしてもエゴでしかない。なのに、戯れで猫にするように顎をくすぐったら、ティエリアは赤い双眸を細めて甘受したのだ。頬に掌をひたと当てると、わずかに丸みを持ち始めた肌がじわりと温もりを伝える。
 その温もりに酷く安堵した俺は、自分が淋しかったのだとおぼろげに理解した。淋しくなどなかった、というのは強がりにしかならないが、それを独りで認めるような強さは持ち合わせていない。認めることができたのは、淋しさとは違う感情が自分の中に生まれて、淋しさに飲み込まれる懸念がなくなったからだ。淋しいと感じても、家に帰ればティエリアがいる。あのアパートを“家”だと思えるようになったのも、ティエリアがそこで俺の帰りを待っているからだ。
 認識と共にティエリアに向かう感情も深みを増した。いくらでも触れていたくなり、いつまでも見ていたくなる。額や頬だけでなく、大きすぎるシャツの襟ぐりから零れた肩や、うなじにも口づけたかった。そうした感情の先に、あるいは原初にあるものの名前を、俺は知っている。けれどもそれを告げることは憚られて、俺の視線に気付いたティエリアを撫でることしか出来ない。
 思えばこの国に移住してから、特定のパートナーというものを持ったことは少なかった。いつか理不尽に奪われるのだと思うと、深い繋がりを持つことが酷く億劫だったのだ。そして俺の傍に来たがる女性は大抵、それを突き破ってまで俺の傍にいようとは思わないらしく、いつも適当な所で涙と共に次の確実な恋を探しに行ってしまう。俺はいつでもそれを冷ややかに見送った。結局、一番関わりが深い人間関係は職場のものになり、今一番親しい人間は自分の能力を見出してくれた上官と技術者だろう。
 時間がなくて素っ気ないメールしか打てなかった。携帯端末があれば十分だと、家用の連絡手段を置かなかったことが悔やまれる。けれども片目を負傷した無様な姿も晒したくはなかった。
 ああ、あの狭くて古い小さな部屋で、ティエリアは何をしているのだろう。あの薄い尖った肩を冷やしていなければいいのだが。


 目覚めた時、既に右目を覆っていた治療パーツは外されていて、視界は広くクリアーなはずだった。なのに真上にある蛍光灯は輪郭が歪んでいる。天井に入っている線もぶれたように見えた。
「お目覚めかな、眠り姫……、ロックオン?」
「っ、何でも、ありません……目が、乾いて、」
 治ったばかりの眼球が濡れた言い訳を、待っていたらしい上官は信じてくれただろうか。






 入院を勧める声を謝絶し続け、苦労して自宅療養と通院にこじつけた俺は、ようやく三週間ぶりの帰宅を果たす。錆の浮いたドアを前にすると、一気に鼓動が早まった。一刻も早く帰らなくてはと思いながら、恐怖があった。このドアの向こうは蛻の殻かもしれないのだ。カードの暗証番号まで教えたから、根こそぎ持って出て行く事だってティエリアにはできる。だから、基地を出るときも連絡はしなかった。家にいてもリアルタイムで帰ってこない可能性のあるメールに頼ってやきもきするのは嫌だったのだ。
 カードを通してセキュリティを解除する。あとはこの錆び付いたドアを開けるだけなのだが、それはやはり怖かった。開けて、一室しかない部屋にあの美貌がなかったら、
「きっと泣いちゃうな」
 我ながら情けない声を断ち切るように、ノブに手をかけ金切り声を上げるドアを押した。狭いワンルームのアパートだ。廊下などというものは猫の額程度しかなく、ドアを開ければ広くもない室内が一望できてしまう。視界一杯の床に服が散らかった惨状から、強盗の存在とティエリアの安否を考えた俺の耳に、か細い声が届いた。昔、雨の日に妹が聞きつけた仔猫の鳴き声にもよく似た。
「ロックオン?」
 それはベッドの上にいた。シーツが掻き立てられ、さらに俺の服が積まれた真ん中で埋もれるように座って、ぼんやりと俺を見つめている。
「ティエリア、」
「514時間22分48秒、経った」
 数瞬の後、それは俺がメールで送った時から現時刻までの時間を示しているのだと気付いた。メールを読んでから、ティエリアはずっと数えていたらしい。
 514時間22分48秒。その間、ティエリアはひたすらカロリービスケットを齧って生きていたようだ。破られたパッケージがそこらじゅうに散らばっている。おそらく部屋から一歩も出ていないだろう。倦怠感が漂う部屋に、待っていたというよりも出て行くのも面倒だったという印象を受けた。
 散らかった部屋に小さく息を吐きながら、ベッドのすぐ横に膝をつき、腕をベッドの上に重ねてティエリアの顔を覗き込む。
「ああ、きっちり三週間。お前のロックオンが帰ってきたぞ」
「嘘だ」
 冗談めかして言った言葉は即座に斬り捨てられる。俺はその時ティエリアの言葉を、拗ねている感情の表れだと捉えた。ティエリアがこの部屋で待っていてくれたことに安堵し、次いで喜びが溢れて浮かれていたのだと思う。
「嘘じゃない。帰ってきたんだ」
「嘘だ、あなたは私のなんかじゃない」
 思わず美しい顔を見直した。全てが整いきったパーツは、完璧なバランスで配置されている。多少眉間に皺が寄り、瞳が歪められたとて、美しいものは美しく、それが歪んでいることに中々気付かせなかった。だが、眦から大粒の涙が一つ零れたのを見て、それが大きな過失であることを知る。
「ティエリア」
「視認できない不確定要素に散々振り回されて、情報の処理速度は落ちるし、栄養の摂取だってままならなくて、眠ることすら満足に……っ、」
 滂沱のごとく流れる言葉は、嗚咽を孕んだ。
「あなたの匂いがなくなった。空腹になってもすぐに食べたくなくなって、なのにまた食べたくなる。それを繰り返して、眠ろうと思っても隣にあなたはいない!」
 意味の薄い感情的な言葉と嗚咽に、俺は自分の過失を知った。それ以上何も言わせたくなくて、腕を伸べて小さな頭を肩に抱き寄せる。最初強く抗った身体は、やがてぶつけるように倒れこんだ。シャツ越しの肩に歯が立てられ、爪が食い込み、目が伏せられた場所にはじわりと熱と濡れた感触が染みこむ。
「ごめん、ごめんな」
 髪を撫でた。なめらかだが、少し指に引っかかるのは丹念に梳かしてやる俺がいなかったからだ。
「こんなの、あなたの所為だ。ぜんぶ、全部あなたの所為だ。俺は、僕は、何も要らなかったのに、」
「うん、ごめんな」
 俺の匂いがしなくなったのは俺が帰ってこなかったからだ。食事を十分に摂らなかったのは、俺が作ることも食べることもしなかったからだ。そして夜も隣におらず、眠りを促すこともしなかった。
 俺はティエリアのことを何も知らない。ティエリアがどうやって生きてきたかなど、知ろうと思わなかった。だが、ティエリアが訴えたものは全部俺が与えたもので、俺がそれを与えることを止めればティエリアはそれを失う。失えば食べることも眠ることもままならないレベルまで、ティエリアをスポイルしたのは紛れもなく俺自身だ。だからティエリアは俺に縋る。俺が俺のエゴのためにそうさせた。
 狙撃のタイミングを掴んだ時のように、身体は勝手に動いてしまった。肩口に押し付けていたティエリアの小さな頭をそっと剥がす。膝をベッドに乗り上げ、抗うように身を捩る動きを背中に回した腕で阻んだ。少しもつれた髪に指を入れて、丸い後頭部を掌で包んで固定させる。不器用に縋りつく指に対する答えを、俺はこれしか持ち合わせていなかった。
 嗚咽を漏らす唇に、俺のそれを重ねる。唇から強張りが伝わった。もがこうとしていた身体からは力が抜けてずり落ちていくので、それを引き上げるように強く抱きしめる。
 ただ触れるだけのキスだったが、唇の弾力や間近に感じる吐息、そして頬に擦れる睫毛を感じるだけで五感は手一杯だ。唇から胸、爪先に至るまで充足していくのが分かる。もう決して離すまいと、腕の拘束を強くしながら思った。
 やがて、脱力していたティエリアの手に力が戻る。震える手が俺のシャツの胸の辺りを掴んで皺を作った。唇を一度離して薄く目を開け、鼻先が触れそうなほど近くにあるティエリアの顔を見る。長い睫毛が濡れて幾筋かの束になって、より濃く赤い瞳を縁取っていた。
「俺はティエリアが可愛いよ」
 下睫毛に溜まっていた涙が、瞬きで押し上げられて頬に零れる。それを唇で吸ってやると舌先に塩辛さを感じた。ごめん、と胸の内で小さく呟く。
「俺はティエリアが好きだよ。一番、大事だ」
 自分の変化にすら戸惑っている状態のティエリアに、これを告げるのは卑怯かもしれない。ティエリアの情緒はそんな感情にまで到達していないように思えた。けれども、俺ももうティエリアを手放せない。
「俺はティエリアがいるから淋しくないんだ」
 涙で濁った髪が頬に貼りついているのを、指先でそっと剥がす。赤くなった目元をできるだけ優しく撫でて、俺の言葉を咀嚼するのに必死な瞳を見下ろした。
「ティエリアが好きだ」
 もう一度、言葉にしてから顔を傾ける。瞼を伏せる途中で、ティエリアの濡れた睫毛が同じように伏せられるのが見えた。小さな唇はもう震えていなかった。