退席する方便として使ってみたものの、俺は屋外で本当に煙草を吸っていた。鼻孔を通り抜ける苦さは酷く懐かしい。目を細めながら、早まるばかりの動悸を落ち着けようと試みるが、上手くいきそうにない。隊長の脳天気な顔を見たら、それだけで銃口を向けてしまいそうだった。
 いくら隊長が他人のものに手を出す常習犯だからといって、俺とて自分の恋人を信じられないわけではない。こんなのは何かの間違いだ。そうに決まっている。隊長が他人のものを奪うというのも、実は九割方女性の方が隊長に惹かれてしまうからであるらしいし、その点は心配ないと思っている。ティエリアは隊長のことを必要以上に毛嫌いしているから。普段は何とかならないものかと思っているが、今ばかりは安心できる要因になった。
 そう。安心できる、筈なのだ。信じられる筈だ。動揺することなんて何一つない。ありえない。問題ない。
「……ぅ熱ッ!」
 考えている間に、火の点いている煙草に火を点けようとし、あまつさえ爪にライターの火を宛おうとしてしまった。思わず放り出したライターが地面に落ちて、ころころと吸い殻混じりの砂利の上を転がる。携帯灰皿を持ち歩けと再三言われているのに、どうにも改善の余地が見えない。こんなことだから喫煙者はいつまでも肩身が狭いのだ。
 のろのろとライターを拾おうとして、自分のインクまみれの手のひらに気づく。洗いもせずこちらに来たせいで、煙草にもライターにも、赤いインクがべっとりとついていた。相当に動揺していたのだな、とまるで人ごとのように結論づけて、苦笑を滲ませた。肌につくのも構わず、インクまみれの手で頭を抱える。
「あー……駄目だ俺」
 万が一あれがティエリアだったとしても、それを咎めることもないのだ。むしろ、引きこもってばかりの彼が、どんな理由であれ外に出て何かをすることは好ましく、歓迎すべきことである。こうしていつもと違うことに動揺するなど、みっともないエゴに過ぎない。
 少しずつ。少しずつだが、ティエリアは変わってきていると、思う。パソコンから目を離す時間が増えた。外の天気を気にするようになった。特に最近は、技術顧問とメールを交わしているらしい。突然名前で呼ぶようになったのは驚いたが。
 俺以外の外界を気にするようになってきて、以前ならばくだらない、と切り捨てていた無駄なことにも興味を示し始めた。それは彼の内にある空洞を埋めるためには大切なことなのだと思う。きっと、綺麗な蝶を展翅板に留めて眺めるだけでは駄目なのだ。空の広さを、太陽の温かさを知って欲しい。そして願わくば、俺のいるこの世界を綺麗だと言って欲しい。俺が、ティエリアのお陰でこの場所を好きになれたように。
 俺といるようになって弱くなった、と、いつだったか彼は言ったが、俺もティエリアといるようになって随分と余裕がなくなってしまった。前はパートナーが何をしてようが大抵のことは許容出来た筈なのに、今はちょっとしたことで嫉妬や淋しさに足を取られそうになる。相手のために、と散々綺麗なことを言っておいて、結局は相手を独占してスポイルしたいだけなのではないか。
 ざわざわと落ち着かない胸に紫煙を満たしても、一向に静まる気配を見せない。以前はこれだけで落ち着くことが出来たのに上手くいかない。禁煙を続けていたせいだけではあるまい。煙草よりも遙かに良いものを手に入れてしまったから。渇望する胸から吐き出す息は苦かった。
「カッコ悪ィ…」
「全くだ。喫煙などフラッグファイターの風上にも置けないな」
 短くなった煙草が不意に唇から奪われる。そのまま砂利へと投げ捨てられ、残酷に踏みにじられた。それを残念に思いながら、構わず真新しい箱に残ったもう一本に火を点ける。乾きかけのインクが箱とライターと煙草にぺっとりとついて赤く汚した。
「何か用か? ロックオン」
 背後から太陽光の透ける金髪が光った。アイスグリーンのまるい瞳に覗き込まれ、凍り付く。何故彼がここにいるのか分からなかった。先端に溜まった灰が、ぽろりと落ちて砂利に混じった。やあ、と挨拶するように掲げられた手のひらだけが白々しい。
「たたた隊長!!? 何でここに…、」
「カタギリに、きみと話をするようにと言われた。部下に聞いたらここだと教えられた。久しいな。禁煙は諦めたのか?」
 干渉しないでいようと心に決めた矢先にこれだ。どうしていいのか分からなかった。空気の読めない上官も困るが、気の回りすぎる上司もそれはそれで困る。十歳年下。美少女。長身。ボードの赤い文字が頭を過ぎり、更に隊長とカフェで楽しそうに話すティエリアが浮かんできた。人間の想像力は現実を無視して暴れる。本当に恐ろしいものだと実感する。
 問うか問うまいかたっぷり十秒ほど悩んだ後、なけなしの信頼が想像力と不安に敗北を喫した。その間も隊長はつま先で吸い殻を弄びながら、じっと俺の言葉を待っていた。しかし我慢弱い彼の沈黙はそこまでで、俺が口にする言葉を遮って先回りを始めた。彼の声は演説に向いた通りの良さで、俺の言葉など簡単にかき消されてしまう。
「あの、ティエ…、」
「言い訳はしない。おそらくは、きみの想像する通りだろう」
 真っ直ぐに俺を見据え、それだけ口にする。こんなときでも揺らぐことのないアイスグリーンと堂々とした口ぶりは、正直なところ、男の俺でも心を奪われそうなくらい恰好良かった。きっとどんな女性と別れるときでもこんな毅然とした態度を取るのだろう。彼がみっともなく執着し、縋ろうとする相手はいるのだろうかと、ふと思ってしまった。
 俺がそれこそみっともなく謗ったとしても、それが誤解であったとしても、きっと彼は黙って受け入れてくれる。強い力のある双眸はそれだけの覚悟があった。俺には持てない潔さが、あまりにも恰好良くて。
「隊長、貴方は――、」
 恰好良すぎて――逆に、腹立たしくなった。
 呼びかけながら、くわえていた煙草を砂利に捨てる。枷がなくなって自由になった口で思いきり怒鳴りつけた。
「馬鹿ですか!!?」
 上官に向かってこんな口をきくなんてそれこそ拳の一発飛んできても仕方がない。けれど、彼はこちらの剣幕に驚いて目を見開いただけだった。勢いに任せて続ける。インクまみれの赤い手を握りしめる。
「なんでもーそんなカッコイイこと言っちゃうんですか!? 色惚けてる人間の想像力甘く見ないでください! 黙ってると貴方とティエリアは俺の頭の中でとても口では言えないことになっちゃうんですからねっ! いいんですか!?」
 彼の肩を掴んで頭ごと前後にぶんぶんと揺らす。興奮しすぎて涙が出てきそうだ。目の前の男の態度とはかけ離れ、今の俺は思い出したら死ねるほどにみっともない。余裕など欠片もない。隊長ほどではないにせよ、昔の俺ならばもう少し揺らがずにいられた筈だ。それなのに今は、ちょっとした噂だけでこんなにも動揺してしまっている。
 俺に揺さぶられながら、隊長は甚だしい興味深さを以てこちらを観察していた。感情も演出も消し去ったまるい瞳はいつもより幼い。少し考えた後、口を開いた。
「……口では言えないこととは何だ? ロックオン・ストラトス」
 考えた末にそれか、と思うと頭痛がした。新手の羞恥プレイかと思った。けれどそれが計算ではなく純粋な疑問であることが分からないくらい、この上官との付き合いが浅いわけではなかった。やはり空気が読めない上官は非常に困る。
 しかし、これ以上話をこじらせるのも望まない。腹をくくって、金髪の癖毛から覗く耳に囁きを落とした。婉曲な言葉を選びそうになる自分を必死で抑え、出来るだけ伝わりやすいように。
「なんと!」
 俺の頬の赤さと、発言内容を思い出して十回は死ねそうな言葉選びが功を奏して、彼はうんうんと頷いて少し驚いてみせた。幼い子どもが初めて言葉を知ったような純粋な驚きように騙されそうになるが、彼自身、俺が言ったようなことを平然とやってのける相手なのだ。俺の想像力ばかりが逞しいわけでもない。紅潮した頬を自覚しながら、軽く息を吐いて続けた。
「こういう誤解を受けたくなかったら、事情を説明してください……お願いします」
「やぶさかではない」
 一歩間違えば脅迫と言ってもいい表現だったが、彼は快く口を開いてくれた。恥を捨てた甲斐があったというものだ。こんな妄想、二度と口にしたくない。万が一ティエリアに知られでもしようものなら、俺は迷わずノーマルスーツで宇宙に飛び込むと思う。
 こうして、俺の恥と引き替えに真相が明らかになり、一件落着となる筈だった。俺はなんだかんだ言って(あんな妄想をしながらも)ティエリアのことも隊長のことも信じていたし、この二人に限って間違いもあるまいと思っていたのだ。
 しかし、その読みが大きく間違っていたことが、彼自身の口から告げられる。吐き出された言葉を耳にして、俺は自分の耳を疑った。
「ティエリア・アーデに三億ほど積まれてな。会うことになった」
「………………は?」
 そんな、夕飯のメニューを口にするようにさらりと言わないで欲しい。平然と告げる隊長を前にして、自分の妄想などまだ可愛いものだと思い知った。人間の想像力は非常に恐ろしいものだが、現実がその想像力を凌駕することだって大いにあり得るのだ。





 ロックオンが突然姿を消したことがきっかけで、どうやら今回の賭けはお流れになりそうだった。その後の会議がグダグダだったのは、仕切り役を引き継いだジョシュアのせいだけではない。小さな講義室は、隊長がロックオンの恋人を寝取ったのだという話題で持ちきりで、どう頑張っても賭けるような流れにはならなかったのだ。
 やがてばらばらと解散しながら、ロックオンを慰めるための酒の席を用意しようとあれこれ話し合っていた。体育会系の男集団は得てして、女に振られた相手には過剰なほど優しいのだ。そんな皆の盛り上がりに水を差したくなくて、僕は特に訂正もせずその一部始終を眺めていた。
 というより、どうでもいいから早く仮眠を取りたかったというのが本音だった。体臭と埃とドーナツの油の匂いが混ざってこなれた白衣もそのままに、仮眠室のベッドに飛び込む。古いスプリングがギチリと悲鳴を上げた。沈み込むというには固すぎるベッドの感触も、全身にまといつく疲労のお陰で今はひどく優しい。
 ゆっくりと目を閉じて、淡いまどろみを楽しむ。僕はどんなに疲れていても寝付くまでに時間がかかる体質らしい。それをもどかしいと思うときもあるが、夢と現実の境目を行き来するぼんやりとした感覚さえもいとおしかった。
 明日からはまた別の仕事が山積するのだろう。だが、今は全て忘れて眠りにつきたい。睡魔という甘い誘惑は僕の足を取り、現実から引きはがされていく。
 ――その筈だった、のに。
(菫の……匂い?)
 鼻孔を掠めた甘い匂いに意識が引き上げられる。現実に足を向けざるを得なかったのは、それに覚えがあったからだ。確か以前、グラハムの部屋でふざけた彼に吹きかけられたのだ。あのときは暫く匂いがとれずに困った。たしなみ程度で済めばいいが、彼は加減を知らないからいけない。しつこくこびりついた匂いはシャワーを浴びてもとれず、しばらく頭痛に苦しめられたのを覚えている。忘れるはずもない。
 だから、てっきりグラハムがようやくの休息を取る僕を、からかおうとしているのかと思った。普段の彼の悪ふざけや意味不明な言動は、相手にするだけ不毛なので大抵のことは流すようにしている。
 しかし、今度ばかりは我慢ならなかった。何せ、徹夜の日数を数えられなくなるほど働いた後、可愛い部下達に引き留められ、なんとか意識を保ちきった後にやっとたどり着いたベッドなのだ。変人の気まぐれに付き合っている暇などない。
 欠片の理性が、周辺で眠っている戦友達を慮って声のボリュームを落とさせた。しかし、その代わりに精一杯の不快感と拒絶を滲ませて、言葉を吐き出した。
「……悪いけど、寝かせて欲しいな」
 そういって手の平を返し、追い返すそぶりを見せるのだが、その手を柔らかく握られてしまう。こちらの示した要望を飲み込む気はないということか。苛立ちがまどろみをなぎ払っていく間にも、安い仮眠室のベッドに、二人分の体重が乗り上げてスプリングが軋んだ。近づいていく菫の匂いが、僕の残り少ないキャパを奪っていく。
 目蓋の作り出したうすい闇が、人の気配だけを敏感に拾う。腹の辺りにかかる重みを感じたとき、何かが切れる音がした。そのときでも、音量を絞ることだけは忘れなかった。息に似た囁き声で、しかし、感情だけは伝わるように。
 目蓋を勢いよく押し上げた。
「いい加減にしないか、グラハム!」
 ――しかし、
「……ビリー?」
 僕の視界の中央に鎮座していたのは、白衣の天使だった。
 暗がりの中でも目立つ、白くシンプルなコスチューム。うっすらと膨らんだ胸の上の辺りにきっちりとボタンが留められている。そのまま視線を下に運べば、僕の腹をまたいであらわになった太もも。それを包むタイトな白いスカートは過剰なほど短く、ストッキングを留めるガーターベルトがちらりと覗いている。
 これは夢だ。咄嗟にそう思った。そっと相手を押しのけて夢の続きをまさぐろうとしたとき、身体を退けた指先が胸のふくらみをべこん、とへこませた。そうして探り当てた真っ平らの感触に哀しくなる。目を閉じても菫の香りは離れず、腹に覆い被さる重みも消えない。
 目蓋の裏に、コーヒーを被ったメイドの影が浮かんだ。とびきりの悪夢との二択を迫られ、僕は観念して再び目を開ける。今度は視線を相手の顔に固定する。完璧な卵形の輪郭。切れ長の赤い瞳。それを直視することを阻む眼鏡。
 そして。あのときのカフェと同じ、自分の恰好に何の疑問を持たない純粋な表情。
 なんて痛々しい。
 この子の悪ふざけは、なまじっか似合うだけに何より痛々しいのだ。
「……まったく」
 苦々しく吐き出してから、観念して身を起こす。腹の上にいた相手は、予想に反してあっさりと退いてくれた。残念ながら、睡眠より優先すべきことが出来てしまった。まず何よりも先に、羽織りっぱなしだった汚い白衣を乱暴に脱いで、ベッドの上でじっと僕を眺めるティエリアの肩にそれをかけた。
 突然の僕の行動に驚いたのか、珍しそうに肩に掛かった白衣を眺める。ついでにその短さから、ほとんど下着が見えそうな位置までまくりあがっているスカートを引き下ろしてやった。ロックオンにセクハラと罵られようと知らない。見たくもないものを見せつけられる身になれと言いたい。彼が下まで完璧に女性用をはいていたら、僕はきっと立ち直れない。
 眉間に指を当てながら、こちらをじっと観察する透明な双眸に、まず何を問おうかと逡巡する。しかし、その前に相手が口を開いた。腕に白衣を通し、第一ボタンを留めながら。
「やはり、フラッグの方が適切だったか?」
 至極真面目な顔で、全く予想外の質問をされて思考がショートした。この恰好と、仮眠室と、フラッグとの共通項が読めない。この意味不明さには覚えがあった。先日斜め読みしたばかりの論文でもない。一月前にあしらわれたばかりの女性の態度でもない。つい最近まで苛々しながら耳にした、彼の言葉――部下曰くの、グラハム語だ。




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